聖騎士の盾


 火の粉に焼かれた喉が熱い。
 水が欲しい。
 体の全てが渇く。
 燃え盛る炎の向こう側から、悪魔の赤い瞳が自分を見ている……。
「……!」
 酷く不快な感覚で意識が浮上し、目が覚めた。
 横たわったまま、薄く開いた瞳で左右に視線を巡らせる。
 気が付けばレオンは下着だけを身に着けた姿で、見知らぬ部屋のベッドに寝かされていた。
「……――君、大丈夫かね?」
 見知らぬ年老いた男性が自分の顔を心配そうに見下ろしている。
「水を飲みなさい。欲しいと寝言で言っていた」
 首を支えて起こされ、乾ききった唇に素焼きのコップをあてがわれた。
 甘露のような水分を少しずつ喉に流し込んで飲み干し、改めて相手を見る。
 男性の着ている黒い僧衣には見覚えがあった。どうやらこの男は神に仕える者のようだ。
「ここ、は……」
 尋ねると、相手はほっとしたような表情になり、教えてくれた。
「ロキの町の教会だ。君はひどく衰弱して、川沿いに倒れていたんだ。エルカーズ人の服を着ていたから、最初は敵かと思った」
 ロキの町。
 戦場に向かう途中、最後に通り過ぎた町だった。
 馬に乗って逃れた時は酷い身なりだったが、今は清めてもらったのか、体は清潔になっている。
 どうやら自分は行くあてがないまま走り続けた挙句、喉の渇きが限界を迎え、川に出て水を飲んだ途端、疲労で昏倒してしまったらしい。
 ――酷いものだ。
 怪我がたちどころに治るおかしな体になっているものの、それ以外は、痛みも飢えも渇きも疲労も無くなりはしないのだから……。
「俺は、デンメルングの聖騎士でした。証拠になるようなものは何一つ持っていませんが……」
 ベッドに横になったまま身分を明かす。
 はげ頭に白く長い髭を生やした温厚そうな老人は、疑うこともなく頷いてくれた。
「そうか。私はこの教会の神父のジーモンだ。じきにこの町にもエルカーズが攻め込んでくるかもしれんが、それまでは幾らここに居ても良い。さあ、安心してもう少し眠りなさい。後で食べ物を用意しよう。――神のご加護を」
 神父の穏やかな言葉が安堵と共に胸の内に落ちてくる。
 ジーモン神父はベッドの傍に置かれていた木の椅子から立ち上がり、部屋を出ていった。
 ぱたんとドアが閉じる音がした後で、周囲をゆっくりと見回す。
 午後の穏やかな光が差す窓が一つあり、そのほかの部屋の壁は殆どが作り付けの本棚になっていた。
 ここは神父の私室なのか、本棚にはレオンが子供のころから慣れ親しんだような、古い聖書や神学書がところ狭しと並んでいる。
(あれだけの罪を犯したのに、神は、俺を見捨てていなかった……)
 無我夢中でこの場所にたどり着いたという事実に、漠然と、そんな気持ちが浮かぶ。
 団にも故郷にも戻れない。
 だが、もし神が許すのであれば、出来れば今までの暮らしに近い環境、こういった教会か、修道院のような所で身を落ち着けたい。そんな思いが心をよぎった。
 悪魔に汚された体とはいえ、一見すればごく普通の人間だ。
 良心は痛むが、人に迷惑がかかるようなことは無いし、戦場ではない場所で慎重に過ごせば、傷が治ってしまうことにも気付かれはしないだろう。
 神学関係の文献の沢山あるような場所なら、この不可思議な状態――自分にかかっている悪魔の呪いの種類や、解き方が分かるかもしれないと思った。
 それに、もしかしたらカインの正体も。
(カイ、ン……)
 その言葉を胸の内で呟くと、体中に疼きが走るような気がした。
 冷静になって考えてみれば、何故あの檻の中で自分は、カインに逢いたいと思ってしまったのだろう。
 しかも、抱きしめて欲しいなどと――。
「……っ」
 頬に赤みが差し、レオンは掛けられていた毛布を目の下まで引き上げた。
 極限状態だったからだ。
 今の自分はもう神に守られた聖域にいる。
 カインのことなど少しも求めていない……はずだ。
 まるで自分に言い訳するかのように記憶を否定し、目を閉じた。
「――お前なあ。ここまでたどり着けたのが、お前の神様のお陰だとでも思ってるのか?」
 突然、聞き覚えのある声が上から降ってきてギョッとした。
「……な……!!」
 ガバっと毛布をひっくり返すようにして飛び起き、同時に体中に残っている筋肉の軋む痛みに眉を顰める。
「……った……」
「無理すんな」
 投げやりな調子でそう言った相手に視線を向ける。
 先ほどまで神父が座っていた場所に脚を組んで座っているのは、長い銀髪を背中に垂らし、黒い襟の詰まった軍服を着たあの悪魔だった。
「……か、カイン、お、おま、お前……っ!!」
 とりすました美貌の相手に言いたいことがあり過ぎて、言葉が詰まって出てこない。
 毛布を握った指が白くなり、ワナワナと震えるばかりだ。
「お、俺の体に一体、何をした」
 やっとそれだけを言うと、冷笑が返ってきた。
「何をした……って、被害者ぶるな。お前が俺を呼んだんだろうが。ここで」
 トン、と裸の胸の真ん中を押される。
「呼んでない!」
「そうかよ。今だって俺の事を無意識に呼んだくせに。助けて損した」
「呼んでない、助けられてもいない! 一体何なんだ、この体は」
 文献を紐解くまでもなく、まさか直接本人に尋問する機会があるとは思わなかったが、レオンは激高して相手に詰め寄った。
「分かったよ、うるせーな。説明するから少し黙れ」
 カインが面倒そうに銀髪を掻き上げ、レオンの肩を片手で押し返した。
 荒い息もそのままに、艶やかな美貌をじっと睨み上げる。
 ――よく考えれば、悪魔とまともに会話をするのはこれが初めてだ。
 相手があまりにもざっくばらんな喋り方をするので、自分も遠慮が無くなってしまうことにレオンは気付いた。
 ……そういえば、アレクスのような友人同士でもこんな風に打ち解けて話したことはない。
 ある種不思議に思いながら、レオンはカインの言葉を待った。
「結論から言うとだ。まずプラス面だが、お前は今、相当な無茶をしても死なない体になっている。火に焼かれたり、首を跳ねられたりは別だ」
 赤い瞳を伏せ、カインがレオンの裸の首筋に指で触れた。
 ――火あぶりにされていれば確実に死んでいたということか。
 知って、ゾクリと背中に悪寒が走る。
「それから、年も取らない」
「!? なん……だと……」
「そっちの方は、人間としての活動が止まるという意味だから、どちらかと言えばマイナス面だな。俺たちの助力っていうのは、プラスとマイナスがセットだ。そしてお前に適用する時に、必ず助力の終了地点を決める必要がある」
「呪いを解く方法ということか」
「お前らの解釈で言えばまあそうだ。ふつうは俺たちの助力を得て目的を達成した地点ということになるが」
「目的……?」
 そんなものに覚えはない。
 訝しい思いでカインを見つめると、彼は美しい唇を引いてニッと笑った。
「お前が心から好きになった人間が同じくらいお前のことを好きになり、そいつとセックスした時だ」
「……っ!? カイン、お前えええええ」
 レオンの怒りが頂点に達する。
 ベッドから飛び移るようにして、派手な音を立てながら椅子ごとカインを床に押し倒し、両手でぐいぐいとその青白い首を絞め上げた。
「何でそんな事になってる!?」
「だから……お前が……無意識に……望んだこと……」
 確かにあの時、信頼を寄せていた総長を含め、団の全ての人間から排斥され、人の温もりが欲しいとは思ったかもしれない。
 それを悪魔に曲解されたのだとしても、今のレオンにとってその「目的」は余りにもハードルの高い難関だった。
 大体、他人を好きになるとか、そういうこと自体が全く理解出来ないというのに。
「どうしろって言うんだ! 俺はお前としかそんなことはしたことがないんだぞ!?」
 カインの両腕がレオンの両手首を握って冷静に引き離し、その赤い瞳が至近距離からこちらをじっと見つめた。
「……それは同情するけどよ。俺がお前の相手になって『呪いを解く』のは出来ねぇんだよ、ルール違反でな。終わりにしたかったら、他の人間を適当に探してどうにかしろ」
「……!?」
 言葉に、何故か心臓がドクンと跳ね上がり、呼吸が苦しくなってゆく。
 何故なのか分からないが、腹の内側に黒いものがしみ込んだような、嫌な気持ちになる。
 自分がこんな男のことを好きになる訳がない。あり得ないことを言われただけなのに、何故。
 動揺しているレオンのことはお構いなしに、悪魔はふっと挑発的に笑った。
「けどまぁ、この辺りの戦乱状態はこれからも続くだろうからな。そのままの体でいた方が何かと便利だと思うぜ」
「便利ってお前……!!」
 カインの体に馬乗りになったまま叫びかけて、やめた。どちらにせよあのまま檻の中に止まり、火に焼かれれば死ぬことができたのに、生を選んだのは紛れもなく自分だ。
 死にたいと口では言いながら、極限まで追い詰められれば、やはりどうしても生きたいと無意識に思ってしまった。その本心から来る強い気持ちがこの悪魔を呼んでしまったのだ。
 聖騎士としての規律に反してでも、結局、生きたかった――。
 情けない。
「……。首を締めて悪かった。この前のあれと、最後の余計なことはともかく、命を助けてくれたことだけに関しては、お前は悪くない。礼を言う……」
 レオンは掴まれた両手から手首を引っ張り抜き、顔を手で覆った。
「だけどもう、色々なことがあり過ぎて俺は疲れた……。後のことは自分で考えるから、もう一人にしてくれないか」
 相手の顔すら見ずにそう訴えると、レオンを膝の上に乗せたままカインが床から身を起こし、顔を隠す手をそっと外すように掌で退けた。
「……?」
 思わず視線を上げる。
 その瞬間、上背の高いカインの青白い頬が近付き、口付けで唇が塞がれた。
「……!」
 しばらく唇をぐっとひき結んで抵抗する。
 だがカインの両腕に裸の背が強く抱き締められた途端、ふっと歯列が緩んでしまった。
 熱い粘膜と唾液を一度受け入れてしまえば、温かな腕の中の安心感も相まって、頭の芯がぼんやりと蕩けていく。
(カイン……適当な誰かに呪いを解いて貰えと言いながら、何故こんな事を俺にする……)
 また自分の中の「無意識の望み」を読まれてしまったのだろうか。
 飢えていたものが確かに満たされていくような気持ちと同時に、また、胸に黒い染みのような感情が広がった。
 ――コン、コン。
 ドアをノックする音が聞こえた。
 目の前でカインの腕と唇が離れると同時に、砂が崩れ落ちるようにその姿が消えてゆく。
 全てが黒い砂になって床に落ちた瞬間にドアが開き、 湯気の立ったスープを持ったジーモン神父が入ってきた。
「おや、起きられたのかね。……どうした、顔が赤いぞ。それに泣いているのか?」
 訊かれて初めて、自分が涙ぐんでいることに気付いた。



 それから数週間――。
 レオンはロキの教会の有する古い修道院の一修道士として、自給自足生活の一環である畑仕事や家畜の世話をこなし、静かな暮らしを送るようになっていた。
 院には沈黙の戒律があり、ほかの修道士とは必要最低限以上の会話をすることもない。
 それが今のレオンには有り難いことだった。
 踝まで丈のある黒い修道服と、部屋は小さいながらも個室を与えられ、真夜中に目覚めて祈りを捧げ、日々の勤めを淡々とこなしてまた真夜中に床につく。
 そんな厳格かつ孤立した生活の中で、たまに世間話をしにジーモン神父が訪ねて来てくれる時だけが、外界と接触する唯一の機会だった。
 この修道院はまるで時が止まったかのようだったが、神父は教会のネットワークにより、世界で何が起きているかを非常に正確に把握しているらしい。
 ある日も、修道院の食堂で芋の皮むきをしていたレオンの元へ、非常に暗い表情をしたジーモンが訪ねてきた。
「やれやれ、聖騎士殿はそこにいたか」
 神父は食卓の上に籠を載せて作業をしていたレオンを見つけると、急いだ様子で近づいてきて、隣の椅子に腰を下ろした。
「聞いてくれ、レオン。この所どうもエルカーズの軍隊の動きがおかしいと思っていたら、事態はもっとひどいことになっていたようなのだよ……」
 よほど興奮しているのか、彼は木綿の布でしきりに額の汗を拭いている。
「……どういうことです」
 ただならぬ彼の様子に、レオンはナイフを持つ手を止めて訝しんだ。
「いやいや、仕事は続けたままでよいから聞いてくれ」
 ジーモンが喘ぐような溜息をつき、話し始める。
「エルカーズの王は数年前から古代の秘術を用いて、異次元に住む悪魔を次々とこの世に召喚し始めたのだが……最終的な目的である悪魔の王、バアル神を召喚することに、遂に成功したらしい」
 その名前に聞き覚えがあり、ハッとした。
『俺を悪魔なんて呼ぶんじゃねぇ。エルカーズの主神バアルの息子、アビゴール・カイン様だ』……。
(――カインの、父親だ)
 ドクドクと心臓が高鳴り、息が苦しくなる。
 神父はそんなレオンには気付かずに言葉を続けた。
「ところがだ、その悪魔の王の力というのが余りにも強すぎて、肝心の王がそれをコントロール仕切れなかったらしい。エルカーズの首都は混乱状態だというんだ。そうなればもう戦争どころじゃないのかもしれんが――別の意味で、非常に心配だ」
 レオンは平静を装うため、再びナイフを動かしながら頷いた。
「この町はエルカーズの南の国境に一番近いですからね」
 ジーモンがすっかり白くなった長い眉を伏せる。
「悪魔というのは人間の欲望を叶える以外にも、姿形を変えるなど様々な術を持ち、非常に強大な力を持っておる。エルカーズの領内では、悪魔の力と接触して、体がまるで化け物のように変化してしまった人間が次々と増えているらしい。あるいは、一見見た目が普通でも、悪魔の庇護を受けている者もいるとか」
 その言葉に、ナイフを持っていた手元が思わず狂った。
 ざっくりと親指の腹が切れ、鮮血が噴き出す。
「……っ!」
「? 怪我をしたのか? 大丈夫か、レオン。今、包帯を借りてきて――」
「いえ、結構です……! 自室にありますから、自分で手当てをしてきます。お話しはまた後で」
 慌てて席を立とうとしたジーモン神父を、レオンは必死に制止した。
「――失礼します」
 怪我をした左手を右手で抑え、本来は決して慌てて通ってはいけない薄暗い修道院の石畳の回廊を、逃げるように走っていく。
 もう既に左手の傷は癒えている……。
 毎朝目覚める度に、自分にかかっている呪いを意識する。たとえ表向き平穏な生活を送っていても、何よりこの体が、自分に仕掛けられた因果を忘れさせてはくれなかった。


 あれからカインは一度も現れていない。
 あの口づけを最後に、もう二度と会うつもりはないということだろうか。
 呪いの解き方をわざわざ教えに来たということは、そうなのかもしれない……。
(――カインなら、エルカーズで何が起きているのか、もっとよく知っていたかもしれないな)
 自室の質素な机の引き出しから包帯を出しながら、レオンはふとそう思った。
 神父に限らず、エルカーズに近いこの街の住人にとって、隣国の動向は何よりも知っておきたい関心事だ。
 悪魔本人から話を聞くことが出来れば、ジーモンや周辺の町のため、役に立つかもしれない。
(俺の心に呼ばれたと言っていた、確か……)
 傷が出来なかったことを隠すため、左手に白い布を巻きながら、レオンは頭の中で一心にカインの名を呼んだ。
(カイン……カイン……カイン)
 だが、何度呼んでも彼は現れない。
 レオンの座っているベッドと、それから机だけしかない部屋はシンと静まり返っている。
 この小さな世界の中で動いているのは、窓の外の糸杉の葉が風に揺られて出来る、光と影だけだ。
 余りにも何も起きず、カインの名を唱えるのをやめた時――レオンはハッとした。
 この神聖な場所に悪魔を呼ぼうなどと、一体何を考えていたのか。
 仮にも今、自分は修道士なのに。
(全く、何をやっているんだ俺は……っ。あいつは悪魔だ、友人でもなんでもない、ただの悪魔なのに)
 そして気付いてしまった。
 自分があの悪魔にもう一度、会いたがっているということに。会う為の口実を、見つけようと思ってしまうほど。
 酷く情けなかった。
 だが結局は――彼の温もりと、あの時の快楽が忘れられないのだ。
 こんなに苦しいのは、きっと彼の「それ」しか知らないから。
 今頃カインはあざ笑っているだろうか。
 日が沈むたびに、あの夜を思い出して悶々と苦しみ、それをどうすることも出来ずにただ掛け物の中で汗ばんで、寝返りばかりしている自分を。
 興奮や衝動を我慢することが以前のようにうまくできなくなり、一度引き起これば抑え付けることすら耐え難くなっていることを――。
 半ば自暴自棄のような気持になって、レオンは自分の分厚い修道服の裾を乱暴に掴んだ。
 ベッドに上半身を倒しながら、徐々に長い布をたくし上げる。
 フードの付いた、足元まで丈のある修道服の下は、シャツと下着だけだ。
 布をめくり上げて白い両脚を露わにし、下着の股を閉じている紐を引いて、震える指でペニスに触れる。
 目を閉じ、そっと握りこんだだけで、そこは期待に満ちて充血し始めた。
 ――この神の住処で、なんという浅ましいことを。
 ――いや、あいつのことを、もうこれ以上考えない為だ。仕方がない。
 理性と衝動が二律背反し衝突する。
 上気して薔薇色になった唇でたくし上げた裾をしっかりと咥え、レオンはゆっくりと指でペニスを擦り始めた。
「……っん……ふ……」
 だが生まれて初めて一人きりで行うそれは、余りにも拙ない。
 なかなか集中することが出来ず、興奮を高め、開放してやることが出来なかった。
(あの時は、一体どうやっていたんだ……?)
 懸命に思い出そうと目を閉じる。
『上手だ、レオン……指の腹を使え――』
 低く艶のある声が耳元で蘇る。
 持ち方をもっと軽く触れるようにし、爪が当たらないように優しく、だが素早く皮膚を上下させた。
「……っ、ン……!」
 トロ……と先走りがこぼれ、指先が濡れるのが分かった。
『もっと速く――』
 体を横倒しにし、クチュクチュと水音を立てながら更に自分を追いつめてゆく。
『ストップ、ゆっくり……剥いた所は触るな――』
 そう言われたことを思い出して、そこに触れてみたくなった。
 指で皮膚をしっかりと下げ、テラテラと光るほど濡れている亀頭のぬめりを掬い、そのまま皮膚の剥がされた部位に指をずらしていく。
「……っクぅ……っ!」
 そこが、ほかの部分に比べて痛い程感覚が鋭敏になっていることに気付き、目を見開いて動揺した。
 ずっと皮膚に守られていた部分のせいか、少しでも乱暴に触れると耐えがたい感覚が走る。
「ふーっ、ふうっ」
 唇に加えている僧衣が唾液でじっとりと濡れ始めている。
『すげえ感じ方してんな……』
 あざ笑うような幻の声が、耳朶を愛撫する。
 もっと感じたい一心で、レオンはもう一度注意深く、カインの残していったその痕跡を指でなぞった。
「っ、うっ――っ」
 ビクビクと腰を揺らし、下腹に強い緊張が走る。
『お前、俺に触れて欲しいのか』
 幻聴が囁くように優しくレオンに尋ねる。
「……んぅ……っ、」
 目じりに涙をにじませ、頷く。
 幻が両腕を広げて背中から包み込むようにレオンを抱きしめ、手の甲に指を添え、首筋に口づける。
『……イク時はイクって言えよ……』
 グチョグチョになっているペニスを激しく扱きながら、レオンはついに唇に咥えていた布を落とした。
「……く……っ、カイン……っ、あ……っ、イク……う……っ」
 溜まりに溜まっていた精が、ようやく出口を得て勢いよく掌に吐き出され、指の間からダラダラと溢れ出る。
 ハァハァと激しく呼吸を繰り返しながら、レオンは自分に絶望した。
 悪魔のことを忘れたくて自らを汚したのに、結局最後はカインの名を呼んでいるなんて。
「もう……何で、こんな……っ」
 汚れていない方の指で黒髪を掻き毟り、自己嫌悪に唇を噛む。
 ――こんな体になってしまった。あの、悪魔のせいで――。
 恨めしい、だがそれでもなお、心のどこかでもう一度会いたいと思っている。
 決して口にすることの出来ない苦しい気持ちを抱え、レオンは部屋の中で一人、濡れたはしばみ色の瞳をぎゅっと閉じた。


 教会と、レオンの暮らす修道院は隣接してロキの街の丘の上に立っている。
 鐘撞かねつき堂の上から見渡すと、視界の範囲内に全体が収まる小さな町だ。
 南北を流れる川を囲むように素朴な木造の家が密集し、その周囲を幅7フィート(約2メートル)、高さ30フィート(約9メートル)程の、十分に高いとはいえない環状の市壁に囲まれ、そこに設けられた4つの市門に通じる通りが縦横に走っている。
 町独自の武力は自警団くらいしかない。
 国境を守っていた聖騎士団が崩壊してしまった今、家や商売を捨ててもっと南へと逃げるものも多く、夕暮れ時の町は閑散としていた。
 エルカーズの首都は混乱しているという話だったが、果たして軍は引き揚げたのだろうか。
 教会の鐘楼から螺旋階段を降りてゆくと、まさに塔を登ろうとしていたジーモン神父に出会った。
 広い額に汗を浮かせ、酷く焦っている。
「どうしたんです」
 つかまえるようにして尋ねると、彼は狼狽えたようにまくし立てた。
「伝書鳩で知らせがあったのだ……エルカーズの軍勢が……っ、この町に向かっていると……!」
「……!? 俺が上がった時にはまだ、敵襲の気配は見えませんでした」
「とすればまだ、時間はある。早く市門を閉じねば……! 私は鐘を鳴らす。騎士殿は市門を守っている自警団のところへ行ってくれ!」
「はい……!」
 短く返事をし、レオンは長い修道服を翻して螺旋階段を駆け下りた。
 まだ町にでないうちに鐘音がカーンカーンと激しく鳴り響き始める。
 レオンが石造りの教会を出て丘を駆け下りると、不安そうな表情をした住人達が鐘の音を聞き、通りに出
始めていた。
「エルカーズの軍隊が向かっている! 市門が破られれば家に火を放たれる恐れがあるぞ! 女子供は早く教会へ!」
 レオンは彼らに叫び続けながら、北の市壁へと大通りをひた走った。
 非常時の鐘を受け、北の門の門番達は既に太い鎖で繋がれている重い扉を落としている。
 レオンは門番に事態を伝え、市門の両脇を挟むように建てられた見張り用の塔の梯子に登った。
 屋上まで登り荒野の先を見渡すと、赤く染まった空の向こうに広く砂埃が立ち始めているのが見える。
 この距離では、夜までには着いてしまう――。
 恐らく敵の数は二千ほど。
 この町の自警団に男手を足しても、味方は200に満たない。
 市門が一箇所でも破られればおしまいだ。
 ――自分も今度こそは戦わなければならない。助けてくれたジーモンとこの町のために。
 レオンは決意し、傍にいた門番の一人、金髪の巻き毛の青年に声を掛けた。
「あなた方の着ている服と、剣を一振り貸してくれないか……!」


 すぐに日は暮れ、町は不気味なほどの静けさと闇に包まれた。
 レオンは自警団の本部で修道服を脱ぎ捨て、こげ茶のチュニカに、下をズボンとブーツに履き替えた。
 ソードベルトに剣を差し、再び北の市門へと向かう。
 敵を伺う為に物見の塔へ梯子を登ろうとした時、背後から突然、声を掛けられた。
「レオンさん。あなた、レオン・アーベルさんですよね、デンメルング聖騎士団の」
 先ほど剣と服を都合してくれた金髪の青年がそこに立っていた。
 どうやら修道服を脱いだことで素性に気付かれたようだ。
 梯子に手を掛けたまま戸惑うレオンに、青年はそばかすの浮いた顔を輝かせた。
「あなたはタルダン一の剣の腕だと聞いています……! あなたと共に戦えて、光栄です」
 その純粋な憧れの瞳に、良心が強く疼いた。
 自分はもうあの団の一員ではない。事情があったとはいえ戦いから退き、それどころか、あらゆる意味でもう、人々の模範とは言えない罪深い存在なのに――。
 レオンは梯子を掴んだ手を離し、若い青年に向き合った。
「いや、自分は結局国境を……この町を守ることが出来なかった。今の事態を本当に、申し訳なく思っている……許してくれ」
 長い睫毛を伏せ頭を下げると、青年は戸惑うように首を振った。
「とんでもありません……! 俺は、カスパルといいます。あなたがここに居て下さることに心から感謝します」
 頬を赤くして名乗り、若者が持ち場に戻っていく。
 その背中を見つめながらレオンは戦う決意を新たにし、握った掌に力を込めた。
 改めて梯子を一気に登ってゆく。
 塔の上に出ると風が少し強くなっていて、レオンの髪を乱した。
 市壁の外を見渡せば、今や身震いするほどの数の松明の火が、ロキの町の川から北を遠巻きに囲んでいる。
 左右を見れば、自警団のほぼ全員が矢筒とクロスボウを身に付けて壁上に登り、緊張の面持ちで決戦に備えていた。
 相手が一歩でも射程距離の範囲内に近づけば撃ち、市門が破られるのを一分一秒でも防がねばならない。
 だが、暗闇の中の軍勢は異様な静寂に満ちている。
 まるで何かを待っているような、そんな空気さえ感じる程に。
 レオンはふと、市門のすぐ左脇を黒々と横たわっている川に視線を移した。
 水の流れは市壁を貫くようにして滔々と流れ、その暗い表面に、市門に掲げられた松明の火が映り揺れている。
 ――その水面に、ほんのわずかな小さな泡が1つ、2つ浮かぶのを、レオンの目が捕らえた。
「……?」
 嫌な予感がして、瞬時にほとんど飛び降りるようにして塔を降り、川沿いへと素早く降りてゆく。
「どうしたんです!?」
 そんなレオンに気付き、市門の上から声が上がる。
 先ほど会話した金髪の若者、カスパルだった。
「川だ! 川に何かいる……! 応援を呼んでくれ!!」
 頼んでから走り出す。
 川は深く流れも速い。そして川と市壁の間の隙間は殆どなく、人間がそこを潜り、泳いで入ってくるようなことはまず無いと思われた。あったとしてもその前後で息継ぎに水面にあがった姿を市壁から確実に補足出来る。
 そう、相手が人間ならば――。
 レオンは水辺の草むらの中に足を踏み入れ、川を遡るようにして走った。
 恐らく相手は市門から離れた、人気のない場所で川から上がって来る。
 戦いのカンが、頭の中で警鐘を鳴らす。
 脚を取られるような水辺の草を掻き分け進むと、前方でビチャリと濡れた音がした。
 その音のした方向に視線を向け、草の中に身を伏せて息を潜める。
 やがて黒い水面から、水かきのついた不気味な濡れた手が現れたのをレオンは見た。
「……!」
 手は川の流れの中から伸び、川べりの草を掴む。
 ぎくりと足を止め、その異様な生き物の腕に見入った。
 やがてテラテラと光る水を含んだような皮膚に、濡れた藻のような髪が水面から現れる。
 その謎の生物がこちらを向くと、夜目にも不気味なその顔がはっきりと見えた。
 瞼のない丸く黒い目と、鋭い刃の光るダガーを咥えた、異様な程裂けた口。
 分厚い唇から何本もの鋭い歯が上下に飛び出すようにして生えているのが見え、首の左右には深く切り込んだようなエラがある。
 一見、ナイフを咥えた巨大な魚が顔を出したのかと思いきや、そのエラの下は鱗に覆われた人間の体が繋がっていた。
 微風に乗り、腐ったような生臭いにおいが漂ってくる。
 その魚のような顔をした人間はぼたぼたと水滴を垂らしつつ、クンと空気の匂いを嗅いだ。
「敵……敵ガ近クニイルゾ……」
 怪人の割れた口から人間のようなしゃがれ声が漏れたことにレオンは驚いた。
 思わず掴んだ剣の鞘がベルトに当たって音が立つ。
 魚人は咥えていたダガーを右手に持ち替え、背後を振り返り謎の言葉で呻いた。
 呼応するようにその背後で続々と黒い泡がボコボコと上がり、一人、また一人と同じ風体をした異形の兵士が川を上り始める。
「ひいぃっ……!!  化け物だ!」
 いつの間にか背後から来ていた応援の兵が数人、叫んで逃げ出してゆく。
 無理もない。こんな化け物を見たのはレオンも初めてだ。
(俺とは明らかに違う……これも悪魔の呪いなのか……!?)
 見た目が余りにも変わり果てた敵に、本当に人間なのかと疑いたくなる。
 だが戸惑っている暇は無い。
 レオンに気付いた異形の敵たちは口に咥えていたダガーを手に次々と素早い動きでこちらに襲いかかってきた。
「くっ……。来い!」
 剣を引き抜いて応戦し、最初の一撃を繰り出してきた魚人の刃を跳ね返した。
 高く鋭い金属音が立ち、怪物が背後にふらついた瞬間に、エラの間を裂くように横から剣を薙ぐ。
「ギャオオオッ!!」
 首から血を激しく噴き出しながら、凄まじい声を上げて化け物が倒れる。
 が、休む暇もなく他の魚人がレオンの背に短剣を振り下ろす。
「……っ!」
 危うく避けるが、服と背中の皮膚一枚を切り裂かれた。
 熱っせられるような痛みが一瞬背後を襲うが、すぐにまた消えてゆく。
 高価な鎧を纏うことが出来ない非常事態の今、自らの肉体の異常が逆に有り難かった。
 かといって、単純にカインに感謝する気にはならない。
(――これが悪魔の力でなくて、一体なんだというんだ)
 川を上がり、次々に襲い掛かってくる敵を一人で切り倒し続けながら、レオンは自問自答した。
 もしかしたら自分もいつかはこんな風になってしまったりするのか?
 ――いや、そんな、そんなはずはない……。
 返り血を浴びながら最後の一匹の胸を貫いた時、ハッと気づいた。
 濡れた水草の上に倒れた化け物達の死体が、全て白い裸の肌をした、ただの人間の死体に変化している。
 そして今殺したばかりの敵も――。
「……っ」
 何とも言いようのない感情に襲われ、レオンは絶句した。
 騎士として敵の人間を殺すことに関しては、決して快いものではないが、今まで疑問を感じたことはない。
 だが、このエルカーズの人間と思しき者たちは、本当に自分の意志でこのような姿になることを選び、この場所にやってきたというのだろうか?
 ――悪魔に、あるいは誰かに操られているだけなのではないのだろうか。
 自分と同じように、自らどうすることも出来ない運命に巻き込まれた者に対する憐れみと同情に、レオンは愕然とした。
 膝を折り、自らの剣に首を切り裂かれて目を見開いたまま死んでいる、エルカーズの若者の顔に触れる。
(カイン、一体どうなっているんだ……教えてくれ……!)
 心の中でそう叫ばずにはいられなかった。
「レオンさん! 大丈夫ですか!?」
 突如として背後から声を掛けられ、ハッとする。
 振り向けばカスパルが剣を片手に走ってくる所だった。
「町の中に化け物が出たと、みんなすっかり狼狽えてしまって……!! レオンさんは無事でしたか……!?」
「化け物じゃない……全部、人間だ」
「え」
 青年が草むらの中で倒れている無数の裸の死体に気付き、ひっと悲鳴を上げた。
「何という……っ、これ全部おひとりで……?」
 レオンは身震いしている相手を一瞥すると、膝を伸ばして体を起こした。
「安心するのは早い。これでおしまいとは行かないはず――」
 そう言ったとたん、遠くでまた新たな悲鳴が上がった。
「川下からも敵が……!」
 レオンとカスパルは互いに素早く視線を交わし、二人で川沿いの草むらを全速力で走り始めた。
 ――今はとにかく、余計なことを考えている暇はない。
 人間だろうが化け物であろうが、この町を守る為に必要ならば倒さねばならないのだ。
 意を決してひた走ると、濃い血の匂いとあの生臭さが空気に混じりはじめる。
 川に沿って味方の死体が点々と倒れているのが視界に入り、嫌な予感がした。
「市門が危ない……!」
 若者と共に土手を駆けのぼり、南側の市門に通じる通りに出る。
 既にそこでは、異形の敵兵十数人と、門を守る自警団数人の戦闘が始まっていた。
「助けてくれぇ……!!」
 戦いに慣れない町の男たちの悲鳴が上がり、まさに市門を開くウインチを操作しようとしている魚人の姿が目に飛び込んで来る。
「まずい、市門が破られるぞ……!!」
 レオンは地面に倒れている味方の手から弩を奪い、素早く矢を番えて化け物の背中に命中させた。
「ギャアアアアアッ」
 のけぞるようにして敵が倒れるが、別の魚人が再び落とし格子を開けようと鎖の巻き上げ機に飛びつく。
 レオンはカスパルと二人で混乱する市門前の戦闘の渦中に飛び込み、次々と魚人にとどめを刺して市門を死守した。
 生臭い匂いが立ち込める中、味方も周囲で次々と倒れてゆく。
 小一時間後、南の市門に現れた魚人を全て倒しきる頃には、一緒にいたはずのカスパルが既に物言わぬ骸となってレオンの背後に倒れていた。
 ――守ってやれなかった――。
 深々と胸を刺され、唇から血を流して絶命している若者の死に顔に、後悔と強い疲労感が体を襲い、動けなくなる。
 彼のそばに膝をつき、自分もその場に崩れ落ちてしまいそうになった。
 だが夜戦はまだ終わっていない。
「東の市門にも敵が向かっている!」
「西にも化け物がーー応援をーー」
 見張り台に壁伝いにやって来た伝令が叫んでいく。
 急速に戦況が悪化しているのを肌で感じる。
 剣を支えに立ち上がると、遠くで敵と味方の叫びがわっと上がるのが耳に届いて、どこかの市門でまた戦闘が始まったのが分かった。
「レオン……騎士殿!!」
 ぼんやりとして頭の働かないレオンの背後から、大きな声で名前を呼ぶ声がする。
 ハッとして振り返れば、鬼気迫る表情をしたジーモン神父が背後に立っていた。
「ここはもう良い。来て貰いたい所があるのだ。さあ、早くこちらへ」
 そう呼びかけられレオンは戸惑った。
「だが、敵がまだ――」
「そんなことよりも早く」
 急かされ、有無を言わさず先を行く神父についてゆく。
 密集した家屋の間の人気のない狭い通路を共に急いで歩いていると、ジーモンは息を切らしながら話し始めた。
「この町はもうすぐ白旗を上げる。町の有力者達の評議会で、今しがたそう決まったのだ」
「白旗を……!? 降伏勧告すら無しで攻めてきた相手に……!?」
 レオンは驚き反論した。
「戦場のルールが通じない相手に降伏をすれば、この町の人たちがどうなるか分かりません。ましてや相手は、悪魔と通じている――」
 脳裏に、今まで見てきた戦場の悲惨な光景が浮かぶ。
 降伏した城市は、その抵抗が激しければ激しかった程、そのあとで苛烈な制裁を受ける。
 略奪や強姦。
 酷ければ、老人や7歳以下の子供など、わずかな「害にならない者」を除き、町のほぼ全員が殺されることもある。
「分かっている。だがもう決まったのだ。このまま抵抗し続ければ最後の一人まであの化け物達に殺される。それよりは悪魔の使い共に頭を垂れ、命乞いをした方がマシだと……」
 神父の表情は苦渋に満ちている。
 話す内に、二人は小さな民家の前に着いていた。
 古い木組みの家は大分昔から空き家なのか、窓は外れ屋根も半分が落ち、荒れ放題の暗い様相を呈している。
「さあ、中へ」
 神父が袖から錆びた鍵を出して扉を開け、廃墟の暗闇の中へレオンを案内する。
 闇の中で火打ち石を使い、ジーモンが腐り掛けたテーブルの上の古びた燭台に火をともした。
 家具が倒れ、荒れ果てた部屋の中がぼんやりと浮かび上がる。
 壁に掛けられた埃だらけの肖像画の中から、ジーモンに似た禿げ頭の男性がこちらを見下ろしているのが見えた。
「この家は、鍛冶屋だった私の祖父が昔使っていた家でな。この床下に、昔の古い地下道がある。市壁の外まで繋がっているはずだ」
「……!?」
 レオンは酷く驚き、訝しむように相手の顔を見た。
「もし降伏をすれば、この町の中で生き残った男たちは全員殺されるか、殺されないまでも全員が首をそろえて一か所に拘束されることになる。その前に、レオン、お前だけでも逃げるのだ。一人ならば抜け道を通り壁外に出ても目立つことはない」
「……嫌です……!!」
 レオンは即座に首を振った。
「何を言う。お前はもともとこの町の人間でも何でもない。巻き込まれることは無いのだ。それに」
 ジーモンが節くれだった両手を広げ、レオンの包帯を巻いた左手を掴んだ。
「お前には人智をこえた力があるのだろう。――神の恩寵か悪魔の呪いかは、敢えて聞かないが」
 触れられた場所からギクリと身体に動揺が走り、言葉を失った。
「私たちは降伏した後、もしかすればあんな姿の化け物にされてしまうかもしれない。もしも、ああなったとしても……元に戻る為の方法を、レオン、お前が探してくれまいか」
 ジーモンがレオンの左手から手を放し、激しい音を立てて古いテーブルを横倒しにした。
 燭台が倒れ、火が床にこぼれた液状の蝋に燃え移る。
 それを気にすることもなく、ジーモンは炎の明かりを頼りに、テーブルのあった部分の床板を外した。
 下に真っ暗な狭い穴と、そこへ降りてゆくための梯子が見える。
「さあ、火が完全に回る前に早く。――行け、騎士殿。我々の希望になってくれ」
 ここまで言われては、もう四の五の言うことは出来なかった。
 無意識にレオンの瞳から涙がこぼれ、止まらなくなる。
「……どうか、ご無事で」
 そうは言ったが、もう二度と会うことの出来ない予感の方が強かった。
 ――必ず。必ず、あなたの心に報います。
 切に誓い、梯子に足を掛ける。
 下に行けば行くほど暗くなってゆく穴の中に降りるうち、頭の上で床板が完全に塞がれ、視界は真の闇にふさがれた。
 降り立った所から先は狭い一本道が前方に向かって続いている。
 壁にしっかりと手をあて、レオンは一方向へと進んだ。
 長いこと使われていなかった地下道の中で、舞い上がる埃と湿気に息苦しさを感じながら、涙で頬を濡らし、それでも手探りで先へ向かう。
 居場所をまたも失ってしまった。
 だが、それでもまた、生きねばならない。
 暗闇の中で脳裏に浮かぶのは、死んでいったカスパルの顔、それに今別れたばかりのジーモン神父の表情だった。
 やがて道が僅かに上り坂になり、星明かりがわずかに漏れている場所が目に留まり、レオンは剣の柄を使ってその周囲を覆っているレンガを懸命に崩した。
 やっと人一人分通ることの出来るようになった穴を這うようにして出てみれば、そこは東南の市壁の外側で、広い夜空と荒れ野が目の前に広がっていた。
 振り返れば、背後には今出てきたばかりの町があった。壁の内側に幾つもの激しい炎が上がり、空が赤く染まっている。
 剣の腕も、永遠の命も、傷つかない体も、この炎と敵の軍勢の前では余りにも無力だ。
 誰を助けることも出来ない。ただ、どんなに辛い思いをしても、たくさんの仲間の死を見ても、自分だけは死ぬことは出来ないという、絶望的な呪いを抱えているだけ――。
 それでも生きるほかない。自分を救い、そして解き放ってくれたジーモン神父の為にも。
 レオンは涙と土埃で汚れた頬をぬぐい、行く当てもない未来に向かって歩き出した。

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