理想の飼主

 ペットと言ったら、みんなは何を思い浮かべる?
 犬とか、猫とか、鳥とか?
 変わったところだと爬虫類かな。
 俺はどれも飼いたいと思ったことがない。
 自分以外の命に責任を持つなんて怖いし、理想の飼主になれる自信も無いから。他にも理由はあるけど、とにかく動物を飼いたいとは思えなかった。
 でも、もしも自分が、飼われるペットの立場なら?
 ――それって気楽で、楽しそうかもな。
 密かにそんな風に思っていたからかもしれない、あんな事が起きたのは。


 夕方、生徒の姿もまばらになった都立高校の校舎。
 冷房はまだ効いてるものの、西日が斜めに差し込む教室の空気はじんわりと生温かった。
 終業式が終わり、明日からは晴れて夏休みだ。
 同級生達はみんな帰ったか、部活に行ってしまって、こんな時間に残っているのは俺一人。
 隅の机に面白くもない参考書を広げて、その上に突っ伏し、俺は悩んでいた。
(どうしようかな……。帰るか、もう少しここにいるか)  目を閉じて考えていると、引き込まれるような睡魔が襲ってくる。
 意識がふっと落ちかけた時、背後に立つ誰かの気配を感じた。
「犬塚、またこんなとこで寝てる」
 俺の姓を呼ぶ、甘くて低い艶やかな声。
 頭の後ろを誰かの手が優しく撫でている。
 温もりが心地よくて寝ているふりを続けていると、突然首筋に何か硬いものが触れ、驚いて目を見開いた。
 ――誰だ!?
 反射的に背後を振り向く。
 そこに居たのは思いもしない相手だった。
 白銀色の髪を後ろは短く切り揃え、前は長めに伸ばしたショートヘア、その頭頂部から生えたサファイアのピアスの付いた、丸っこい虎耳。
 学ランの黒ズボンに、明らかに学校指定のじゃない腕まくりしたリネンシャツを着て、骨太な腕には派手なライトグリーンのレザーブレスという、校則違反ギリギリの格好……こいつはどこからどう見ても、クラスメイトの獣人、虎谷青磁(とらやせいじ)だ。
「いい匂いだな……」
 相手は腰を折って俺の体にのしかかるように机に手を突き、唇が直に触れそうな距離でクンクンと頭の匂いを嗅いでくる。
 視界にごついシルバーリングが嵌められた指が見えて、それがさっき首に触れたのだと気付いた。
「――っ」
 俺は反射的に席から立ち上がり、振り向きざまに自分の椅子を相手に向けて蹴り倒した。
 シンとしていた教室に大きな物音が立ったが、虎谷本人はひょいと横に避けていて、涼しい顔をしている。
 仕方なく、無駄とは分かりつつ言葉で訴えた。
「勝手に触るなっ、あと匂いも嗅ぐな!」
 身長百九十に近い相手を精一杯睨む。
けれど虎谷は美貌に薄笑いを浮かべ、首を傾げただけだった。
「別にいいだろ。お前がオメガだからって襲ったりしねえよ……自意識過剰」
 駄目だ、こいつ言葉が通じない……っ。
「そういうことを言ってるんじゃない」
 もう何度目になるか分からない苛立ちに、俺は無意識に歯噛みしていた。
 ――俺、犬塚岬(いぬづかみさき)とこの男、虎谷青磁は去年入学した時からのクラスメイトだ。
 でも、決して友人という関係ではない。
 虎谷は獣人で、派手で目立つ容姿のせいかいつも女の取り巻きがいて、男子とは殆ど関わらないくせに、何でか俺にだけはこういう無神経な感じで絡んでくる。
 俺は正直この男が好きになれなかった。
 言動がとにかくマイペースだし、気に触ることも面と向かって言う。
さっきみたいに親しくもないのに触ってきて、すぐ人の匂いを嗅ぐのも嫌で仕方ない。
 しかも、毎回拒絶してるのにやめないし。
「犬塚」
 これ以上何か言っても無駄、と帰り支度を始めた俺を虎谷が呼び止める。
 無視していたら、不意に後ろから肘を掴まれた。
「……何だよ!?」
 キレ気味に振り向くと、感情が無いように見える色素の薄いアイスブルーの瞳と目が合い、ドキリとする。
 この目、苦手なんだよな……と思っていると、虎谷は一方的な口調で言いたいことをぶつけてきた。
「お前、髪のそれ何?」
「……それ?」
「殆ど黒髪なのに、横髪めくると金髪のところがある」
 咄嗟に自分の髪を指で掴む。
「わっ、若白髪だよ。そんなこと別にどうだっていいだろ! お前には関係ない」
「でもお前、なんか匂いが――」
 相手が口を開きかけた瞬間、廊下側で教室のドアがガラリと開いた。
「虎谷君! こんな所にいたの?」
「一緒にカラオケ行こうって約束したじゃん!」
 甘ったるい高い声が会話を遮る。
 視線を向けると、いつも虎谷に纏わり付いている女子達が扉の向こうで怪訝そうにこちらを見ていた。
 ハッとして天敵の方に向き直る。
「今度その話したら、直接蹴り入れるからな!」
 釘を刺し、俺は金髪を紛れさせるように髪を乱暴に払った。
 通学用のボストンバッグを机の横のフックから外して肩に掛け、女子達のいる方とは反対側のドアから逃げるように教室を後にする。
 校舎の出口へ向かう階段を下りながら、密かに唇を噛んだ。
(危ない……バレるかと思った……)  吹きだまった熱い空気でシャツの下が一気に汗ばむ。
 明かり取りの窓の外では、日が沈もうとしていた。
 俺には、学校の誰にも言っていない秘密が二つある。
 そのうちの一つは、俺が虎谷と同じく獣人だということ。
 といっても正確に言えば俺は獣人ハーフで、あいつのような純血種とは違う。
 親は人間の男性オメガと、犬獣人の男性アルファの同性婚。
 そして俺は、かなり人間寄りの男性オメガだ。
 人間寄りっていうのがどういうことかというと……。
 まず、獣人は一般的に自分の意志で「人間」、「獣」、「獣面人身」の三形態になることが出来る。
 社会では「人間」の姿で暮らし、家とかプライベートな場所でくつろぐときには「獣」、あるいは頭が獣で身体が人間という姿――「獣面人身」で過ごすのが一般的だ。
 ところが俺は生まれつき、「犬」か「人間」か、どちらかにしかなれない。
 昔からどう頑張っても、人間の父さん以外の家族の中で俺だけが、獣面人身の姿になれなかった。
 人間の姿をとっている時も、獣人であれば必ず残る痕跡――獣の耳が無く、ごく普通の日本人と全く変わらない容姿になる。
 正直言って獣人としてはかなり半端な存在だ。
 だから、ほぼ人間しかいない公立高校に通う俺は、自分が獣人ハーフだということを敢えて周囲に隠している。
 オメガである他はごくノーマルな「人間」で通した方が、人間社会には馴染みやすいはずなので。
 それなのにあの男――虎谷青磁だけは、何か察しているのかと疑わしくなるくらい妙に俺に絡んでくる。
 獣人が通う専門の高校には行かず、何故かごく一般的なうちの高校に入ってきた、校内唯一の純血の獣人。
 しかも虎谷は希少なベンガルトラの血統の白変種、ホワイトタイガーの獣人で、アルファだ。
 もしかすると彼は俺の正体に薄々気付いているのかもしれない。
 でも、素性を明かすつもりは更々なかった。
 発情期があり、妊娠可能なオメガという性だけでも色々偏見の目があるのに、もし素性を暴かれたら……もっと面倒臭いことになりそうだからな。


 都会のビル群の間にオレンジ色の太陽が沈み、街明かりが輝きだす頃、俺は学校から徒歩で十分ほどの、大きな川沿いにある自宅マンションにたどり着いた。
 東京のど真ん中に建築されてから二十年ほど経つ我が家は、メンテナンスがいいせいか、外観はそんなに古びていない。
 そのマンションの中層階の一室が俺の自宅だ。
「ただいま……」
 バレないようにコッソリ入る為、音を立てないようにドアノブを回したのに、そんな努力は虚しかった。
 奥のリビングの扉から、異色な俺の家族達が飛び出してくる。
「岬、おかえり!」
「ワンッワンッ!」
 騒がしい出迎えに包囲されて、静かな帰宅を果たすことに失敗した事を悟った。
 犬って何で気付くんだろうなぁ。
 左右から俺を挟み撃ちしたのは、人間の体に黄金の長毛種の犬頭が付いたパパと、メスの巨大なゴールデンレトリバー……じゃなくて、完全に四つ足の獣の姿になった妹の仁美だ。
 二人とも人間の姿にもなれるけど、今は家でリラックスモードなので、妹は犬の姿、そしてパパは頭だけ犬で身体は人型の(とはいえ全身毛が生えているし尻尾もある)獣面人身の姿で過ごしている。
 ちなみに外で人間に化けている時のパパは、警備会社の役員で、身長百九十センチ、穏やかな性格の金髪のハンサムな美中年だ。今は、Tシャツとハーフパンツに犬頭の被り物をした大男みたいに見えるけど。
 妹の仁美はスポーツ万能で、高校一年生ながら陸上では全国大会に出場する程の選手。パパとよく似たボーイッシュな金髪美人のモデル体型で、よく芸能界からもスカウトが来る。けど、今はただのやんちゃなゴールデンレトリバーだ。
「ワンッ、ワンッ!」
 タタキに下りてピョンピョン飛びかかって来る妹を撫でていると、犬顔のパパにギューっと抱きつかれて、肉球付きの手でナデナデと頭を撫で回された。
「岬は今日も父さんにそっくりの美人だなぁ。学校はどうだった?」
「どうだったって……俺もう小学生じゃないんだから」
 素っ気なく言って、毛むくじゃらのパパの顎をぐいと遠ざける。
 ハーフパンツの尻に開いた穴から出ている尻尾が、しおしおとうなだれた。
「岬が冷たい……」
「普通だよ」
 溜息と共に靴を脱いで真っ直ぐな廊下を進む。
 すると目の前のリビングの扉がバンと開き、そこからもう一人、第三の犬頭が飛び出してきた。
 料理中だったのかエプロンをしているそいつは、見上げるような身長と逞しい身体で俺をギューっと抱き締め、大きな犬舌で頬をベロンベロン舐めてくる。
「岬っ、岬お帰り!」
 家族の中で一番熱く鬱陶しい歓迎に、俺は懸命に顔を背けながら訴えた。
「あのさあ……毎日ちゃんと帰ってるだろ!? こういうのはもういいから……っ」
「何言ってるんだ。こんなの普通だろ? お帰りー」
 ツヤツヤの金毛を生やした垂れ耳の犬顔が俺のうなじをクンクンスリスリし、逞しい腕が背中を抱擁する。
 このとてつもなく犬っぽい弟が、俺のもう一つの秘密――双子の弟、犬塚航(わたる)だ。
 航は俺と同じ高校二年生。
 模試で成績が全国一位になるくらいの優等生、加えて武道の有段者でもある。
 パパ譲りの見上げるような長身に恵まれた体格で、人間になると太陽に透けるような金髪の、かなりの男前だ。
 物怖じしない明るい性格で、誰に対しても優しくて紳士的。ちなみに通っている獣人高校では来年の生徒会長就任が確実らしい。
 家では家事全般が得意で、双子の兄の俺を溺愛する、非の打ち所の無いアルファの男子高校生だ。
 二卵性の双子っていうのは、時として残酷な程、二人の運命が分かれる時があるもので……。
 はっきり言って、オメガで、大型犬の獣人としては小柄で(といっても人間の中では体格がいい方なんだけど)、成績も見た目も平凡な男子高校生の俺と、この弟は、並んでも全く兄弟には見られない。
 犬に変身すれば、見分けがつかないくらいそっくりなんだけどな。
 中学の時は兄弟一緒に獣人だけの通う学校に行っていたけれど、そこでは無責任な奴に散々色んなことを言われたものだ。
 「本当にお前獣人なのか」、特に「『あの』犬塚航や犬塚仁美の兄なのか」って。
 見た目が地味な人間な上、航や仁美と違って俺には、何の取り柄もなかったから。
 そんなことにうんざりしたのもあって、俺は弟や妹が通う獣人だけの高校に敢えて行かず、別の道を歩いている。
 けど、今俺が人間の高校に馴染んでいるかと言われたら、それはまた微妙なところで。
 もしこんな家族のことを知られたら、人間に馴染める日は益々遠ざかる気がする。
 ――そんな訳で俺は自分の正体と、そしてこの家族のこと、特に「双子」だってことを、高校では絶対に秘密にしているのだった。
 制服を脱ぎ、普段着のデニムとTシャツに着替えてリビングに入っていくと、奥のダイニングテーブルの上には既に温かな食事の用意が出来ていた。
 皆と一緒に席に着き、所狭しと並べられた大きな皿を前に手を合わせる。
 中華サラダと、山のように盛られた豚の角煮、野菜炒めにエビチリ。そしてパパの前にはいつもの、ビールの入った、キンキンに冷えた金属製のボール。
 犬顔だとジョッキじゃ飲めないのは分かるけど、あんな器でお酒飲んで本当に美味しいのか謎だ。
 食事が始まると、パパがそれぞれの皿に甲斐甲斐しく肉を取り分け、向かいの席では仁美が全身犬のままの姿でテーブルの皿に顔を突っ込み始めた。
 服を着るのが面倒なのは分かるけど、女の子なのに犬食いだなんて。この子将来大丈夫なんだろうか?
 同じ獣人類ならともかく、人間には絶対引かれるのに。
 でもウチの家族は誰も不思議に思ってない。
 パパも航も獣人の学校にしか行ってない純粋培養だから、普通の人間には異様に見えるのが分かっていないんだ。
 純粋な人間のはずの両親のもう片方も特に気にしてないみたいだし(だからパパと結婚したのかもしれないけど)、気付きようがない。
 微妙に疎外感を感じて心の中で落ち込む。
 俺って、どうしようもなく人間だ。
「今日は岬の学校も終業式だろ。帰りが遅かったけど、何かあったのか?」
 突然横から話しかけられてギクリとした。隣に顔を向けると、航の黒目勝ちの大きな瞳がじっと俺を見つめている。
「……部活が忙しかったんだよ」
 良心が痛みながらも、俺はいつもの嘘をついた。
 一応、居合道部に所属はしているものの、俺は完全な幽霊部員だ。
 でもあまり早く家に帰りたくないので、家族にはその事を言っていない。
 帰ってくると構われすぎて面倒だし、それになんていうか……最近家に居づらいんだ。
 俺は一番自然体で居られるのも、皆と違って獣じゃなく人間の姿だし、疎外感があるというか……。
 出来れば、早いうちに一人暮らしがしたいと思っている。まだ、誰にも言えないけど。
「なあ、父さんは?」
 わざと話題を変え、注意を逸らす。
 ちなみに両親のことは獣人の父を「パパ」、人間の父は「父さん」と呼ぶのがルールだ。
 航は器用に箸を使いながら垂れ耳をぴくっとさせて答えた。
「今日は残業だって。……そうだ、岬。明日、何か用事ある?」
「特にないけど」
「それなら、朝だけちょっと付き合ってくれないか? 久々に少し走りたいんだ」
「……」
 俺は少しだけ考え込んだ。
 航の言う「走りたい」というのは、完全な獣の姿の四つ足で思いきり運動したいという意味だ。
 獣人は元が獣なせいか、普通に暮らしているだけではスタミナが消化し切れない。
 アルファの航は特にそうで、たまに獣の姿で全力疾走して運動しないとモヤモヤしてしまうらしい。
 そんな時、一匹で町中を走っていると野犬と間違われて通報されてしまうので、必ず誰かが人間の顔をして後から付いていく(俺たちの間では、『飼主役』と呼んでいる)。
 見た目が目立たず、同じく夏休みの俺は適役という訳だ。
「分かった。いいよ」
 断る理由も思いつかず了承すると、航は無邪気に尻尾をブンブン振った。
「嬉しいなぁ、岬と走るの久しぶりだ!」
「ワンワン!」
 妹の仁美が羨ましそうに吠えだす。
「いやいや、二匹は収拾がつかないから無理」
 キッパリと断ると、彼女はしおしおと頭と尻尾を垂れた。
 可哀想だけどダメだ。二人がペースを合わせて走ってくれればいいけど、そうじゃないし。
「じゃあ、明日は四時起きな!」
 やる気満々の弟の言葉に、心の中でげんなりした。
 夏休み一日目からとんでもない早起きをする羽目になるなんて……。
 やっぱり俺、この犬すぎる家族に付いていけない。


 次の日の朝、俺はヌルヌルの舌で顔を舐めまくられる感触で目が覚めた。
 重くて毛むくじゃらの体の下から何とか手を伸ばして置き時計を取ると、朝の四時。
 俺の上に乗っているのは巨大な犬に姿を変えた航だ。
 意地でも目を瞑っていると、更に容赦のないペロペロ攻撃を食らう。
 ファーストキスは奪わないように唇は遠慮とか、そういう概念は弟にはないので、口を開けていると容赦なく中にも舌が入ってくる。
 長年の習慣だからやめろとも言えない。
「キュウンキュウン」
 俺がなかなか起きないものだから、航がしびれを切らし始めた。
「分かった、分かったよ」
 両手で柔らかな黄金色の毛をワシワシと撫で、ベッドから出てパジャマを脱ぐ。
 動きやすいハーフパンツとTシャツに着替えながら、背後で待っている弟に話し掛けた。
「お前、彼女とかいないのか? 女の子にやって貰えばいいじゃん。もてるんだろ」
 飼主役は、恋人が出来たらその相手がするのが普通だ。
 航にそういう子が出来れば、たびたび俺がその役目を引き受けさせられることもないはず。
 反応を確かめようと振り向くと、航はキチンとお座りしたままブンブンと首を横に振っていた。
「しょうがないなあ……」
 肩を竦め、自室を出て玄関で靴を履く。
 ――それにしても弟は、いつまで俺に飼主役をやらせるつもりなんだろう。
 学校も一時、俺と同じ普通の都立に行くとゴネていたし。
 双子といっても、俺たちはアルファとオメガだ。
 俺の発情期が始まってからは、部屋も別になったし、普通の兄弟らしく疎遠になってくのかな、と思っていたんだけど。
 なんて、考え事をしていたら航はマンションの外廊下の随分先に行ってしまっていて、急かすようにワンと鳴かれた。
 外に出ると、夏の早朝の新鮮な空気が体を包んだ。
 街は車通りも少なくシンとしていて、時折聞こえるのは新聞配達のバイクの音くらいだ。
 目覚めたばかりの都会の路地を嬉しげに疾走する航のあとを、自転車を漕いで追い掛ける。
 コースは、『飼主』の俺ではなく走る本人が決めるので、こちらはついて行くだけだ。
 途中で時々立ち漕ぎしながら追っていると、目の前を走る金色の犬の行く手がいつもと逆方向なことに気付いた。
 よく遊ぶ大きな公園の方じゃなく、俺の高校の方へ向かうような感じだ。
 今日から夏休みとはいえ、部活のために学校に来る人間も多い。
(早朝だし、知り合いに会ったりはしないよな……)
 何となく嫌な予感がしつつも、夢中で走る航の背中を追った。
 途中、信号が赤に変わり、急に止まれなかった航がグルグルと横断歩道前で旋回する。
「ワン!」
「おっと、危ない」
 両手で自転車のブレーキを掛け、ギギっと軋む音を立てながら止めた――その時。
 目に飛び込んで来た光景に俺は驚愕した。
 横断歩道の向こう側に、見覚えのある男女が二人並んでいる。
 二人とも制服姿で、男の方は――あの髪の色は見間違えようがない――虎谷青磁だ。
 格好は昨日と全く同じだが、シャツが着崩れて皺が増えている。
 恐らく昨夜は女子と一緒に遊び倒して、今日はそのまま朝帰りということに違いない。
「わ、航。俺ちょっと引き返していい?」
 慌てて言った時には既に信号が青に変わっていて、航が向こう側に向かって走り出した所だった。
「こら、航! 待てって――」
 叫んだ声が響いてしまったのか、虎谷が顔を上げて俺の方を見る。
 しまった……!
 と、思った時には既に遅かった。
「あれ、犬塚じゃん」
 虎谷が珍しいものでも見つけたような顔で声を掛けてくるのを、無視して思い切り自転車を漕ぎ、横を素通りする。
 周囲が静かなせいか、背中から女子のヒソヒソ声がハッキリと聞こえた。
「無視とか感じ悪……あいつ、変な噂あるよね。オメガだし」
「へーえ……」
 思わずブレーキを握りしめてしまい、自転車が止まる。怒鳴ってやりたかったが、思い留まった。
 大分先に行っていた航が心配顔で戻って来て、どうかしたのかと視線で尋ねてくる。
(気にするな、何でもない)  黙って首を振り、もう一度自転車を漕ぎだそうとしたその時――。
「おい、犬塚!」
 ごく至近距離から呼び止められ、ビックリして振り返った。
 気付くとすれ違って遠ざかったはずの虎谷が、いつのまにか目の前に立っている。
 横断歩道の向こう側では連れだったはずの女子が不機嫌そうな顔をしていた。
「……なあ、その犬って、お前んちの犬?」
 いつも淡々とした印象の瞳が、明らかにキラキラと……いや、爛々としている。
 普段と違う異様な感じに引きながらも、俺は無言で頷いた。
「メチャクチャカッコいい犬じゃん。ゴールデンレトリバーでこんなにでかくて毛艶がいいの初めて見た」
 目を輝かせる虎谷に、航が尻尾を振って近づく。
 その行動に驚き、俺は弟に必死に目で訴えた。
(こいつ、嫌な奴だぞ! 無視しろよ!?)
 ところが俺の思いはさっぱり通じず、弟はペロペロと虎谷の手を舐めだしてしまった。
(クソッ、誰にでも愛想が良いやつめ……!)
 仕方なく、二人の間を裂くように割って入る。
「ごめん、この子怖がりだから近付かないでくれ」
 強い口調で訴えたが、虎谷は聞く耳を持たない。
「いや、今俺の手舐めてたし。
ほんと、信じられないくらいカッコいいな。
ちょっとでいいから触らせて」
「ダメだって!」
 制止しているのに、俺の後ろからぬーっと航が顔を出し、どうぞと体を差し出した。
 ああもう、何やってんだ航!
 獣人って、人間の時に褒められても気にしないくせに、獣や獣面人身の自分を褒められるとやたら嬉しがるんだよな。
「虎谷、さっさと行けって! あっちで女の子待ってるじゃないか」
「いや、女とかどうでもいいし……俺はゴールデンと遊びたい」
「……っ」
 いつのまにか信号は赤になっていて、車が通り過ぎる横断歩道の向こうで、女子が怒って帰っていく。
 結局、俺たちは虎谷の気がすむまで付きまとわれることになってしまった。


 俺と航は虎谷を連れたまま、この近辺の防災避難場所になっている小さな公園に立ち寄った。
 滑り台と雲梯が一緒になった複合型の遊具が一つきり置かれ、あとは剥き出しの土壌に雑草がはびこる、普段はほぼ誰もいない殺風景な場所だ。
 こんな所に来るのは本意じゃないが、家に帰ったりすれば俺の自宅がバレるので、それは避けたかった。
「あー、マジでいい毛並み。メチャクチャカッコいいし、大人しくていい子だなぁ」
 隅に一台きり置かれた青いベンチに座った虎谷は、さっきから前のめりになって航の首筋の毛をワシャワシャ掻き回している。
 弟は自慢げに目を細め、もっと撫でろと顎を上げて要求していた。
 何で素直に撫でられてんだ……相手は同じ獣人だぞ。
 犬扱いされて、獣人としてのプライドはないのか?
 航をジロッと睨むが、全然通じてない。
「この子、物怖じしない性格なんだな。何歳くらい?」
 突如虎谷に訊かれ、航の後ろに突っ立っていた俺は滅茶苦茶に焦った。
「に、二歳くらい……」
 まさか十六歳と答える訳にはいかない。
「へえー、まだ大人になったばっかりか。毛並みがツヤツヤしてるもんな」
「ワン!」
 ううっ、嬉しそうにしやがって……。
 虎谷が犬から俺の方に視線を移す。
「前からお前、なんか犬の匂いがすると思ってたんだ。犬、飼ってたからだったのか」
 一瞬、心臓が止まりそうになった。
 俺……、犬臭かったのか……!?  握った手の平がじっとりと湿る。
「そ、そうだよ。うちは犬が三匹もいるからな……」
 誤魔化す目的でそう言った途端、またしても虎谷は食いついてきた。
「三匹! 犬天国じゃん。……なあ、家に遊びに行かせてくれよ」
 し、しまった。またしても失敗した。
「だっ、駄目だ! 絶対駄目!」
「何でだよ。ケチだな、犬塚……」
 普段は余り表情を変えない虎谷が、いかにも残念そうに眉を下げている。
 こいつ、そんなに犬が好きだったのか……意外だ。
「じゃあ、写真だけでも見せてくれ」
 更に食い下がられて、俺は当惑しながら考え込んだ。
 写真くらいならいいか……? しつこそうだしな。
 俺は虎谷の座るベンチの隣に浅く腰を下ろし、ポケットからスマホを取り出した。
 丁度正月に、家族全員で撮影した写真があったので、画像を呼び出して虎谷に差し出す。
「ほら」
 途端に相手は目を見張り、見たことのないような無邪気な笑みを綺麗な顔立ちに浮かべた。
「うわ……かっこいい犬が三匹もいる。これ親父さん? ……お前にそっくりだな」
「……よく言われる。性格は全然似てないけど」
「ワンコもみんなそっくりだけど、血、繋がってんの?」
「そう。こっちは女の子」
「へえ。今いるこの子はオスだよな。……なあ、他の写真も見せて」
 虎谷の大きな手が、俺の手からヒョイとスマホを取り上げる。
「あー! ちょっ、返せよ!」
 長い指が画面上で勝手に写真をスライドした瞬間、急に虎谷が押し黙り、鬼気迫るような顔で固まってしまった。
「……」
 一体何を見ているのかと覗き込むと、映っていたのはそっくりなゴールデンの子犬が二匹、下から見上げている写真で、俺と航の小学生時代のものだった。
「……兄弟? 見分けつかねえけど」
 ようやく口を開いた虎谷が無表情で俺を見る。
「そ、そう……」
「一匹はこのわんこだよな。もう一匹はどこ行っちまったの? 貰われた?」
 俺だよ――なんて言える訳がない。
「うん。小さい頃によその家に……」
 うまい嘘が思いつかず、俺は頷いた。
 虎谷が急に無口になり、航の背中を撫でながらしばらく画面に見入る。
 何だか様子が変だ。
 沈黙に居たたまれなくなり、俺は手を差し出した。
「もういいだろ。それ返してくれ」
 すると虎谷は顔を上げ、無理な要求を蒸し返した。
「……なあ、やっぱ家に行っていい?」
「なっ、何でだよ」
「犬見たい」
「……っ」
 強引な態度に困り果て、実力行使でスマホを取り返そうと手を伸ばす。
「やだよっ、早く返せってば!」
「じゃあ、この子犬の写真俺に送ってくれたら返す」
「はあ? ただのどこにでもいるゴールデンだろ」
「そんなことない。こんな美形の兄弟なかなかいない」
 なんだそりゃ。虎谷、犬マニアなのか?
 危ない感じがしたが、断ったらまだ付きまとわれそうだ。
「……っ、分かったよ。分かったから、返せっ」
 渋々承諾すると、やっと俺の手にスマホが戻った。
 虎谷が制服の尻ポケットから自分の端末を出す。
 長い指が画面を器用に操作して、女の子のアイコンがズラリと並ぶメッセージアプリ画面が見えた。
(こいつほんと軽薄だな……)  ケッと思いながら自分の方を見下ろすと、ほぼ百パーセント、犬のアイコンで埋まっている。
「……お前の友達全員、犬飼ってんの?」
 覗き込んだ虎谷に早速突っ込まれて、ウグッと答えに詰まった。
 飼ってねえよ、みんな親戚と家族だ。
 なんてことは言わずにさっさとID交換画面を出す。
「犬党が多いんだよ。電話出せ」
 通信してしばらくすると、新しい友達欄に、完璧な造形の白い虎の横顔が現れた。
 神秘的なアイスブルーの瞳、顔の周囲を飾る、芸術品のように美しい縞模様、純粋なピンク色の鼻。
 これが虎谷のホントの顔……。人間の時はともかく、……文句なしに凄くカッコいい。
 一瞬うっとり見入ってしまって、自分に驚いた。
(なっ、俺は何を騙されてんだ! 中身は虎谷だぞ)  慌てて我に返り、俺はメッセージ画面から手早くさっきの写真を送信してベンチを立った。
「ほら、もうこれで満足だろ!?」
 確認したが、相手の反応がない。
 気付くと虎谷は俺のプロフィール画像を拡大し、舐めるように見ているところだった。
「このアイコンって……」
 しっ、しまった! 俺のアイコン、みんなに合わせてつい獣の自分の写真にしてたんだ。
「……おっ、俺はもう行くから! ほらっ、お前ももう、行くぞ!」
 航の尻を無理矢理押してその場を離れる。
 逃げるように公園の外に出て、俺は置いてあった自転車に飛び乗った。
 動悸が止まらないまま、航を置いてく勢いで自宅方面に漕ぎ出す。
 大丈夫、犬になった時の俺は見分けが難しいくらい航にそっくりだ。アイコンなんかでバレる筈ない……。
「ワンッ、ワンッ!」
 どうしたんだと問うみたいに後ろから航が吠え、後をついてくる。
 でも俺は、決して自転車のスピードを緩めなかった。


 楽しみにしてた運動を中断させられた航は、獣面人身でリビングに出てきた後、やっぱり不機嫌になっていた。
「――あんな、急に帰らなくても……俺のこともちゃんと紹介してくれないし。さっきの彼、友達なんだろ?」
「あいつは別に友達じゃない。どっちかというと嫌いな奴だから、さっさと帰りたかったんだよ」
 ソファの隅に膝を抱えて座り、航の視線を避けて見たくもないテレビを見る。
 ところが弟は隣に腰掛け、この話題から逃げようとする俺の退路を塞いできた。
「でも、犬好きだし悪い奴じゃなさそうだったぞ。……もしかして、ネコ科だからって嫌ってるのか?」
 ちょっと説教めいた口調に、反発心が湧く。
「そういう訳じゃない。あいつが、いつも変な風にからかったりするから」
「からかう?」
「……。友達でもないのに時々絡んできて、勝手に匂いを嗅いでくる」
「獣人同士なら当たり前じゃないか。挨拶だろ」
 溜息が漏れた。……航は犬過ぎて話が通じない。
「俺はイヤなんだ。近寄られてわざわざ匂いを嗅がれるなんて、人間同士じゃ有り得ない。勝手に髪に触ったり、オメガだって人前で言ったり、……この前なんて、俺が風邪で体育休んだら『発情期か?』って訊かれたんだぞ。それもっ、授業中……っ」
「単に心配だっただけなんじゃないか? ネコ科の奴は周りを気にせずに振る舞うこともある」
「違う! 嫌がらせだっ……っ」
 思わず航を強く睨みつけた。
 犬顔の黒い瞳が俺のことをじっと見つめ返す。
 純粋過ぎるその目で見られると、居心地が悪い。
「……俺には、彼はごく普通の獣人に思えたよ。岬の態度の方が、俺には不思議だった。同じ獣人にまでわざわざ素性を隠して、人間のふりをするなんて」
 絶句した。俺の方が変……?
 虎谷じゃなく?
「実際何をされたわけでもないのに嫌うなんて、不自然だ。岬は最近色んなことを気にし過ぎてるんじゃないのか?」
 頭の奥がカーッと熱くなる。
 気付けば俺は立ち上がり、大声で叫んでいた。
「航には絶対分かんねえよ、俺の気持ちなんか!」
 今まで抑え込んでいたものが溢れて、言葉が止まらない。
「ちゃんと完璧な獣人で、しかもアルファだもんな。オメガで、中途半端な獣人で、けど人間にも馴染めない俺のことなんて……っ」
「み、岬……?」
 驚く航をそのままに、俺は身を翻してリビングを出た。
 自室に駆け込み、閉めた扉に鍵をかけ、戸を背にしてズルズルと座り込む。
(やってしまった……航は何も悪くないのに……っ)  苦い後悔が喉の奥に滲んだ。
 弟は高校に上がってからの俺のことを殆ど知らない。それなのにあんな風に怒鳴られて、きっと呆れただろう。
 家族の誰にも言っていないけれど……俺は、高校に友達が一人もいない。
 入学式直後、虎谷が俺の匂いを嗅ぎつけて、人前で俺に「お前、オメガだろ?」と言い放った。
 一気にクラスがざわついて、特に男子は警戒して誰も近寄ってこなくなった。
 俺も、自分から人間に近付くにはどうすればいいのかわからなくて、完全に浮いてしまって。
 でも部活に入ってはいたから、そこでは徐々に馴染めそうではあったんだ。違うクラスだけど、話す相手もいたし。
 でも一年の時の秋に、事件が起きた。
 更衣室で着替えていたら、突然、背後からアルファの先輩部員に襲われて……。
 当時の俺は何が起きたのか全く分からず、咄嗟に犬になってそいつに容赦なく噛み付いてしまった。
 どうも先輩は犬が苦手だったらしく、目の前で人間が巨大な犬に変身したことと、噛み付かれた痛みの両方がトラウマになってしまったらしい。
 彼は事件をきっかけに精神的に病んでしまい、その後一度も学校に来ないまま転校した。
 俺は、素性こそバレなかったものの、噂は学校中に広まった。一年の犬塚が先輩を怪我させた、と。
 それからずっと……一人だ。
 でもこんなこと、航には話せない。
 ――俺と双子でも、アルファで、獣人として何も欠けた所がなくて、明るくて、悩みなんかない弟には。
 勿論、両親は事件のことを知っている。
 人間の父さんは同じオメガだから、痛いくらい俺の気持ちをわかってくれたし、獣人のパパも噛み付いたのは当然だと庇ってくれた。
 でも、ずっと心のどこかにしこりがある。航が羨ましい、俺が航のように完璧な獣人で、アルファだったらという思いが……。
 だから、あんなことを言ってしまった。
 こんな気持ちは単なるやっかみだ……。
 暗い感情の渦に呑まれていると、部屋の隅で低いバイブ音が聞こえた。
 床に放り出されたスマホの画面が光っている。
 膝で四つん這いになって移動し、電話を取ると、ぼんやりと光る画面にメッセージが映し出されていた。
『写真ありがとうな』
 ――虎谷だ。
 ついさっき喧嘩の原因になった奴からのメッセージに、複雑な気分になった。
 元はと言えば、全部こいつのせいなのでは……。
 八つ当たりで一言嫌味でも言ってやろうかとメッセージアプリを開くと、カッコいい白い虎のアイコンと新しいメッセージが目に入った。
『今日、犬に触れて本当に嬉しかった。マジでいい子だな。撫でさせてくれてありがとう』
 百パーセント好意しかないと思えるその言葉に驚く。
 虎谷ってこんな奴だったか?
 目の前で虎谷の顔とか、姿を見ていないせいもあるかもしれないが、メッセージにはささくれた心をふんわりと温かくする何かがあった。
 ……それにしても素直というか、SNSのやり取りだと人格変わる奴なのだろうか。
『明日とか、また会えねえかな』
 さっき別れたばかりなのにもう犬に会いたがってるのが可笑しくて、可愛く思えてしまう。
 繋がってもすぐにブロックしてやろうかと思っていたのに、俺は思わず返信を打っていた。
『無理だ。俺、家帰ってからあの子と喧嘩した』
 送信すると、ちっちゃい虎のキャラクターがシクシク泣いているスタンプが返ってきた。
 うっ、くそ、なんだこいつ……!
 変に胸がときめく……相手は虎谷なのに。
 ……航の言う通り、こいつ、本当はそんなに悪い奴じゃないんだろうか?
 ドキドキと混乱してる内に、すぐ返信が来た。
『なあ、わんこの好物は何?』
 訊かれて、思わず微笑んでしまう。
『肉全般だな。ドッグフードとかは絶対ダメ』
『肉食系なのか。俺も肉は大好きだから気が合うな。調理済みのヤツじゃ物足りなくて、生肉食いたくなる。牛豚鶏だけじゃなくて馬肉とかウサギとかラムとかも好き』  うわあ、なんか虎っぽいこと言ってる……。
『他は?』
 訊かれて、俺は航の好物を思い浮かべた。
『梨とか、カボチャとか……あとトマトだな』
 メッセージを打ちながら、一体何をやってるんだろうと不思議な気分になる。
 弟と喧嘩するくらいあいつのこと嫌ってたのに、こんなやりとりをしてるなんて。
 でもさっき航に言われた事は、俺の心に深く突き刺さったまま、クエスチョンマークを発し続けていた。
 もしかしたら、虎谷は俺のことを嫌ってて嫌がらせをしてたわけじゃないのかな? って。
 俺はどうしても人間の常識で物事を考えてしまうけど、獣人の目から見たら……ひょっとすると、違うのかもしれない……?
『なあ、犬塚は明日ヒマ?』
 いきなり訊かれて、俺はスマホを持ったまま固まった。
 いつもだったら無視してるところだ。
 でも……。
『犬は連れていけないけど』
 釘を刺したが、相手は態度を変えない。
『それでいい。犬塚に付き合って欲しいとこがある』  その言葉にかなり戸惑った。
(犬抜きでも誘ってくるって、どういうことだ……?)  ごくりと唾液を飲む。
 親戚じゃない誰かに、外出に誘われるのは生まれて初めてだ。
 俺のことを犬好きの仲間だと思ったのか?
 もしかしたら、仲良くなろうと思ってくれている?
 画面に置いたままの指が震える。
 航の言うことを、信じてみようか……。
 苦しいくらい緊張が高まる中、俺はやっと『いいけど、どこ』と打ちかえした。
 すぐに既読がついて、返信が来る。
『犬を見にいくの付き合ってくれ』
 目が点になった。
 犬を見に……?
 ペットショップか何かに行くつもりなんだろうか。
 返事に迷っていると、またすぐに次のメッセージが映し出された。
『じゃあ明日、駅の一番出口に十時で』
 何をしたいのかはさっぱり分からなかったが、取り敢えず俺はオーケーの返事を出した。


 翌朝、俺は虎谷と約束した最寄り駅の待ち合わせ場所に向かった。
 昨日みたいに運動する為の格好じゃなく、ボタン周りだけ赤いチェックになってるデニムシャツとクロップドパンツ、それにスニーカーを履いてマンションを出る。
 いつも制服だから、普段着でクラスメイトに会うのは何となく気恥ずかしい。しかも相手はあの虎谷だ。
 避けてたはずの相手なのに、自分で自分の心境の変化がよくわからない。
(何やってんだ、俺……)
 緊張でガチガチになりながら、地下駅に入る階段の前でしばらく待っていると、すぐ背後にあるカフェの自動ドアが開き、そこから虎谷が現れた。
 どう見ても八頭身超えてそうな抜群のスタイルに、黒いジャケットとデニム、そしてシックな淡いブルーのシャツがすごく合っている。
「ごめんな、結構待った?」
 声を掛けられ、何も言えないまま首を左右に振った。
 整いすぎた綺麗な顔立ちが華やかに笑う。
「良かった。電車乗ろうぜ」
 頷くと、虎谷は俺の横に付いて階段を下り始めた。
 サラサラの白銀の髪を靡かせながら、まっすぐ伸びた長い脚で歩く虎谷はまるで海外のファッションモデルみたいで、すれ違う人がみんな二度見していく。
 近くに並んだことなんて一度も無いから、変に気が張りつめて心臓がどうにかなりそうだ。
 通勤ラッシュが終わり閑散とした改札を通り、エスカレーターを降りると、ちょうどホームに郊外行きの快速電車が停止したので、俺たちは一緒に乗り込んだ。
 空いているとはいえ座席は埋まっている状態の車内で、吊り革を掴んで並び立つ。
「どこまでいくんだ?」
 俺が尋ねると、
「……ナイショ」
 近くで見ると宝石のような瞳が、ニヤッと微笑んだ。
 ドキッと心臓が跳ねて、自分でも驚く。
「何だよ……行き先も言わず黙ってついて来いって?」
「そう」
 虎谷が笑うと目尻が上がり、その言動とも相まって、いかにもネコ科っぽい。
 目的地が分からないのは不安だけど、元々付き合う約束だったし、仕方ないか……。
 諦めてしばらく黙っていると、涼しげな色の瞳が俺の格好を上から下までじっと見てきた。
 不意に耳元に顔が近づいてきて、低く囁かれる。
「……犬塚、硬派な感じなのにそんな可愛い格好するんだな。……ちょっと匂い嗅いでいいか?」
「……っ」
 いつもだったら殴り飛ばしてるところだ。
 でも、航の「獣人同士なら当たり前」って言葉が頭に浮かんで、踏みとどまった。
「……ちょっとだけなら」
 身を固くしながら待ち受けると、一瞬片手で肩を抱かれ、香水の甘い匂いと共に整った顔立ちと厚い胸が接近する。
 真っすぐに通った鼻筋を髪に押し付けてくるその仕草は、仁美や航が俺にするみたいな感じじゃない。
 まるで恋人にするみたいな艶っぽい雰囲気だ。
 ううっ、これ本当に挨拶か!?
 しかも、相手は更に耳の辺りに唇をずらしてきて、甘くてよく響く低い声で囁いてくる。
「……犬塚の匂い、イイよな……」
 一瞬、耳たぶの裏に濡れたザラザラしたものが触れて、ズクン、と身体に震えが走った。
 腹の内側に甘くうねるような奇妙な感覚が生まれる。
 こいつ、今俺のこと舐めなかったか……?
 匂いの嗅ぎ方も、犬同士でするそれとは全然違う。
 何だか恐い、逃げ出したいと思うのに、距離が近過ぎるせいで変に魅入られてしまっている。
 この上なく美しい肉食獣に食われそうになる瞬間、何故かその相手に見惚れるように。
 ――耐え切れなくなって、俺は虎谷の胸のあたりをドンと突き飛ばした。
「いい加減にしろ……!」
 ところが相手は嬉しそうに笑っている。
マジで何考えてるのか分からない。
「今日は蹴らねえの?」
 からかうみたいに訊かれ、反射的に横に飛び退いた。
「次は蹴る!」
 ムキになって言ってやったけど、動悸がおさまらなくて会話もおぼつかない。
 なんだ、これ……。
 正体不明の感情を抱いたまま、俺は虎谷と一緒に電車に揺られ続けた。


 微妙な一時間半ほどを電車で過ごしたのち、辿り着いたのは郊外のとあるベッドタウンの駅だった。
 バブル時代、緑の多い丘陵地帯にニュータウンと駅が建設されたこの土地は、計画通りに増えなかった人口に手をこまねき、今も夏休みだというのにひどく閑散としている。
 虎谷のように派手な男が、歓楽街とかじゃなくこんな寂れた場所に来たがるなんて凄く意外だった。
 先に改札を通った背の高い後ろ姿を追いながら、堪えきれずに疑問をぶつける。
「なあ、駅前、なんもないけど……」
「あるよ。こっち」
 言われるがままに駅から続く広い道を歩いていると、確かにショッピングモールの入り口のアーチらしきものが前方に現れた。
 唐草模様の鉄扉で出来た門を潜ると、足元がアスファルトから赤茶けた石畳に変わる。
 突然左右に現れた外国の街並み風のテナントは殆どシャッターが下りていて、不気味なほど静かだ。
 一見開いているように見える店も、内部を覗くと空き店舗で、 廃墟のようなコンクリートの壁が見える。
 恐らくこの場所がメインストリートのはずなのに、俺たちの他に歩いている人間が見当たらないなんて。
 だんだん背中に冷や汗が湧いてきた。
 虎谷は何故こんな廃墟のような場所に俺を……?
 まさか……。
『調理済みのヤツじゃ物足りなくて、生肉食いたくなる。牛豚鶏だけじゃなくて馬肉とかウサギとかラムとかも好き』  ラインでやり取りしたメッセージが思い出される。
 生肉。牛豚鶏だけでなく。
 もしかして、犬とか……人間も?
 いい匂いって、そういう意味……。
「と、虎谷……っ」
 足が震えてもつれる。
「どうした……?」
 振り返った冷たいほど整った顔が微笑み、形のいい唇の奥に鋭い牙が光った。
「お、俺は……っ」
 帰る為の適当な言い訳が思い付かない。
 恐怖に慄きながら虎谷の後を歩いていると、急に目の前が開けた。
 ちゃんと店が開いている建物にたどり着き、家族連れが何組か通りかかるのを見て、一気に肩の力が抜ける。
「あ……」
「さっきのところ、シャッター街になっててびっくりしただろ? 奥はちゃんとやってるから」
 声が出ず、虎谷の言葉にただウンウンと頷く。
 まさか食われるかと思ったとは言えない。
 無言で歩き続ける内に、ガラス張りの建物の中に喫茶店がやっているのが見えた。
「……こっち」
 促されるままにガラスの横を通り過ぎ、少し行った先にある店の入り口まで行く。
 虎谷に続いて自動ドアを潜ると、大きな犬の吠え声に出迎えられた。
「わっ」
 一瞬びっくりして、改めてその店の中を見回す。
 陳列棚に並べられているのは犬の服や首輪、リード……どう見てもペットショップだ。
 なんだ、虎谷はやっぱりペットショップに行きたかったのか?
 でも、それなら何でわざわざこんな郊外に?
 不思議に思ってジャケットの背中を見上げる。
 彼は慣れた様子で店の奥へ入っていき、腰の高さほどのパーテーションで囲まれた一角に近づいていった。
 フロアの片側はガラス窓になっていて、さっき外から見えた小さな喫茶店がある。
 ペットショップの中に、壁で仕切られたカフェ。
 不思議に思いながら覗き込むと、客の座っているソファや椅子の間を何匹もの犬たちがウロウロ行き来していることに気づいた。
「犬カフェ……?」
 虎谷が振り向き、瞳を細める。
「犬カフェっていうか、保護犬カフェ?」
 一瞬意味が分からず、俺は首を傾げた。


 ――どうやら、虎谷の目的地はここだったらしい。
 テーブル席に向かい合って座り、ドリンクの注文をしながら店内をしげしげと眺める。
 カフェは保護柵に設けられた扉を開け、一人ずつ中に入っていくつくりになっていた。
 新しい客が気になるのか、犬たちが次々と寄ってきて匂いを嗅いでくる。但し、俺の方にだけ。
 犬はみんな成犬で、よくペットショップで見かけるような種類の子達が多い。
 プードルや、ダックスなどの小さい犬たちだ。
 中には毛が生え揃ってなかったり、ひどく痩せていたり、明らかに乳腺が腫れて乳房が垂れ下がっている子や、顔に痛々しい涙やけの跡がある犬もいる。
 壁には犬達のプロフィールが貼ってあり、生まれた年と名前、それから保護された経緯が書いてあった。
 虎谷によると、この喫茶スペースは、保健所で処分される寸前のところを動物愛護団体に引き取られた犬の、里親探しの場らしい。
 売り上げ利益は犬たちの為の費用となり、客は審査を経ればここにいる犬を連れ帰り飼うことも出来るということだった。こんな郊外にあるのは、テナント費用をなるべく節約する為らしい。
 俺は全くこういう店の存在を知らなかったので、普通に驚いたし、戸惑っていた。
 獣人はお互いに飼主のふりをすることはあっても、生き物を飼う習慣はほとんど無い。
 自分の獣身時と同じ種の動物は特に、「ペット」という風にはとても割り切れない。事実ルーツは同じだから、親戚みたいなものだし……。
 虎谷は結構ここに来ているみたいだけど、相当変わっているのかもしれない。
 慣れた様子でコーヒーを飲んでいる虎谷に、俺は疑問をぶつけた。
「……虎谷は獣人だろ。獣人て、ペットは飼わないんじゃないのか」
 どこか蠱惑的なアイスブルーの瞳がふっと微笑む。
「……普通はな。でも俺は犬が好きだから、いつかこういう所から一匹連れ帰りたいと思って、よく来てる。……今は未成年だから審査通らねぇけど」
 俺は黙ってうなずきながら、彼に意外な一面があったことに驚いていた。
 犬が好きでもペットショップとかで買うんじゃなく、こういう選択肢も視野に入れている虎谷が大人に思えて、素直に感心する気持ちが湧く。
 初めて虎谷のことをもっと知りたいという気持ちになり、思わず尋ねた。
「……なんでそんなに犬が好きになったんだ?」
 虎谷が視線を下げ、少し間をおいてから唇を開く。
「――小さいころに、犬に命、助けられた」
「命?」
 びっくりして聞き返すと、相手は頷いた。
「……昔、親の別荘のある田舎で、湖に落ちて溺れかけたことがあってさ。泳ぎは得意だったから油断してたら、濡れた服が重くて――その時、近くにいた犬が大人を呼んできてくれたお陰で助かった」
 なるほど、そんな事があったのか……。
 虎谷が頷く俺の顔をじっと見つめる。
「もう十年も経つけど、その犬の顔をずっと覚えてる。……ちょうど、犬塚から貰った写真くらいの子犬だ」
 十年前……俺も虎谷も小学生になったばかりくらいの頃だろうか。
 心の中に沈んでいた過去の記憶がよみがえる。
 ――霧の出ている早朝の湖。
 結わえた長い黒髪の後ろ姿。
 水音と、広い湖に浮かんだ小さなボート……。
 虎谷の思い出話とどこか重なる風景が俺の中にもあることに気付く。
 ……いや、ただの偶然だろうけど。
 心の中に浮かんだ情景を掻き消し、俺は虎谷に話を促した。
「それで犬が好きになったんだな」
「――そういうこと。……けど俺、昔から全く犬にモテねえんだよ」
 虎谷がぼやくように周囲を見回す。
「ここにしょっちゅう来て、周りの犬も俺の事を覚えてそうなのに、絶対誰も近寄ってこねえ。……犬のオヤツを注文して配ろうとしても、ほかの客からは手から直接食べてんのに、俺は床に置いてちょっと離れないとダメって……何でだろうな」
 首を傾げられて、俺は噴き出しそうになった。
「そりゃだってお前、肉食獣の臭いがしたら……」
「やっぱりそうか……犬塚んちのわんこは逃げないでくれたのにな」
 大袈裟に溜息を吐くのが何だか可愛く思えてしまう。
 こいつ、実はそんな悪いヤツじゃないのかも……。
 密かにそんな風に思い始めていた時、ふと気づいたように、綺麗な青い瞳が俺を見た。
「っていうか……人間にもわかるほど俺、虎臭いか?」
「……っ。俺、鼻がいいんだよ……クラスのほかのやつは気づいてねえと思う」
 慌てて首を振って言い訳すると、相手はホッとしたように破顔した。
 一瞬、その温かな表情が心に刺さり、俺の胸の奥が罪悪感でずくんと疼く。
 虎谷は俺に、自分のことを色々教えてくれた。
 でも俺は……。
 何故だか、目の前の相手と視線を合わせられない。
「……付き合ってくれてありがとな、岬」
 いきなり下の名前を呼び捨てにされ、面食らった。
「お、俺の名前覚えてたんだ……?」
 あんまり人に関心ない方だと思ってたから驚く。
「まあな。……俺のことも青磁でいい」
 そう言われて一瞬物凄く葛藤した。
 俺がいきなり虎谷のことを青磁って呼んだら、クラスの連中はどう思うだろう。
 俺はオメガで、虎谷はアルファで……。絶対「デキた」って思われるだろそれは……。
「無理」
 キッパリ言うと、相手の表情がすっと暗くなった。
「……」
 慌ててフォローするように言葉を付け加える。
「でも、俺のことは岬でいいから……あと、今までごめん。俺、虎谷のこと誤解してたかもしれない……」
 不思議そうに虎谷が肩を竦めた。
「誤解?」
「うん。女取っ替え引っ替えしてる不良だと思ってたけど、犬には優しいんだな……」
 ちょっと照れて語尾が小さくなりながらそう言うと、虎谷はぽかんと口を開いて訊いてきた。
「色んな女と遊ぶの、そんな悪いことか?」
 俺の上半身がガクッとテーブルの上でずっこける。
 が、すぐに体勢を戻して突っ込んだ。
「良くないだろ!」
「……でもみんな可愛いし、抱いて欲しがってるし、ギブアンドテイクだろ」
「そっ、そうだったとしても、そういうのは本当に好きな相手とだけするもんだろ……!? い、一歩間違えたら妊娠するのに」
 周囲を気にして語尾を弱めつつ責めると、
「そんなの避妊すりゃいいし、別に好きな相手とかじゃなくても気持ちよけりゃ問題ないと思うが……違うか?」
 全く悪びれない態度で返されて、絶句してしまった。
 ……ここまで価値観が違うとは……。それとも、虎谷の方が正常なのか?
 頭の中が混乱している俺の目の前で、虎谷は怜悧な表情を崩さない。
「俺の家は基本的に同族結婚だからな。好きって言ってくる女は拒まないけど、セフレでいいかちゃんと聞くし、あっちが執着してきそうならさっさと振ってる。別に悪いことは何もしてない」
 太い針でズンと刺されたかのように強く胸が痛んだ。
 同族結婚だけ……獣人の間じゃよくある話だ。
 人間と結婚してるウチの一族の方がそもそもおかしい。でもどうして今、胸が痛くなったんだ……。
 目の前で虎谷が優雅に微笑んでいる。
  「お前だってオメガなら、性欲処理のための相手ぐらい居んだろ……?」
 それを聞いた瞬間、俺の中で何かがぶち切れた。
「……おっ、お前と一緒にするな……っ!」
 激昂する俺に、キョトンとした表情が返ってくる。
「……もしかしてお前、処女で童貞……?」
 あけすけに訊かれ、顔が耳まで熱くなった。
「なっ……」
「マジか……オメガなのに、自分で全部処理してんの」
 公共の場でのとんでもない質問に絶句する。
「おまっ、大声でそんなことを……っ」
「……だって、驚くだろ……俺の周りにいるオメガは大概発情期用のセフレがいるし。……もしかしてお前――運命のアルファでも待ってんの?」
 その言い方が何だかバカにされてるようで、俺は気色ばんだ。
「そ、そんなこと……っ」
「マジか……今時純情すぎ……カワイイな」
 クスクス肩を揺らして笑われて、かーっと頭の芯が熱くなっていく。
「あのなぁ、おかしいのはお前の方……っ」
 怒りに我を忘れかけた時、虎谷が向かい側の席から手を伸ばし、綺麗な指先で俺の頬に触れた。
「……なあ、俺としてみる? 一生出てこねえ運命のつがい待つよりいいと思うけど」
 一瞬、頭が真っ白になった。
 今、何言われたんだ……?
 エッチの誘い?
 ……俺なんかに運命の相手なんていっこないから、自分のセフレになれって?
 ――最っ低だ。
 こいつのこと一瞬でもいいヤツなんじゃないかと……友達になれるかもと思ったなんて、俺は馬鹿じゃないか!?  悪気がある訳じゃない。
でも悪気があるより、もっとタチが悪い。
 天然のド悪人の、セクハラ野郎め……!!
 自分のソーダ水をまだ半分以上残したまま、バンとテーブルを叩いて席を立つ。
 ようやく空気を察して真顔になった虎谷に、俺は低く言い放った。
「……っ、俺は死んでもお前なんかとはしないっ! もう、帰る……っ!」


 結局俺は、保護犬カフェに虎谷を置き去りにし、ひとりで地元に帰る電車に乗りこんだ。
 空いている座席に力なく腰を下ろし、両手で顔を覆って俯く。
 何やってるんだ俺……。
 虎谷の言動にイライラして仕方がなくて、あれ以上一緒に居られなかった。
 だって、処女だの童貞だの言われた挙句、エッチに誘ってくるとか……。
 俺がオメガだから、他の女子みたいに誘えばすぐ乗ってくると思われたんだろうか。
 それとも経験がない事をからかわれただけ?
 どちらにしても凄くやり切れない。
 分かったのは、虎谷が俺を友達にする気は無いって事だ。
 ……別に俺は運命を待ってる訳じゃないけど、初めては好きな相手としたいと思うのはおかしいことか?
 ――物心ついたときから、アルファとオメガは、うちの両親のような関係が当たり前だと思いこんでいた。
 互いに一途で、気遣っていたわり合って、相手しか見えてないくらい愛し合っていて……。
 結婚して十七年経つ今も、彼らは発情期が来る度にマンションの別の部屋で二人きりで過ごしてる。
 でも流石の俺も今は、そんな「運命のつがい」が世の中にそうそう無いことは分かるんだ。
 分かるけど、だからといって俺の中の価値観を変えることはなかなか出来なくて。
 恋人はおろか友達もいない俺には、この先セフレくらいしか繋がりは望めないのかもしれないけど。
 グルグル考えていたら、涙が一筋頬に落ちて、慌ててシャツの裾で拭った。
 バカみたいだな、俺。
 こんな子どもっぽいから、虎谷もからかいたくなったんだろう……。
 電車に揺られながら肩を落としていると、ズボンの尻ポケットの中で電話が震えた。
 渋々スマホを取り出し、メッセージ画面を開くと、虎谷からだ。
『ごめん、岬。俺、何かやらかしたか?』
 何かやらかしたかって……天然にも程があるだろ。
 嫌なヤツなのに憎みきれなくて、いっそ笑えてくる。
 こいつはきっと、一生こんな感じなんだろう。
 悪気無しに人の気持ちを踏みつけて、そのことに気づきもしない。
 好きなのにセフレにされる女の子の気持ちにも、俺の心の傷にも。
 せめて犬に対する関心や愛情の一部だけでも、人に向けばいいのに。
 ブロックするか返信するか迷いながら、今までのメッセージを遡って眺めてゆく。
 最初に送った犬の写真の所まで来て、俺はふと思いついた。
 そうだ、俺がもし……航の……犬のふりをして虎谷の飼い犬になったら……?
 すごく懐いたふりして、あいつがすっかり犬の俺を好きになった頃を見計らって、お前なんか知らないって顔で邪険にしてやったら。
 あんな性格の虎谷でも、犬に裏切られたら、気まぐれに遊ばれて捨てられる側の気持ちも少しは分かるんじゃないだろうか。
 我ながら性格が悪いけど、それは何だか、すごく小気味のいい思い付きのように思えた。
 そう、余りに無神経なあいつを少し懲らしめてやる、それだけだ――。
 俺はスマホを手にメッセージを打ち始めた。

(続きは同人誌で読んで頂ければ幸いです)