俺の恋人は殺し屋だった

1プロローグ

 

 マロニエの緑の美しい、パリの初夏。

 俺は朝から大学の教室に閉じ込められ、難解な論述問題に立ち向かっていた。

 目の前には、横線だけが引かれたそっけないテスト用紙。

 試験時間はたっぷり三時間――既に二時間が過ぎていた。

 途中退室は一時間が過ぎたら可能だけれど、休憩はなし。

そのかわり、ペットボトルや食べ物の持ち込みが許されている。

 俺も周囲の学生と同じく、チョコレートバーをかじって糖分を補給しながら、一心不乱に解答を書いていた。

 講義机の上でひたすらペンを走らせ、ようやく書き終わったのが試験終了十分前。

 震える指で解答用紙をなぞり、修正液を片手にスペルミスをチェックしていく。

 紙の右端に書いた自分の名字と名前、生年月日と学籍番号を最後に確かめ、その部分を斜めに折った。

 テスト用紙は右角だけ、端っこを水で湿らせると糊付けができるようになっている(誰の解答用紙か分からないように隠して、不正採点を防止する仕組みだ)。

 その糊の部分をペロッと舐めてくっつけたところで制限時間が終了した。

 途端に周囲がガタガタと騒がしくなり、身体中から力が抜ける。

「ふーっ」

 深呼吸と共に、俺も跳ね上げ式の椅子から立ち上がった。

 人種も年齢もさまざまな生徒たちの中に交ざって歩き、無愛想な試験監督にテスト用紙を渡し終えると、解放感がじわじわと湧いてくる。

「やっと、終わったぁぁ……」

 最後の試験を乗り越えて、長期休暇――「バカンス」の始まりだ。

 回廊を通り抜け、鉄扉の間を抜けて日の光の下に出る。

白亜の建物の並ぶ昼下がりのカルチェラタンに吹く風が涼しい。

 道沿いの公園の眩しい新緑に目を細めて歩いていると、いつのまにかデニムのポケットの中でスマホが震えていた。

「アロー?」

 プラタナスの陰に入り、電話に出た。

 スピーカーから、低く落ち着いた声が耳に届く。

『マコト? 試験は上手くいったか?』

「うーん、多分。これでしばらくは図書館に通い詰めなくても良さそうだよ」

『そうか。……早く帰って来い。お前が喜びそうな昼飯を作った』

「え、何だろう? 嬉しいな」

 弾むような気分で石畳の上を再び歩き出した。

 電話の相手は俺の同居人のミーシャ。

 本名はミハイル・アンドーレエヴィチ・シロフ。

 元、ロシア出身の殺し屋……今は売れっ子の小説家だ。

 彼と俺――岡野誠は、紆余曲折あって恋人同士になり、一緒に暮らしている。

「じゃあ、なるべく早く帰るから」

 微笑みと共に電話を切り、俺は足を弾ませてメトロに続く階段を下りた。

 

2バカンスの始まり

 

 俺とミーシャが住むのは、十六区にある、築百五十年のアパルトマンだ。

 外観はナポレオン三世時代そのままの七階建てで、勿論、内部は現代の生活に合わせてモダンにリノベーションされている。

 一続きになった広めのリビングとダイニングを挟むように、個人の部屋がある間取りだ。

「えーと、鍵……」

 絨毯敷きの内廊下でジャンパーのポケットを漁っていると、勝手にドアが開いた。

「おかえり、マコト」

 目の覚めるような美貌を持つ、長身と素晴らしい体躯の青年が中から現れる。

 肩にこぼれる透き通るような長い金髪、吸い込まれそうな深いラピスラズリ色の瞳に華奢な鼻梁。

描いたみたいにきりっとした眉、大きくて形のいい唇――いつもどこか表情に乏しい彼だけれど、今日は凄く嬉しそうなのが雰囲気で伝わってくる。

「ミーシャ、ただいま……!」

 愛称を呼び、俺は両手を広げて彼の首に抱きついた。

 相手も、俺の身体が浮き上がるくらい強くハグを返してくる。

 戸を閉めて、頰と唇にチュッ、チュッとついばむようなおかえりのキスをされてから、いつもの質問が投げられた。

「何か変わったことはなかったか?」

「ないよ」

「尾行は?」

「ない。俺みたいな、いかにも貧乏そうな学生なんて誰も狙わないよ」

「……。俺とお前がどうやって出会ったか忘れたのか?」

 確かに、ミーシャは元・俺を殺しにきた男だけど……。

「お前の場合、尾行されても気付かないことがありそうで心配になる」

「そうかなぁ……」

 ミーシャは本当に心配性なんだ。大学に行っている間も俺の居場所を常にGPSでチェックしているらしい。

 愛されてるというよりも、子供扱いされているような気がしないでもない……。

「まあいい。お楽しみはこっちだぞ」

 ギリシャ彫刻みたいな横顔がリビングの奥へと向く。

 同時に、俺の胴が大きな手に掴まれて、ひょいと持ち上げられた。

「えっ?」

 びっくりしてフリーズしている内に、俺の身体が玄関ホールから奥のリビングへと連れ去られていく。

「おっ、重いだろっ、下ろしてっ」

 正直、俺は結構体格がいい方だ。

 持ち上げるなんて、かなり重いはずなのに……。

 ジタバタ抵抗しながらソファーの間を通り、開かれたカーテンの向こうから差し込む午後の柔らかい光の中に入る。

 そのまま一続きになったダイニングルームまでくると、木製のテーブルの前にストンと下ろされた。

「腹が減っただろう。座って食え」

 すぐそばの腰高窓から差し込む光の中、まるで王子様みたいに、ミーシャが俺の椅子を引く。

 素直にそこに掛けて食卓に向かうと、目の前に並べられていたのは、真っ黒な棒状の物体がのった大皿だった。

「……?」

黒い棒は、一本一本が俺の腕ぐらいの太さがある。

 これが、俺の好きそうなもの?

 どこかで食べたことあったかな……?

 固まっていると、背後のミーシャが口を開いた。

「……ロール寿司……のつもりなんだが」

 ほんのり不安のにじんだその言葉で、やっと正体が判明した。

「寿司!? 作ったの!? ミーシャが!? 俺も自分では作ったことないのにどうやって!?

 振り向いて矢継ぎ早に質問すると、彼ははにかんだような表情で肩をすくめた。

「インターネットで調べて、アジアンスーパーで材料を調達した。お前の国の料理を何か作ろうと思って……。好きじゃなかったか?」

 俺は感激と興奮で目を見開いたまま、首を振った。

「ううん、凄く嬉しいよ。――子供の頃、誕生日に何度か母さんが作ってくれたんだ……ずっと、もう一回食べたいなって思ってた。懐かしいよ、ありがとう……」

 胸がいっぱいになり、視界が潤んでしまって、慌てて手の甲で目尻を拭う。

「……ナイフと、箸を持ってくる」

 ミーシャが離れて、一度キッチンへと消えた。

 ――調べたり材料を調達したりするだけでも大変だったと思うのに、わざわざ作ってくれたんだ……。

 ボンヤリと巻き寿司に見惚れていると、ミーシャはすぐに戻ってきて、テーブルの前に立ち、銀のナイフで長い寿司を半分に切った。

その断面には、オリーブやチーズらしきものが見える。

 どうやら参考にしたのは、カリフォルニアロールに近い感じのレシピみたいだ。

 母さんが作ってくれたのとは違うけど、ミーシャが大きな手で食材をひとつひとつ、一生懸命巻いてくれたんだなぁと思うと、すごく愛おしかった。

 料理を半分ずつ皿に取り分けた後で、ミーシャが向かいの席に腰掛ける。

「いただきます」

 俺は手を合わせてから、箸で太巻きを持ち上げて端っこから食べ始めた。

 握力が強すぎるのか、ちょっと硬いけど……酢飯が美味しくて、子供の頃の思い出が心の中で蘇る。

 ……それでやっぱり、食べながら涙が溢れて止まらなくなってしまった。

「うぐっ、ごめん……泣くつもりは……ぐすっ……おいひいよ、みーひゃ……酢がひょうどいい感じ……っ」

 泣きながら巨大な寿司に必死で噛み付いていると、ミーシャが手を伸ばして俺の目を指で拭ってくれた。

「マコト、何で泣いてるんだ……」

「う、うれしすぎて」

 ボロボロ落ちて止まらない水滴を指で拭ってもらいながら、小さな声で告白する。

「ミーシャ、大好き……ありがとう」

 それを聞いた相手が驚いたみたいに固まり、目元をわずかに赤くした。

「マコト……我慢できなくなるからあまり可愛いことを言うな」

「我慢?」

「テーブルなんかひっくり返して、お前を押し倒したくなる」

「っ……」

 その言葉で頰が熱くなり、ようやく涙が引っ込んだ。

「そ、それは勿体無いから駄目」

 焦ってお皿を守ると、恋人はちょっと残念そうに微笑み、自分も巻き寿司にかぶりつき始めた。

 そういえば、試験勉強のためにずっとエッチなこともデートもお預けにしてたんだもんな。

 加えて、試験前に大事な約束をしてたことを思い出して、話題を変えた。

「そ、そうだ……! ミーシャ、前行こうって言ってたネズミーランド、いつ行く?」

 ネズミーランドは、ミーシャが記憶喪失で子供になってしまった時に行きたがっていた遊園地だ。

 大人のミーシャが今も行きたいかどうかは謎だったけど、試しに俺から誘ってみたら、あっさり行くことになった。

 今度のバカンスに入ったらと、約束していたんだ。

「……バカンスになったら行く約束だったから、明日から行くのかと思っていたが?」

 深い群青色の瞳がまっすぐに俺を見据える。

「あ、明日!?

「そのつもりでシャトルバスもモバイルチケットも予約してある」

「そっ、そうなんだ……あ、ありがとう」

 さすが元スパイ(?)、情報収集と行動が早すぎる!

 本当はしばらくゆっくり、家でイチャイチャしていたかった気もするけど。

 自分の部屋で閉じこもって勉強していたせいか、顔だってあんまり合わせていなかったしなあ。……なんて思いながら、恋人の顔をそっと盗み見た。

モデルさんみたいな小さな鼻と、高い頬。

官能的な、男らしい厚みのある唇が、巻き寿司の残り半分を食べるために大きく開く。

 長い睫毛を伏せて太巻きにかぶりついたその瞬間――何故か、エッチな記憶がふっと蘇った。

 あの口が、俺のを……。

 って、お、俺のバカ……!

 好意百パーセントで作ってくれたものに対して、なんてことを想像してるんだ!?

 罪悪感でいたたまれなくなり、無言でガツガツ巻き寿司を食べていると、ミーシャが視線を上げてこちらを見た。

「……もっと後の方が良かったか? ネズミーランドに行くのは」

 恥ずかしさといたたまれなさでブルブルと首を振る。

「いやっ、ううん、今すぐにでも行きたいよ!」

 なんで俺はこんな変なこと考えるようになっちゃったんだろう……一人暮らしをしてた頃は普通だったのにっ。

 コップの水を飲み干して、俺は椅子から立ち上がった。

「ちょ、ちょっとミネラルウォーター持ってくる……っ」

 テーブルを回って、キッチンに向かう。

ところが、食べていたはずのミーシャが素早く椅子を引いて立ち上がり、俺の胴を背後から両腕で掴まえた。

「わっ……」

「マコト」

 強引に腰を掴み寄せられて正面から密着し、デニムの股間を硬い太腿でグッと押される。

「どうして勃ってる?」

「……っ、こ、これはっ、違っ」

 どうしよう、せっかく作ってくれた巻き寿司で欲情しただなんて死んでも言えない……!

「こっ、これは疲れてるだけで……あっ」

 Tシャツ越しに乳首を摘まれて、擽ったいような淫靡な快感で吐息がこぼれる。

 ずっと我慢していたせいだろうか――ミーシャの熱くて大きな手の感触で、すぐに下半身がぞわぞわし始めた。

 乳頭を優しく指先で転がされながら、エッチな音を立てて耳たぶを吸われ、興奮で下半身が蕩けてゆく。

「……んぁ、は……っ」

 我慢できずに、熱っぽいペニスを自分から彼に擦り付けた。

 相手も硬く張った男性器を布越しにぐりぐりと俺のふくらみに押し付けてきて、それだけで下着の中がヌルヌルになってゆく。

「んん……っ、やめ、それ弱いから……っ」

「……可愛いな、マコト……愛してる……」

(続きは同人誌で読んで頂ければ幸いです)