神々の祭日


 レオンの朝は大抵、二人用の大きな木桶風呂に溜める大量の湯を準備することから始まる。
 水をたっぷり入れると男二人でも持てるか持てないかという重さの大鍋で川の水を汲みに行き、炊事場の竃の火でそれを沸かすのだ。
 のんびりした生活なので、特に用事がなければ着るものにも気を使うことがない。乗馬用のズボンとリンネルのシャツ一枚のみを羽織った姿で庭と炊事場を行ったり来たりしつつ、水が熱湯になるのを根気強く待つ。
 そして鍋が沸くと、両手に分厚いミトンをはめ、大鍋を一人で軽々と運んでゆく。
 今住んでいるこの屋敷は、二人暮らしには随分広い。風呂は、濡らしても大丈夫なように二階の大理石のタイルの敷いてある部屋に置いてある。
 立派な石竈のある厨房からその部屋までは、螺旋階段を上っていかねばならなかった。
 鍋を持って川と二階を往復している内に、首元で刈った艶のある黒髪が汗ばみ、白い肌が上気して微かなピンク色になっていく。
 だが「風呂に入る」という目的の為には、そんな労は問題にならない。
 階段を上り切り、廊下を横切り、体を使って風呂場の扉を押し開け、注意深く大量の湯を大きな木桶に流し込んでいく。
「……お前、早朝からまたそれかよ」
 半ば呆れたような、艶のある声が同じ部屋に上がった。
 気付けば左隣の寝室と繋がる扉が開いていて、そこに全裸の異形の男が立っている。
 美しい絹糸のような銀髪を腰まで垂らし、頭には山羊のような巻角。肌の色はどこもかしこも人間味のない青白さだが、その肉体は彫刻のように鍛え上げられた筋肉で覆われている。
 彼の容貌は美女と見紛うような妖艶な美しさで、男らしい肉体とのアンバランスさが際立つが、それよりも奇妙なのは、彼の腰部から垂れている白い尾だ。
 同居人のそんな姿に驚きもせず、レオンは当然のように言い返した。
「――だって、念願の風呂をやっと手に入れたんだぞ。毎日入りたいじゃないか」
 つい最近まで荒廃していたこのエルカーズという国では、自前の風呂を持つ家庭はまだ珍しい。
 この地方では比較的栄えているこのフレイの町でも、風呂といえば、宿屋兼居酒屋や、雑貨屋の主人が時々臨時で開業する風呂屋を利用するか、あとは町の両側に走っている冷たい川の水で我慢するかの二択がもっぱらである。
「でもすげぇ手間だろ。男の癖にやけに綺麗好きだとは思ってたけどお前、そこまで風呂が好きだったのかよ……」
 美貌の男がペタペタと素足で風呂に近付いて来る。その白い尾が湯加減を確かめるように一瞬木桶の中の湯に触れ、すぐに飛び出した。
「あちぃ!!」
「カイン!! 大丈夫か!? まだ水で薄めてないんだから、当たり前だろ……! まだ入るなよ」
 カラになった大鍋を持ちあげ、レオンはまだ寝ぼけているらしい相手に注意を促した。
「神を名乗る割には、お前結構ドジを踏むんだな」
 クスクス笑うと、ふてくされたように相手はルビー色の瞳で睨みつけてきた。
 この異形の同居人――『騎士の神』と呼ばれるアビゴール・カインは、共にこの屋敷に住んでいる、レオンの同性の恋人だ。
 二人は世間的には、エルカーズ国の名門貴族オスカー・フォン・タールベルクと、その傍仕えとして働く唯一の騎士、という事になっている。
 フレイの町の外れにあるこのタールベルクの先祖代々の屋敷に二人が住むようになったのは最近のことだ。
 青年貴族オスカーの正体が実はこの国の古い神の一人であることも、二人の関係も、ごく一部の人間を除いて知るものはいない。
 ――故に、カインがその真の姿を現すのは、夜と、この早朝のひと時だけなのだった。
 レオンは最後の一杯の水を厨房の樽から大鍋に移し替え、二階に上がった。
 風呂場の扉を開けると、木桶風呂の縁に座ったカインが両腕で長く美しい髪を持ち上げ、細い革ひもでそれを一本にくくっている。
 こちらに背を向け、慣れた仕草で髪を結う優美な姿に目を奪われ、一瞬足が止まった。
 今が、窓から明るい日光が入っている時に彼を見ることが出来る唯一の時間だ。
 その逞しい背中に自分の立てた爪の痕が艶めかしく残っている事に気付き、レオンは目元を赤く染めた。
 自分の胸を見下ろすと、そこにも無数の口づけの痕が残っている。
 毎晩のように愛し合っているせいか、どれがいつ付いたものなのかもよく思い出せない。
(しまった……川に水を汲みにいった時、この格好で出てしまった……)
 今更後悔しながら、黙って水を少しずつ木桶風呂に流し込んでいく。
 丁度いい湯加減になる頃を見計らい、傍に立てかけてあった木板で湯を揉むようにかき混ぜた。
 まだ背を向けて待っているカインの後ろでシャツを脱ぎ落し、床にズボンを脱ぎ捨てる。
 中に下着は着ていない。昨日ベッドの傍に脱ぎ捨てたままだった。
 どうせ脱ぐからと、それよりも先に風呂の支度を優先させた事を思い出した。
「レオン……もしかしてお前、そのいい加減な格好で裏の川まで出て水汲んだのか……」
 カインの背中から上がる声が刺々しい。
 こちらを見ていないのに、自分が下着を付けていなかったことまで御見通しのようだ。
「誰にも会ってないぞ」
 言い訳するように言った途端、相手の白い尾だけがしゅっと目の前でしなり、木桶風呂の枠を掴んでいた左手首に巻き付いてきた。
「そういう問題か……!」
 怒りに満ちた表情で恋人が振り返る。
 だがレオンは肩を竦めて詰問を無視し、楕円形の木桶の端を跨いで温かい湯の中にさっさと体を滑り込ませた。
 こんな所で痴話げんかをしていたら、せっかく温めた湯が台無しだからだ。
「ああ、いい湯加減だ。お前も早く入れ、冷める」
 浴槽の片側に背をつけて寄りかかり、手首に纏わりつく尾を手の平で掴み直すようにして引く。
「お前な、犬の鎖じゃねえんだよ。引っ張んな」
 カインが益々拗ねた口調で言い、尾を解いて取り戻した。だがすぐに、大人しく風呂の反対側に入ってくる。
 結った髪を角に掛けられ、どこか艶めかしいため息と共に逞しい身体が浴槽に浸かると、湯が木桶のへりぎりぎりまで上がった。
 流石にこの体格の男が二人向かい合って入ると、両脚が触れあってしまう狭さだ。
 くすぐったく感じながらも温かさを堪能していると、またカインの小言が始まった。
「大体、自覚が足りねえんだよ。町の男や女どもが、一体どんな目でお前を見てると思ってる」
「……。無口で無愛想な……馬鹿力の異国人?」
「ちげぇよ」
 呆れた、と言わんばかりに赤い唇から深いため息が漏れる。
「身体中にキスマークくっつけて、尻ん中も俺ので濡れたまんまで、人気のない川べりでもしも誰かに襲われでもしたら」
「殴って気を失わせる」
「……」
「身体の中も外もベトベトだったから、早く風呂に入りたかったんだ。大体、昨晩は早く寝ようと言っていたのにお前が盛るから」
「俺のせいにすんのか!? 煽ってきたのはお前だろっ」
 レオンはムッとして視線を横に逸らした。
「煽ってない。寒かったからくっ付いて寝ただけだ」
「抱き着いてきて、キスしろ、今日は抱かないのかって潤んだ目で訴えてきた」
 カインの長い足が太腿の間にぐいと割り込んでくる。
 その指が湯の中で器用に開き、親指と人差し指の間でレオンのペニスをぐいっと挟んだ。
「そんな事俺は言ってな……はぁっ…アッ」
 陰茎を掴んだ指先がそのまま上下し始め、既に半ば硬くなり始めているそこを器用に擦り始めた。
「寒いのにわざと緩いシャツ着て、勃ってる乳首俺に見せつけて」
 もう一方の足もレオンの股の間に入り込んで柔らかな陰嚢に触れ、フニフニと持ち上げるようにくすぐる。
「っ、そんな、の、偶然……ふァあ……っ、足、やめ……」
 触れているのは湯の中の足だけなのに、淫らな声が止まらない。
 愛撫されている内にペニスはすっかり反り返り、腹に付く程になる。
 するとカインの足の裏がそれを腹側に押しつけるように、絶妙な力加減でギュウッと踏みつけた。
「んァあ……っ、はぁっ……あっ、カイン、」
「――足コキだけでも感じまくってる癖に。この淫乱騎士」
 辱める言葉に言い返せない。
 以前よりもずっと愛されているのに、彼を求める心と身体を自分でも止めることが出来なかった。
 出会う前は自涜さえしたことが無かったし、一緒に暮らす前も彼と会っている時以外は極めて禁欲的に暮らしていたつもりだ。
 ところが今は毎晩、湯水のように口づけと愛撫を与えられて、冷静になる暇がない。
 頭がおかしくなってしまいそうだ。 
「カイン、したい……」
 左手首に巻き付いたままの白い尾にキスし、ねだるように舌を這わせる。
 目の前の恋人が、ふーっと大きなため息をついた。
「お前、その内、俺とするだけじゃ足りねえとか言いだしそうだな……」
 その言われように密かに傷つき、瞼を伏せる。
 彼以外、男も女も、欲しいと思ったことは一度もないのに。
「言ったらどうする……」
 わざと意地を張るような言葉で返すと、カインは両肘を風呂のへりにゆっくりと預け、冷たい視線でレオンを見下ろした。
「――俺もお前以外とも寝るかな」
 その言葉に更に激しく心を揺さぶられ、何も言えず俯く。
 カインは人間ではない。愛し合ってはいるが、結婚は勿論出来ないし、人間の恋人同士で共有されている価値観を彼は持っていない。
 事実今までも、同情から人間に寄り添い、相手の望む姿でセックスの相手になるようなこともしている。
 もしかしたら現状でも、自分の知らない所ではそういう事をしているのかもしれない……。
 そんなことを想像しただけで、ぼろっと涙が頬をこぼれて、湯の中に落ちた。
「ば、バカ、本気にするなよ」
 カインが慌てたように湯に波を立て、レオンの両肩を掴んで抱き寄せてきた。
「……っ、」
 素直に彼の肩に顎を預け、肌を密着させて首筋に抱き着く。
「悪い……。おかしいんだ、俺は」
 毎朝目覚める度に、カインが隣にいるのを確かめてしまう。
 夢ではないかと疑ってしまう。
 もういつでも傍にいるのに、彼の顔を見ると条件反射のように淫らな繋がりが欲しくなる。
 そしてまたどこかへ居なくなってしまうのではと疑う。
 百年の間に骨の髄までしみ込んだ習慣と孤独は、レオンを中々開放してくれなかった。
「キスしてくれ……」
 まだ涙が滲んでいるヘイゼルの瞳に恋人を映し、懇願する。
 望み通りに深く唇が重ねられて、大きく歯列を開き、舌同士をねっとりと根元まで絡ませ誘う。
「ンん……っ、はふ……っ」
 相手の膝に乗り上げるように跨って淫らなキスを深め、湯音を立てて自分のペニスを、既に固く猛ったカインの雄に擦り付ける。
 ――これが欲しい。俺だけの物にしたい――と、心と体の両方で必死に訴える。
「分かったから……」
 強い望みは言葉にせずとも、カインの心に直接伝わった。
 カインの腕がレオンの尻を両手で抱えるようにして持ち、ざばりと湯の中で立ち上がる。
 そのまま抱えられて一歩背後に運ばれ、自分が入ってきた側の木桶風呂のへりの上に座らされた。
 腰かけるには薄すぎる木板の上は、少し気を抜けば背中から大理石の床に落ちてしまいそうだ。
「レオン、その上に片脚だけ上げて載せろ」
「……っ、そ、んなことしたら後ろに落ちる……」
「大丈夫だ。尻尾で支えてやる」
 その言葉どおりに、カインの白い尾が腰に巻き付き、しっかりと胴を支えた。
 支えを信じて少しずつ片脚を真横に開き、曲げた膝の高さを限界まで上げて、足の裏を風呂の縁に置く。
 案の定体は不安定になったが、カインの腕と尾がレオンの体を抱き、背後に落ちる事は無かった。
「お前の穴、しすぎて赤くなってて可哀想だから、朝は勘弁してやろうと思ったのに……」
 耳元に囁かれて、きゅんと心臓が高鳴った。
 カインがそんな風に気遣ってくれていた事が意外で嬉しくなる。
 だがそれでも最後までしたいと思う気持ちは止められない。
 後孔を見せつけるように骨盤を倒し、人差し指と中指で窄まりの襞を拡げた。
 カインが素直に欲情を口にする自分に弱いことを知っていて、敢えて口に出して彼を誘う。
「壊れてもいいから、お前が欲しい……っ」
「ああもう……っ、昼間どうなっても俺は知らねえからなっ」
 湯に濡れた太いペニスの先端がグッと尻の狭間に押し付けられ、少し腫れている後孔を押し拡げていく。
「く……ふうゥ……ん……っ」
 襞付近の痛痒さを耐えるように食いしばった歯の奥から、甘い溜息が漏れた。
「もう一度守りをつけてやれりゃいいのにな……っ」
 なるべく傷付けないように慎重に腰を進めながら、カインが呟く。
 ーー彼は永遠の命と一緒に、神としての力の半分を無くしている。
 人の願いを読む力と、彼自身の身体に備わった能力以外ーー特に、人間に影響を及ぼすような力はほぼ取り上げられてしまったらしい。
「そんなの、いらない……お前が居てくれるなら……っ」
 恋人の払った犠牲を思い出し、切なくなりながら押し入ってくるペニスをキュウ……っと締め付ける。
「中、まだヌルヌルしてんな……」
 カインが風呂のへりに乗ったレオンの尻を片手で掴みながら、内側を確かめるように腰をゆっくり前後させた。
 血管の浮いた硬い陰茎が自分の中を浅く出入りし始めて、堪らずに淫らな高い声を上げる。
「ンァっ、そこ、ハアッ、浅いとこは、アッ、ジンジンするからあッ……」
 硬い大理石で床も壁も覆われた部屋は、喘ぎ声も結合部の恥ずかしい音も、全てを大きく反響させる。
「それがイイんだろ……? 擦りすぎて痛痒くなってる所が、お前の1番感じる場所だもんな。――こことか」
 カインの指がプックリと乳輪ごと勃ち上がっている乳首を優しく円を描くように撫でた。
「んあァ……っ」
 吸われすぎて皮膚の薄くなっているそこは、余りにもダイレクトな性感を呼び起こし、レオンの理性をドロドロに溶かしてゆく。
「ここも……?」
 ゴリッゴリッと快楽の中枢を亀頭で押し上げられ、ブルブルと四肢が細かく震える。
「ふあァあっ……! んぁ、我慢できな……っ、カインっ」
 涙目で訴えるのに、恋人は意地悪く笑いながらそこを外し、ヌププ……と水音を立ててペニスをギリギリまで引いた。
 途端に耐えられない切なさに襲われ、涙目で訴える、
「うっ、ンっ、腰、動かしたいぃ……」
 レオンは両手で木桶風呂のヘリを掴むと、湯の中に入っていた方の片脚をもう片方と同様に引き上げた。
 更に両足の指でしっかりと板の厚みを掴んで尻を浮かせ、M字に脚を開く。
 勿論、自分の全身の筋力と、カインの尾の支えの両方がなければすぐに前か後ろかに倒れてしまいそうな格好だ。
 その扇情的な姿勢にゴクリとカインの喉が鳴る。
 レオンは彼の瞳をじっと見つめたまま、四肢の支えを支点に尻だけを淫らに突き出し、娼婦のような意識的な締め付けで雄を貪り始めた。
「ハァッ、はぁ……ッん……っ、ぅんっ……!」
 息を荒くし、心のままに快楽を淫らな言葉に溢れさせる。
「気持ちい……っ、ぅあ……カインのっ、チンポで……っ、ンッ、俺のっ、穴の中っ、擦ってっ、突いて欲しいっ……」
「ったく、何のためにあんだけ手間かけて風呂入ってんだよ……っ。お前の中っ、また汚すぞ……っ!」
「ゥン、っん……汚して、俺をっ、いっぱい汚してくれ……っ」
 理性を投げ出し、はしたない笑みさえ浮かべて奥深くでの射精を懇願する。
「――つかまってろ」
 両膝の裏に逞しい腕が差し込まれて持ち上げられ、レオンの手足の先が木桶風呂から完全に離れた。
 掴まれた膝裏からぶら下がるように尻が落ち、自重で結合が一気に深まる。
「……んう……っ!」
 全身の筋肉がしっかりと発達したレオンの体は決して軽くはない筈なのに、恋人の膂力の素晴らしさに感動すら覚えながら、必死に相手の首筋にしがみついた。
「……カインっ、……愛してる……」
 瞳を見つめながら呟いたその言葉を合図にするように、カインが遠慮を捨てて激しく腰を打ち付け始める。
 彼の腰と尻の筋肉がしなる度にレオンは室内中に響くよがり声を上げて感じ、瞬く間に後孔での絶頂に追い詰められた。
「イク……っ、ああぁっ、中っ、もういく……っ」
 痙攣のもたらすきつい締め上げにドクッドクッとカインのペニスが脈打ち、望み通りに熱い男の精がドッと溢れてレオンを汚す。
 しばらく白濁を注ぎ続けながら、荒い息遣いのまま、カインが美しい唇を開いて深く口付けてきた。
「ン……」
 レオンは深い悦びに満たされ、夢心地のままそのキスに応えた。



(……俺は一体、何をやってるんだ……)
 風呂場から寝室に戻り、エルカーズの騎士の着る黒い軍服に身を包みながら、レオンは深い溜息をついていた。
 厚い布の下で腫れている場所がじくじくと疼く。
 昼間、あるいはこの屋敷の外に居る限りは、カインが別の姿になる事が却って良かったと思う。彼の顔を見るとまた淫らなことを思い出してしまいそうだ。
 首筋の跡が見えないよう高襟の首元をかっちりと留め、大きな姿見に自分を写して点検していると、背後で扉を開ける気配がした。
 鏡に映った戸の前に、蜜色をした背中まである長い金髪を革ひもでくくり、緩い絹のシャツを纏った美しい青年が立っている。
「レオン、パンが焼けたぞ。早く下に降りろ」
 明るい緑の瞳を細めた若々しい青年は、張りのある声でそう言うと、優雅な所作で立ち去ってゆく。
 彼はこの屋敷の主人、オスカー・フォン・タールベルク――カインの昼間の姿だ。
 とはいえ、カインはオスカーという貴族に成り代わっているだけで、本物のオスカーは王城の地下牢に囚われたまま既に亡くなっている。
 そしてそのことは、一部の神官を除き誰も知らない。
 人間のオスカーの遺体は今、屋敷の裏の納骨堂に静かに眠っている。
 去年、王城の地下で白骨化していたのをレオンが見つけ出し、布に包んで密かに持ち帰って、この生まれ故郷の地に返したのだ。
 生前のオスカーを自分は知らないが、カインは知っているらしい。
 だがオスカーについて聞こうとすると何故か嫉妬するので、あまり詳しく聞いたことは無い。
 しかし今もずっとその姿を借りていると言うことは、カインにとってオスカーという男は相当気に入った人間だったに違いなかった。
(もしかして、俺としたような事をしていたら……いや、余り想像したくないな……)
 一瞬複雑な妄想をしてしまいながら、レオンは寝室を出て螺旋階段を降りた。
 階段室から出ると焼きたてのパンとスープのいい匂いがしてくる。
 その香りに幸福感を覚えながらレオンは足を速めた。
 ――不思議な事だが、カインはオスカーに姿を変えていると、よほど感情的になった時は別として、言動や性格も全く別の人格に変化する。
 油断のないように、例え二人きりでもオスカーの姿の時は彼の本名を呼ばないよう言われているので、まるで二人の男と暮らしているようだ。
 食事の用意などをマメにやり、食生活を楽しもうとするのは「オスカー」の得意分野だった。
 いつものように食堂のある広間の扉を開け、食卓の自分の席へと向かう。
 そこにカイン――今はオスカーが――待っているかと思いきや、見慣れぬ二人の珍客がいることに気付き、レオンはギョッとして足を止めた。
 暖炉の前の長テーブルを挟みいくつも置かれた椅子の1番手前側に、背の高い男が二人、向かい合わせに座っている。
 鏡合わせの如く、二人は全く同じ背格好で、全く同じ服装だ。その服が何とも奇妙で、全身に幾つもの革のベルトをあしらった漆黒の服を着ているのだが、羽ペンや定規、ルーペに丸めた羊皮紙、果ては小型のペンチやハサミ、金槌などの工具まで、色々な道具をそのベルトで挟みこんで固定している。――まるで、生きる工具箱のようだ。
 髪は二人とも真っ黒で短くあちこちに跳ねていて、その顔の上半分はカラスのようなクチバシの付いたベルト付きの丸眼鏡で覆われているので、表情が全く読み取れない。
 余りにも奇妙な二人は、全く同じ動作でテーブルに置かれたパンを黙々と千切り、口に運んでいる。
「……!?」
 無法者の侵入かと思い、レオンは思わず腰の剣に手を掛けた。
「待て、レオン。その二人は私の客人だ」
 いつの間にか背後に現れたオスカーが冷静に制止する。
「客人……? 一体、いつから」
「昨日からいる。名前はマルファスとハルファスだ。別に覚えなくてもいいぞ」
 二人はちょこんと同時に会釈をして、再びクチバシの下の口で目の前のパンを静かに食べ始めた。
 僅かに見える肌は人間とは思えない程青白い。
(人間じゃ無い……?)
 怪訝に思いながらも抜き掛けた剣を収める。
 蜜色の髪の青年が、片手に持った盤から一人一人の席に熱いスープの入った器をくばり始めた。
「お前も席につけ」
 こともなげに言われ、素直に席に着こうとして、ふと疑問に思って顔を上げた。
「待て、オスカー。この客人がたは昨日の夜はどこに泊まったんだ」
「? 勿論この屋敷だ。空いている客間があっただろう?」
 それを聞いて、レオンの顔が耳まで真っ赤になった。
 客間は風呂場を挟んで隣だ。
 夜から朝まで――恥ずかしい言葉も、淫らな喘ぎ声も、甘い睦言も、全てがこの客人達に聞かれていたという事ではないか。
「お前……一緒に暮らしている人間に……そう言う事は、早く言え!!」
 器を置き終わってこちらを向いたオスカーの頬を、レオンは平手で激しく張り飛ばした。


 席に着き、食事を始めた後もレオンは一言も口を聞かず、すっかり拗ねていた。
 対面に座っているオスカーは赤く腫れている頬を濡れ布巾で冷やし、深く溜息をついている。
「……口と同時に手が出るのはお前の悪い癖だぞ」
 穏やかな口調でそう諭されると、つい自分が悪いような気分が湧いた。
 済まなかった、やり過ぎたと謝ってしまいそうになって、心の中で自分に喝を入れる。
(この男は悪魔だ。貴公子の皮を被った悪魔……)
 客人の事を知らせなかったのも九割がたわざとだ。
 彼の中身は、レオンが自分の物だと知らせるために、わざわざ他人に見せ付けるような事をする、そんな男なのだから。
(俺は悪くないからな)
 目の前の明るい緑の瞳をした美男子を睨み付ける。
「……レオンはそういう顔をしていても本当に可愛いな」
 ニッコリと微笑まれて、手からパンを取り落とした。
「〜〜〜〜っ」
 人前でなんという事を言うのだろう。
 顔から火が出そうになり視線を下げる。
 カインが比較的意地悪でそっけないので、こんな風にあしらわれるのには本当に弱い。
 レオンは怒りを表明し続けるのを諦めて、簡素だが温かなパンを口にした。
「美味い……」
 その言葉にオスカーが華やかに微笑んだ。
「それは良かった」
 ――この屋敷での食生活は豊かだ。
 食糧の供給元は、以前は神殿からの供物が十割だったが、今はレオンが趣味で手を掛けている家庭菜園で育った野菜、それに時々オスカーが害獣対策を兼ねて狩猟で採取してくる獣の肉類が主になっている。
 特に菜園の方は、放置され荒れ果てていた屋敷の庭全てを畑にしてしまい、真冬を除けば一年中何かしら収穫出来るようになっていた。
 ほぼ自給自足で生きる慎ましい生活は修道士時代にも経験があり、レオンにとっては望ましい暮らしだ。
 勿論、夜も朝も性愛に耽る昨今の日々は、修道士の敬虔で禁欲的な暮らしとは程遠いがーー。
 それでもこの屋敷での生活は満ち足りていて、そして愛に溢れている。
 恋人に常識が無いのが玉に瑕ではあるけれど、彼が神である以上そこは仕方がない。
 顔を赤らめながら滋味豊かな野菜のスープをのみほすと、全員の食事が終わるのを見計らっていたオスカーが沈黙を破った。
「……レオン、私は二週間ほどこの屋敷を離れる」
「えっ」
 急な知らせに驚く。
「もうすぐ王都で、エルカーズの各地の有力者達が集まる会議がある。私はベアリットと共に北部地方の代表として出席することになった。場合によってはそのまましばらく王都に留まる」
 ベアリットというのは、レオンが世話になっていたあの老神官の名である。
 彼は元々王都の神官長で、この国にあるすべての神殿の長にあたる人物だ。一時はその職から離れ王都を辞していたものの、今は若い神官のティモと共に王都の神殿に戻っている。
 カインはこの地でオスカーとして生き始めたのと同時に、ベアリットを後ろ盾にする形で様々な公的組織活動に参加し始めた。
 どちらかと言えば人間と関わるのを面倒がる方かと思っていたので、最初は意外に感じたものだ。
 だが彼はめきめきと人間の間で存在感を強め、いつの間にか推挙される形でフレイの町の参事会の1人となり、最近では更に発言権を強めて、元のタールベルクの領地全土の実質的な領主として認められるようになってきている。
 それに伴い昼間屋敷を外すことも多くなってはいたが、長期に渡ってこの街自体を離れるというのは、2人で暮らし始めてから初めてのことだった。
「俺も一緒にいっては駄目か……?」
 遠慮がちに尋ねると、オスカーは屈託無く笑って頷いた。
「勿論だ。お前は私の騎士だろう? 留守はこの2人に頼むつもりだから、お前の畑や、他の気になることは全て2人に引き継ぐがいい」
 その言葉にレオンは表情を明るく輝かせた。



 朝食の後、レオンは旅支度をして、オスカーと共に馬に乗り王都へと立った。
 双子の客人は屋敷の入り口から左右対称に手を振り、二人を見送ってくれた。
 彼らは酷く無口で、畑の説明をしても相槌ひとつなかったが、熱心に羊皮紙にメモを取っていたので、恐らく大丈夫だろう。
 彼らの存在はかなり謎だったが、お陰で久々の2人旅が始まった。
 跳ね橋を渡り、森を抜ける街道を、芦毛と栗毛の二頭の馬が並んで歩んでゆく。
 路傍に生えている野イチゴの赤に目を楽しませながら、レオンはオスカーに尋ねた。
「王都に集まって、一体何を話すんだ?」
 肩に流した金髪を太陽の光にけぶらせ、深緑色の軍服に身を包んだオスカーが長い睫毛を伏せる。
「新しい王に誰を選ぶのか、王都復興の人手と財源をどうするのか。後は、人間に戻った魔物達の処遇、食糧問題と外交問題……そんな所だな」
「また王が立つのか……」
 先王の最後を思い出し、余り良い気分がしない。
 王の死については、ティモの他に誰も目撃者がいない為にさまざまな憶測が生まれたが、神殿によって「神の審判」であったという旨が説明されていた。
 病んだまま100年生き続けた先王の血筋は既に絶えている。
 町の噂では、新しい王は先王と姻戚関係にあった有力貴族の中から選ばれる事になるだろうと言われていた。
「今のエルカーズは半ば分裂状態だ。特に王都が近い地域は領主が逃げ出して、神殿やギルド、中には山賊のような者が実質的に治めている土地もある。今迄はある意味魔物がこの国を不可侵にしていたが、これからは国を一つに纏めて行かねば、周辺国に対抗できない」
「そういうものなのか……」
 レオンは俯き、手綱を持つ手に視線を落とした。
 以前の、王を倒せば全てが解決すると思っていた自分は、何と甘かったことか。
 この地での甘く幸福な生活も、実は薄氷の上にあるのかもしれない。
 そう思うと、ただ能天気に付いて来た自分が恥ずかしくなった。
「会議に出てくるのは貴族と神官だけだが、王の後継問題一つとっても揉めるだろう」
「……。もしかして、戦争になる可能性もあるのか……」
「話し合いが決裂すれば、または新しい王の振る舞いによっては内戦になる。それよりも先に周辺国が魔物に奪われた領土を取り戻そうと進出して、それが戦争に繋がる可能性も高いな」
 話すうちに森が途切れ、黄金色の麦畑と王城の建つ丘と都が眼前に見え始めた。
「魔物さえいなければ、この地域は豊かな土地だ。貴族の醜い争いに巻き込まれ、再び焦土となるような事は避けねばならない」
 長い冬を越え、初夏の風の下で地平を埋めて揺れる麦を共に眺める。
 2年前の夏の終わり、共にこの街道を通り過ぎた時にはまだ荒れ野だった場所だ。
 この北部エルカーズは王都に近かった為、国土の中でも1番魔物の被害を受けている。
 この牧歌的な光景を取り戻すまでには、帰国者や元魔物の兵士への土地の再配分、収穫までの資金の工面と租税制度の再整備、果ては害獣の駆除まで、ただならぬ苦労があり、その全てにオスカーが関わって来た。
 レオンも家庭菜園を学びがてらあちこちで農作業を手伝い、時には食糧を狙って町を襲う賊の集団を返り討ちにするなど、その働きの一旦を担っている。
 出戻り貴族という立場のオスカーを当初は認めなかった他の参事や農民達も、優れた統治者として、そして再び戻った彼らの領主としてオスカーを認め始め、今は共にこの土地を豊かにする事に励んでいた。
「オスカー……」
 ――カインは何故、今、こんなにも人間の為に身を粉にして尽くそうとするのだろう。
 この先、神としての生に比べればずっと短い人生の貴重な時間を使って――ほぼ、なんの見返りもないのに。
 それを尋ねてみようとした時、麦畑の向こうから鈴のような子供の声が聞こえてきた。
「オスカーさまあ!」
 7、8歳くらいの小さな少年と、そのすぐ下の弟と思われる兄弟が馬の前に飛び出してくる。
「おっと。危ないぞ」
 手綱を引いて止まると、栗色の髪の2人の少年は嬉しそうに馬上に手を伸ばした。
 彼らにはレオンも覚えがあった。この近辺の畑を持つ農夫の息子だ。
「オスカーさま、何処に行くの?」
「この前、お馬に乗せてくれるって言ったよね」
「ははは。そんな事を約束したな。途中まで、少しだけなら乗せてやろう。レオンは弟を乗せてやれ」
 頷き、共に馬を降りた。
 興奮して脚をバタつかせる少年の胴を抱き馬上に乗せてやっているオスカーを見て、自然に微笑みが浮かぶ。
 包み込むような大らかな優しさと、精悍な美しさを持つ青年を――その裏側に宿る神を、心から愛していると感じた。


 その夜、2人はいつかのように街道脇の草原の草を刈り、そこに火を焚いて夜を過ごした。
「そういえば、お前と初めて恋人になったのはこの辺りだったな」
 寄り添って座りながら、オスカーはどこか楽しそうだ。
「思い出させるな、色々と恥ずかしいから」
 レオンは立てた膝に顔を埋めて視線を逸らした。
「エルゼと一緒に過ごしたのだろうと言い出した時は意外で本当に驚いたものだ」
 逞しい腕が肩を抱き寄せてきて、形のいい唇が髪に触れ、柔らかに口付ける。
「……」
「嫉妬しているお前は初めて見たから、抱き潰したくなるくらい可愛かったな」
 耳元でそんなことを言われて、益々いたたまれなくなった。
「だからそういうのは恥ずかしいからもう勘弁してくれ……お前、夜も元に戻らないつもりか」
 顔を上げて美しい緑の瞳をじっと見据え、訊ねる。
 オスカーは穏やかな表情で、艶のある髪を揺らして首を振った。
「以前のように、誰か通りがかってもとっさに消えたり移動したりは出来ないからな」
「……そうか……」
 心が痛むが、彼が二度と急に消えてしまうことがないという事が嬉しいとも思う。
 そんな自分の罪深さに密かに苦しくなりながら、レオンは彼の肩にこめかみを寄せた。
 今日の恋人は、随分沢山のことを自分に話してくれた気がする。
 最近、昼間は外出が続き、夜は交わってそのまま眠るのを繰り返していた為に、余り会話をしていなかったことに気付いた。
「近頃遠出していなかったから、疲れただろう。眠ろうか?」
 大きな手に優しく髪を撫でられ、問い掛けられる。
 その仕草は昨日抱かれながら眠った時と同じだ。
 酷く切なくなりながら頷いた。
「……カイン、ずっとオスカーでいることは辛くないのか?」
 思わず名前を呼び、彼の手を包み込むようにそっと片手で掴む。
 オスカーはクスっと喉を鳴らして笑い、答えた。
「どちらにしても、私は嘘をついている訳ではない。お前を可愛い、愛しいと思う気持ちは何も変わらないのだから、別に辛くはない」
 そして急に真顔になって、付け加えた。
「だが、この姿の時にお前を抱くつもりはない」
 心にビッと亀裂が走る感覚がして、レオンは俯いた。
 こんな風に急に釘を刺されたという事は、自分はまた物欲しそうな顔をしていたのだろうか。
 そして、今まではしたいだけしていたのに、急に交わることをやめて、我慢ができるのかも不安にもなった。
(カインはそういう事になっても平気なんだな……)
 そんな風に思えてしまって傷付く。
 欲しいままに抱いてくれたのは、嫌々付き合ってくれていたからで、もしかして本当は飽きられていたのかもしれない――どうしてもそんな後ろ向きな考えが浮かんだ。
「そんな顔をするな……お前は人並み以上に体力があるとはいえ人間なのだから、余り私に合わせていると壊れてしまうだろう?」
 心を読まれたのか、余程顔に出てしまっていたのか、宥めるような事を言われて頬が熱くなった。
 肩を抱き寄せられ、耳元にそっと囁かれる。
「これをいい機会に少し体を休めろ。王都に着いたら、人目のない場所でまた足腰立たなくなるくらい愛してやるから」
 ゾクッと体の芯が痺れて、熱の混じった溜息が唇から漏れる。
「分かった……寝よう」
 素直に頷き身体を離そうとした瞬間、背中を強く抱き寄せられて深い口付けが唇を襲った。
「ウんっ……!?」
 喉奥まで舌を捩じ込まれる息苦しい程深い口付けに驚き、声も出ない。
(おまえ、抱かないって言ったのにこんな……!)
 抗議の意味を込めて蜜色の髪を掴むが、口の中のあらゆる場所を擦り付けるような激しい動きが止まない。
 まるでセックスの代償のようなキスだ。
「……ん……ァっ……っ、やめ、」
 ジンジンと下半身が疼いて、堪らずに唇をずらして外す。
「――し、したくなるから……」
 苦しさと切なさに涙ぐみながら訴えると、やっと肩を掴まれた手を離してもらえた。
「悪かった……。さあ、眠る用意を……」
 額に優しく口付けられ、オスカーが離れて行く。
 切なく焦れる炎を身の内に籠らせたまま、レオンは寝床を作るために彼のそばを離れた。


 一週間ほどの旅の末に辿り着いた王都は、明るい日差しに照らされ、少しずつ戻ってきつつある人々の活気に溢れていた。
 神殿に神官が戻ったことで巡礼の人々がやって来るようになり、彼らを迎えるための施設が再開し始め、市場も開かれるようになったーーと、ティモからの手紙では聞いていた。
 恐らくかつての活気にはまだ程遠いであろうが、確かに大通りには都市特有の人々の営みや明るさが兆し始めている。
 特に今日は各地から従者を連れた貴族や神官たちが多く集まるという噂を聞きつけ、彼らを一目見ようと周辺の農村からも人が集まり、人通りだけはまるで祭りのような様相だ。
 人混みの中でゆっくりと馬を歩かせながら、オスカーが後ろに付いているレオンに視線を送る。
「あの黒い馬車を見ろ」
 指差された方を向くと、道の傍らに黒馬の二頭立ての馬車が停まっている。
「あれはお忍びを装ってはいるが、南部のボルツ大公だ。王の従兄弟のひ孫にあたる」
 重厚な馬車から降りて来る男の横顔に目を馳せる。太っていて頭には髪の毛が一本もなく、黒々とした眉が貫禄を感じさせる男だ。
 馬車が止まっているのはどうやら娼館の前らしく、派手に着飾った女達が彼を出迎え連れ去って行った。
「あんな場所も再開しているとは、さすが世界最古の職業と言われるだけのことはあるな……」
 半ば呆れたように言い、オスカーが別の方向を示した。
「それから、後ろから来てるのが、東部の領主ギレス公。王の末の妹の子孫だ」
 視線を移すと、いかにも軽薄な感じのする装飾過多な馬車の窓から、やせぎすで、耳の下で金髪を真っ直ぐに切りそろえたオカッパ頭の中年男が顔を覗かせ、あちこちをキョロキョロしていた。
「どっちも王になるには器が足りんだろう」
「……なるほどそのようだ」
 レオンは余り気が乗らない調子で返事をした。
「……疲れているのか?」
 オスカーが怪訝そうにこちらを振り向く。
「そういう訳ではない……久々に人を多く見たから、ちょっと驚いているだけだ」
「それなら良いが。さあ、私達はこちらだ」
 言われるがままにオスカーについていき、馬で丘への登り坂に進んでゆく。
(疲れているーー確かに、そうかもしれない)
 レオンは馬上でぼんやりとしながらオスカーの深緑のマントの背中を見つめた。
 旅に出てからこの一週間、毎晩キスだけで抱き合って眠るのを繰り返して来た。
 絶対に気付かれてしまうので恥ずかしくて自慰も出来ず、最後の晩には軽いキスだけで射精してしまいそうになるのを必死に堪えて、――そのあとはもう、頭の上の星の数を長いこと数えて無理矢理に眠った。
 そうでもして心を無にしなければ、セックスする事ばかりを望んでいるのが相手に伝わってしまいそうだったからだ。
 しばらくしなかったお陰で体中に付いていた内出血の跡や皮膚の炎症は全て綺麗に治まったが、それも彼の愛情の痕跡が失われてしまったようで、ひどく寂しかった。
「僅かしかない宿は一杯だからな。我々は神殿に世話になる事になっている」
 背を向けたままのオスカーの言葉に頷きながら、旅の間ずっと恋人が平然とした態度だったことを思い出す。
 昔からずっと今に至るまで、彼の感情が全く読めない。
 何でもないような顔をして「愛してる」とか「可愛い」とか囁き、不意打ちで淫らなキスをして、レオンの忍耐を易々と壊していく癖に、そのくせ冷たく離れていく。
 そのたびに心を翻弄されて傷ついて、それでも切ないくらい求めてしまう自分が酷く情けなかった。


「久々だな、ここは」
 気が付けば2人の馬は王城のある丘のふもとの神殿に近付いていた。
 階段が付けられ少し高くなった土台の上に、上下に彫刻の装飾のついた柱の並び立つ出入り口が見える。
 まだ屋根の崩れかけた部分がガラス窓の並ぶ側面に垣間見え、レオンは何気なく呟いた。
「神官が戻っているのに、まだ天井が壊れたままなんだな」
 見上げながらレオンが言うと、オスカーが肩を竦めた。
「王城もそうだが、こういった切石で構築された建造物の修復は、相当に力量のある建築家と石工職人が必要だ。この地方ではそんな人材はとっくに亡命して、外国で既に職についている。他から呼んできて雇うにも莫大な金額が要るだろうな」
 それを聞くと、こうした建物にまで復興の手が回るのは何百年後なのだろうという気がしてくる。
 今のこの地方は、やっと食べるのに困らなくなって来たという所なのだから。
 神殿の前で馬を降りていると、柱の間から黒い巻き毛と、そばかすを散らした顔が特徴的な、小柄な中年の神官が走り出て来た。
「アビゴール様! レオン!」
「ティモ、その名前で呼ぶな」
 慌ててオスカーが注意すると、神官――ティモは少年のようにぺろっと舌を出してはにかんだ。
「これは失礼、オスカー様。お待ちして居ましたよ。レオンもよく来たな! 久しぶりに会えて嬉しいぞ」
 小躍りするほどはしゃぎながらティモがレオンに抱きついてくる。
「ん。お前、ちょっと痩せたのではないか? 食べるものがないなら、神殿からまた幾らでも供物を届けるぞ」
「いや、家庭菜園が意外と上手くいってるから、今のところは……神殿修復の費用が大変なんだろ、俺のところは気遣わなくていい」
 親しく肩を抱かれながら間近で話している内に、オスカーの表情がみるみる凍りつく。
 彼らしからぬ空気を出し始めているのを見て、流石にレオンも気付き、目配せした。
(こいつは元からこういう性格なんだ、そんなんじゃない)
「さあさあ、来てくれ。以前よりかはずっと綺麗にしたんだ。仮ごしらえだがお前が落っこちてきた床の穴も塞いだし、魔物避けに窓に目張りしていたのも取っ払ったから、見違える様になってるからな」
 腕を掴んで引っ張られ、神殿の身廊に連れ込まれる。
「これは……」
 以前の、穴が開いている場所以外は闇に包まれた神殿を想像していたので、驚いた。
 奥の祭壇まで続く長い身廊が、側壁に並べるように設けられた縦長の窓のステンドグラスの五彩の光に照らされている。
 ずっと昔、じぶんの育ったタルダンの首都の教会を思い出し、懐かしく温かい気持ちになった。
「こんなに美しい神殿だったんだな……」
「この国1番の神殿だぞ、異国人。さあさあ、お前たちの部屋は奥だ」
 強引にどんどん奥へ連れて行かれるレオンをよそに、背後ではオスカーが、いつのまにか現れた老神官ベアリットに呼び止められていた。
「オスカー様。誠に誠に、おいで頂いて心強う思います……」
「神官長殿、会いたいと思っていた所だ。少し2人で話をしたい」
 振り向くと、2人は踵を返してレオン達とは別の方向へ行ってしまう所だった。
「オスカー……」
「お前はこっち、こっち。荷は神官見習いに運ばせておくから、ゆっくりくつろげ」
 ティモに強引に連れて行かれ、彼らを追い掛ける事も出来ない。
 柱の影に消えてしまった恋人の行き先がわからないまま、レオンは奥の部屋に引き摺られて行った。


 ――結局その日、オスカーは終日神殿に帰ってこなかった。
 王都での滞在にあてがわれた部屋は、皮肉にも、いつか再会したカインと結ばれたあの部屋だ。
 二つ並んだベッドの片方に腰掛け、一人きりのままでは思い切って出かけることも出来ず、ずっと待ちぼうけを喰らう羽目になった。
 最後には部屋に籠っているのもバカらしくなり、神官たちに夕食を馳走になった後は部屋に帰らず、ふらりと歩きで街へ出かけた。
 大通りは酒場を中心にまだ賑わっていて、以前来た時とはまるで別の場所のようだ。
 酒は昔戒律で遠ざけていて、今に至るまで殆ど飲んだことが無い。だが今夜はひどくふて腐れた気分だったので、どこかに入ってやろうかという気分になった。
 人の間をブラブラとゆっくり歩いて、いくつかの営業中の店に目星を付ける。
 なるべくトラブルに巻き込まれなさそうな場所を探していると、急に後ろから腕を掴まれた。
「カッコいい騎士のお兄さん。あたしと遊んで行かない?」
 振り向くと、豊かな胸を露わにした赤いドレスを身に付けた妙齢の女が微笑んでいる。
「いや、俺は……」
 戸惑いながら腕をもぎ離した。
 よくよく見れば、そこは昼間に見た娼館の前だ。
 袖にされた女が残念そうに濃い化粧の眉を下げる。
「あら、あんたはカタブツなのねえ。昼間あんたと一緒にいた綺麗な貴族様はお楽しみの真っ最中なのに」
 その言葉にレオンは凍りついた。
「オスカーが……?」
「そうよ、あの素晴らしい金髪の、信じられないくらいカッコいい貴族様。あんたのご主人なんでしょ」
 呆然としていかがわしい館のファサードを見上げる。
 その開け放した窓には、白い胸を露わにした女達が腕を広げ、男達に声を掛けては笑い声を上げていた。
(あいつが、ここで女を……)
「だからさあ、あんたも遊んでいきなよ。割引するよ」
 一瞬ついて行って中に入り、オスカーを探そうかと思った。
 だが、探してどうなるだろう。
 女を抱いている彼の前に出て行って、何故こんな所にいる、浮気者と詰問するのかーーそんな事をこの場所でしたら、良い笑いものだ。
 自分が男の愛人だという事を宣伝することになり、貴族としてのオスカーの顔にも泥を塗る。
 それがどれだけ人間としての彼にとってマイナスになるか、それくらいのことは自分にもわかる――。
「俺はいい……帰る」
「あんたは真面目なのねえ、残念だわ。気が変わったら来てね」
 手を振った娼婦に振り返ることなく、レオンは沈んだ表情で俯き、神殿への道を戻り始めた。


 ――それから神殿の自分の部屋に帰るまでの間の事を、余りよく覚えていない。
 帰り道で使いの途中のティモに会い、顔色が酷いと驚かれた覚えがある。
 無理矢理ベッドに寝かされ、夏だというのに温めたミルクや毛布を出され、過保護なほどに世話を焼かれた。
 だが何をしてもレオンが薄ぼんやりとしているのを見ると、最後は気遣ってくれたのか、気がつくと部屋に1人だった。
 久々に夜着に着替え、柔らかいベッドで眠れるというのに、全く寝入る気分になれない。
 ただ天井を見上げながら、無意識に心の中で名前を呼んでいた。
(カイン……)
 昔、どうしても寂しくて彼に会いたい時、そうやって彼の名を呼んでいたことを思い出した。
 今はもうすっかり、そんな必要が無くなったので忘れていた。
(カイン……カイン)
 何度か名前を呼ぶのを繰り返してハッとした。
 急に消えたり、移動したりは出来なくなったと彼は言っていたのに。
 いま娼館にいるなら、名前を呼んだとて無駄だ。
(俺は何をやってるんだ……)
 苦しい自嘲が喉を込み上げ、寝返りを打った。
 誰かに心臓を掴まれているように胸がとても苦しくて、涙が溢れてシーツが濡れていく。
 目を閉じると、どうしても、このベッドで彼と抱き合った時の幸福が思い出されて仕方なかった。
『レオン、愛してる……』
 カインでいる時には時々しか言ってくれないその言葉が耳元で蘇って、切なくて堪らなくなる。
 彼はレオンの為に永遠の命も、特殊な力も、沢山の物を捨てた。
 そんな彼を責める資格は、無いのかもしれない。
 病み衰えていく内に捨てられても、飽きられて、別の人間に行ってしまわれても。
 それでも自分はきっと、死ぬまで彼を愛してしまう。解けることのない呪いのように、出会ってから百年を越えてもなお、こうして切ないほど彼に焦がれているのだから。
 そして幾度もこんな苦しみを味わうのかもしれない――。
(カイン……)
 飽くことのない癖のように、また名前を呼ぶ。
 涙の跡を頬に残したまま、それでも長旅の疲れが、レオンを少しずつ眠りに引き込んでくれた。

next