理想の結婚


 二日後に蛇の目さんから結果連絡の電話が来た。
 予想通り仮交際開始って話だったんだけど、蛇の目さんは自分がお見合い大成功しちゃったかのような浮かれっぷりでちょっと引いた。
「ねっ、絶対合うと思ったのよ、まだ仮交際だけど、取り敢えず良かったわね! 次のデートも頑張って!!」
 ――なんて激励されても俺、微妙な立場なんですけど。
 まあな、俺この相談所では仮交際に発展した相手ゼロだったし。人によっちゃ十人とか並行して仮交際してるのも居るんだもんな。そりゃ鬼の婚活アドバイザーも浮かれるわ。
 複雑な気分とはいえ、次のデートの予定は実はもう決まっていて。
『次の日曜日、10時に葛東臨海公園駅の改札外の噴水の前で。俺が二人分お弁当作っていきます。少し運動したいので、動きやすい格好で来て下さいね』
 畳に敷いた薄っぺらな布団の中でメッセージアプリの画面見ながら、俺は火曜日の晩から何着てったらいいのか頭抱えてる状態だった。
 だって情けねぇ話だけど、二度目のデートなんて婚活じゃ初めてなんだぜ!?
 いっつも初回はスーツ着てってたし。
「あーもうどうしよう……」
 公園デートだとずっと外だから、あの絶世の美青年が俺の隣に並ぶってことだろ?
 うわーっ、もう想像しただけでいたたまれねぇ!
 同じ男として釣り合わなさすぎる……!
 運動って、ランニングとかするつもりなのかな。
 俺そんな走るの得意じゃねぇけど。
 犬塚さんは得意なんだろうな、犬だし。
 俺もついダウンロードしてしまったゴールデンレトリバースタンプで「了解」を送信すると、また別の可愛い犬の絵で『おやすみなさい』って来た。
 心がキューンとして、スマホを抱き締めたくなる。
 今度会った時、一回でいいからあの毛並みを触らせて貰えねぇかなぁ。頬ずりして、……キスしたい。
 って、キスって……!
 相手、犬だけど男!!
 あぁもう、この気持ちほんと何なんだろう。単に犬が好きなのか犬塚さんが好きなのかよく分かんねぇよ。自分は一体どうしたいんだ。
 次の日曜が、楽しみだけどすげぇ怖い……。


 ――そうやって毎日日曜日のことを悩んだり考え続けてる間に、気付けば約束の朝になっていた。
 お袋に「何だか分かんないけど気合入ってるねぇ、頑張っといで!」なんて見送られて(婚活のことは、無駄に期待させても悪いから内緒だ)、地元の駅から電車に乗り、中継駅でまた乗り換えて、約束の公園へと向かう。
 途中のネズミーランドの駅で降りてくカップルを見て、あーいうデートも楽しいだろうな……なんて羨ましくなったりしつつ、俺は約束の時間より30分も早く葛東臨海公園駅についてしまった。
 うぅ……絶対に遅れないようにと思って、かえって勇み足になっちまった。
 服装は結局、ランニング用の黒レギンスとショーツの組み合わせに、ちょい大きめのざっくりした赤のウィンドブレーカーで来た。春先だけど、海近いから寒いかと思って、結構保守的に着込んだつもり。
 前髪も下ろして遊ばせて、仕事っぽくねぇ感じにして、目一杯頑張った。何のために頑張ってんのか既によく分かんねぇけど……。
 で、駅前に出てみたら肝心の噴水が見当たらなくてさ。
 えっ降りる方向間違ったか……!? と思ってキョロキョロしてたら、いきなり犬塚さんに後ろから声掛けられたんだ。
「おはようございます!」
 俺は振り向いて絶句した。
 まさか俺より早く着いてるとは思わなかったっつーのもあるけど、俺にこの格好を要求しておきながら、「お前これから渋谷デートかよ」っていう格好だったんだよ、犬塚さんが。
 金髪ウルフの前髪をギザギザに七三分けして綺麗な額を出して美貌を際立たせた上、茶系の渋いジャケットとベストにクラシカルなチェックのマフラー、細身の黒デニムに先の尖った革ブーツ……。手には弁当とか色々入ってるらしき、洒落っぽい店のショッパー。
 一瞬完全にハメられたと思った。
 俺ばっかり気合い入れたランニングファッション着て来ちゃって、何かの罰ゲームか!?
 メチャクチャカッコいい相手をじとっと恨みをこめて見つめて見たけど、あんまり通じてねぇ。
「この待ち合わせ場所の噴水、わかり難かったですよね、すみません。……今は水が出てない上に、花壇で囲んであるだけのフラットな噴水だから」
 謝るのそこ!?
 犬塚さん天然かもしれねー。人間の顔しててもなんか可愛いな……。
 服装の件はもういいかと諦め、俺は公園のある海の方角を指差した。
「ちょっと早いけど、行きましょうか」
 頷いた犬塚さんと、海沿いの広大な公園の入り口に向かってメインストリートを歩き始める。
 葛東臨海公園は中に水族館やら鳥類園やら植物園やらがあって、観覧車なんてものまである都内最大規模の公園だ。
 彼女がいた頃に水族館目当てに行ったことぐらいはあるけど、運動だけが目的で来た事はねぇな。
 何で犬塚さんはココに来たかったんだろ。
 不思議に思いながら並んで歩く。
「犬塚さん、何時に着いてたんですか?」
 訊くと、彼はちょっと目元を紅くして答えた。
「ちょっと、早く着き過ぎてしまって……9時くらいですかね」
 ちょっ、どんだけ早く来てんだよ。
 と突っ込もうと思ったら、
「鳩羽さんと会うのが楽しみ過ぎて、早起きし過ぎました」
 なんてキラッキラした顔で言われて、開いた口が塞がらなかった。
 えっ俺たち付き合いたてのカップルでしたっけ……いや、これは仮交際、仮の交際だろ……!
 俺までカーッと頬が熱くなって、海風メッチャ吹いてんのにカッカしてきた。
「あと、あまりのんびりしてると弁当が弟達の餌食になりそうだったので」
 ショッパーを持ち上げながら美青年が微笑む。
 俺もお袋が病気がちだから料理は作れるけど、犬塚さんもきっと普段家族の為に料理してんだろうなぁ。
 何だか微笑まし過ぎて顔が緩んだ。
「弁当、楽しみにしてます」
 言うと、ふふっと笑って犬塚さんが頷く。
 二人で歩いてどんつきの海沿いまで南下して、舗装された道路を右に外れた。
 午前の明るい日差しでキラキラ輝く海面を左手に眺めつつ、日曜の割にはまだそんなに人の居ない、広大な芝生が目の前に見えてくる。
「ちょっと脱いでくるので、ここで荷物と一緒に待っていて貰っていいですか」
 犬塚さんに重い紙袋をハイと渡された。
 一瞬何を言われたのか意味が分からない。
 ……脱いでくる??
 あぁ、下になんか運動用のを着てて、着替えてくるって意味か。
 やっぱあんな洒落た格好じゃ運動できねぇもんな。
 良かった、俺だけ罰ゲームじゃなかったわ。
「はい、行ってらっしゃい」
 頷くと、犬塚さんは大股で歩いて、メインストリートの途中にあった白いレストハウスの方に去って行ってしまった。
 一人で芝生に座って待ってる間、悪いかなーと思いつつ意地汚い心で荷物の中を覗いてしまう。
 人に弁当作って貰うなんて、高校の時のお袋の弁当以来ですげぇテンション上がるなぁ。
 嬉しくてつい大判のランチナプキンで縛られた弁当をナデナデしていると、その横になんか硬いものが入ってる事に気付いた。
 なんだこれ? 薄いプラスチックみたいな……
 首を傾げていると、後ろからうぉん!と犬が吠える声が上がった。
 驚いて振り返って――俺は飛び上がる程驚いた。
 なんか、巨大なゴールデンレトリバーが!! 俺の後ろでメッチャ尻尾振ってるんですけど!!
 どう考えても、一般的な大型犬よりもふた回りはデカい。子供とか背中に乗れちゃいそう。そんで噛まれたら確実に死にそう。
 しかも何故か首輪の代わりにチェックのマフラーしてる。……ん? チェックのマフラー……?
「も、もしかして犬塚さん!?」
 訊くと、目の前のデカイ犬は嬉しそうにワンワン吠え出し、尻尾を激しく振りながらグルングルンと俺の周りを走り始めた。
 い、犬だ……この前会った時は体は人間だったけど、これは完全に犬……!
 最早デートというより散歩じゃねぇか!
 だけど俺はすっかり嬉しくなってしまった。
 かっ、カンワイイい〜〜!!
 犬になってしまった犬塚さんは尻尾を振りながら紙袋に長い顔を突っ込み、中からさっき俺が見つけたプラスチックの塊をガサガサと引き出した。
 白くて丸くて薄っぺらな円盤みたいな形してるやつ。――あぁ、フライングディスク。フリスビーだ!
 それが、投げろと言わんばかりに俺にグイグイ押し付けられた。
 どうやら完全に犬になってると喋れねぇらしい。
「オケオケ、分かったよ! やったことねぇから投げんの下手だと思うけど許してなっ」
 完全に犬だとついつい敬語が取れちまうなー。
 まあいっか、俺の方が年上だし。
「行くぜー!」
 ゴールデンレトリバーのテンションがマックスになり、俺の周りをグルグル回って助走を始める。
「えいっ!」
 投げた途端にダッと犬塚さんが駆け出したけど、ディスクはとんでもない方向にすっ飛び、すぐ手前でヘロヘロになって墜落してしまった。
「あちゃー!」
 それを旋回して戻ってきた彼が拾ってくわえ、尻尾を振りながら俺の所に持ってきてくれる。
「ごめんな! もう一回!」
 確か、フリスビーを投げるには回転が大事ってどっかで読んだことあるぞ。
 今度は手首にスナップを利かせて投げてみる。
 すると今度は予想外の飛距離が出た。ただし方向は明後日だ。
 結構無理があったけど、犬塚さんがダーっと凄い勢いで飛び出して地面ギリギリでディスクをキャッチする。
「お見事! コツが分かってきたよ!」
 金色の毛並みをビュンビュンなびかせ、四肢を目一杯使って、飛ぶように芝生を走る犬がメチャクチャにカッコよくて、惚れ惚れする。
 大型犬ってすげぇ……!!
 こんな風に犬と遊ぶの、子供の頃からのすげぇ憧れだったんだ。
 犬が飼いたい、クリスマスプレゼントも誕生日プレゼントも一生我慢するから子犬が欲しいって、よくお袋を困らせたもんなー。
 物心ついて、ウチは貧乏で、俺に教育受けさせるだけで精一杯だってことが分かり始めてからは絶対に口にしなくなったけど。
 まさか婚活でちょっとだけ願いが叶うなんて、三年負け続けても嫁さん探し頑張った俺への、神様のご褒美かな? だとしたらすげー嬉しい。
 ……戻ってきた彼からまたディスクを受け取り、今度はもっと後ろに引いてから、なるべく水平に投げる。
 ――おおっ、大分狙った方向にディスクを投げられたぞ。
「よっしゃ!」
 ワン!ワン!と高い吠え声と共にまた巨大なゴールデンが飛び出して行き、地面を蹴り上げて身体をひねるみたいに飛び上がったかと思うと、空中で見事なキャッチ。
「スッゲェ! カッコいい!!」
 思わず両手を広げて彼の帰りを待ち受けると、興奮しきった巨大な犬が、ドドドッと戻ってきた勢いで前脚を上げて俺の身体にのしかかってきた。
「おわぁっ!!」
 チェックのマフラーが地面に落ちると同時に、背中が太陽光であったまった芝生に倒れる。
 柔らかい毛並みの身体を思い切り抱き締めて、俺は切ないくらいの幸福感を味わった。
 あぁぁ……ッ!!
 もう、すっげぇ、柔らかくてあったかくて、ずっとこうしてたい……っ!
 カンワイイし、気持ちイイ……っ、……なんかもうほんと、犬塚さんがっ、大好きだぁ……っ!!
 犬として、だと思うけど――。
 ふっさふさの毛が生えた前足がのっしりと胸の上に乗り、長い舌が俺の頬やこめかみをベチョベチョになるくらいべろべろと激しく舐めてくる。
「アハッ、くすぐってぇって! ン、こら、くふふっ」
 首筋までザッラザラの大きな舌で舐められ、ゾクゾクくすぐったくて、肩を竦めてゲラゲラ笑った。
「あははっ、ちょい待っ、うァッ」
 こらっ、耳まで舐めるな、変な声出るだろ!
 でもこれはちょっと、擽られてるみてぇで反則的に楽しい。
「仕返しだっ」
 ドサクサに紛れ、毛足に唇を埋めて首筋の毛皮に沢山キスした。更に垂れてる可愛い耳持ち上げて、その下にも。うーん、この独特の甘ぁいような臭いような犬の匂い、……うっとりする……。
 自分で仕掛けときながらポワアンとなってると、ピョイッと前脚を上げて犬塚さんが離れ、ブルブルブルっと身体を振りながら俺に吠えたてた。
 あは、遊ぼうって催促してるのか?
「ごめんごめん、投げる投げる!」
 すぐに立ち上がり、ディスクを出来る限り遠くに投げる。と、同時に俺も走って、一緒に落ちてくるのを奪い合ってみた。
 犬塚さんともつれるみたいにゴロゴロ芝生に倒れて、また爆笑。
 ……そんな感じで久しぶりに思いっきり身体動かして、その後、芝生がだんだん人で混んで来た所で一緒に海沿いの道をランニングして……結局午前中はずっと、大型犬と思いきりじゃれあって過ごした。
 最近俺ろくに運動してなかったのに、こりゃ明日は筋肉痛決定だわー。
 全然後悔ねぇけど。
 ――この仮交際が途中でダメになって犬塚さんと会えなくなっても、今日のことはきっと一生の思い出になるに違いない……。



――運動しすぎて二人ともすっかり腹が減った頃、犬塚さんは一回またレストハウスに消え、長身金髪のカッコいい人間姿になって芝生に戻ってきた。
 洋服とかどこに置いてたんだろ? ロッカーかな。
 ……っていうか、よく考えると俺、全裸の犬塚さんと凄い密着してたんだな……。
 犬の時は全然気にしてなかったけど、人間の姿の彼が芝生に帰ってくる姿を見た途端、急に色んなことが恥ずかしくなってきた。
 だって……俺、犬だからって、結構凄いことまでしちまったぞ?
 横倒しになったまま両腕で彼を抱き締めて、見つめあった挙句、ざらぁっと唇と鼻の頭を舐められたりとか……。
 思い出した瞬間、人間の犬塚さんの厚い胸板に組み敷かれ、至近距離で唇を舐められてる自分を想像してしまった。
 うわわわわわ!!
 いっ、今のナシッ!!
 イヤイヤイヤ、それそれ、これはこれっ。別物……!
 ……だよ、な?
 一体相手の方はどう思ったんだろ。
 それとなく顔色を伺ってみたが、人間の顔の時の犬塚さんは感情が読みづらい。
「待たせてすみません。お腹空いたでしょう? お昼にしましょう」
 整ってるけど男らしい顔立ちは今朝会った時より少し赤みが差し、髪も心なしか乱れてる。
 あぁ、さっきの犬ほんとにこの人だったんだな、とは思う。実感はねぇけど……。
 犬塚さんが大きな手で紙袋の底から可愛い犬柄のレジャーシートを出した。
「すみません、弟のこんなのしか無くて」
「いえ、気にしないんで」
 くっ、ギャップがすげぇ可愛いです。
 芝生の上にシートを敷いて並んで座り、真ん中に弁当が広げられてゆく。
 重箱みたいなでかい弁当箱が開けられて、上の段いっぱいに詰められたオニギリと、どう見ても冷凍食品とかじゃないおかずがいっぱい詰まった下の段が出て来た。
 黄金色の出汁巻卵、インゲンと人参の肉巻きに、アスパラのベーコン巻き……味が染みてそうな煮物と、ほうれん草の胡麻和え。それに、イカとパプリカと玉葱のマリネに、ハンバーグに卵が入ったみてぇなミートローフが切られて斜めに並んでるのが華やか過ぎる。
 ううっ。ヨダレが止まらねえぇ。
 思わずウルウルした目で隣の犬塚さんを見てしまった。
「これ、全部作ったんですか……!?」
 彼女にもこんな事して貰ったことねぇのに。
 いや、むしろ俺が作る方だったもんな。
「はい、一応。すぐ下の弟も、からかいながら手伝ってくれましたけど」
 割り箸を渡されて、一瞬視線を合わせて微笑みながら「イタダキマス」する。
 何だかこういうのも新鮮で一々感動する……。
 箸でミートローフを摘み、一口噛み締める。
「美味い……!」
 無茶苦茶に空きっ腹っなのもあるけど、手間暇と真心を感じて涙が出そうな味だった。
 世の中にこんな人も存在するんだな……。
 いよいよ半端な気持ちの俺が申し訳なくなってくる。せめて次に会う時は俺が弁当作ろう。
 次……あんのかな。
 犬塚さん、今婚活どんな感じなんだろう。
 俺は相変わらず、お互いの希望がマッチングする相手がそもそも全然いねぇ感じだけど……犬塚さんはそんな事ねぇだろうし。俺よりもずっと条件のいいヒトともう出逢ってたりして……。いやいや、まだあれから一週間しか経ってねぇし、そんなことはねぇか。
 複雑な気分で絶妙な塩加減のオニギリを食ってたら、犬塚さんが心配そうな顔で話しかけて来た。
「オニギリ、しょっぱかったですか?」
 慌てて首を振る。
「めっちゃくちゃ美味しいですよ!? 感動して言葉出てこねぇくらい美味いです……ほんとに」
「じゃあ、毛でも入ってました? よくやってしまうんです」
「そんなこともねぇっす、大丈夫です」
「……」
 男らしい美貌がじっとこちらに向けられ、妙に鼓動が速くなる。
 さっきの変な想像がフラッシュバックして、まともに顔が見られない。
 俺はご飯を飲み込みながら、誤魔化すように話題を変えた。
「あの俺、ただ公園行くだけでこんな楽しいなんて、初めてでした……フリスビーもすげぇ楽しかったし……っ、誰かと遊びに行くの久々で……」
 目の前の相手が安心したように自分も箸を使って弁当を食べ始めた。
 その箸を持つ手がすげぇ綺麗で、見つめているだけでよく分からない感覚が身体の奥にグツグツと湧いてくる。
 何だ、これ……。
「俺も人間の男性とデートしたのは初めてでした」
 その言葉にドキッとした。
 犬塚さんにとってはこれ、やっぱりちゃんとデートなんだな……。
 そんでもって、人類じゃないヒトとか、女性とはデートしたことがあるってことか。
 そりゃそうだよな。
 やっぱりこの人は俺が申し込んだから受けてくれただけだったのかも。優しいから一回で切るようなことはしなかっただけで。
「あはっ、俺なんかとデートして貰っちゃって、本当にありがとうございます」
 笑顔で礼を言って頭を下げると、真剣な声で遮られた。
「……鳩羽さん。俺なんかって……自分で自分を貶めるような事を言ってはいけません」
 ハッとして俺は口をつぐみ、視線を落とした。
 卑屈に思われたんだろうか……そう思うと心を見透かされたようで急に恥ずかしくなった。
「それから、敬語をやめてください。さっきは使ってなかったでしょう」
 ドキッ。そこ気付いちまいましたか。
「わ、分かった。でもそれなら、犬塚さんも敬語やめて欲しい……」
 海の方を向いて視線を逸らしながらせめてもの抵抗をする。
「俺の方が年下ですよ」
 少し笑みを含んだ声で言われた。
「それでも」
「……努力します」
 言葉と共に、いきなり俺の顎の方に彼の手が伸びてきた。
 な、何だ……!?
 ビクンと身構えた途端、口のすぐ下に触れてその指が戻り、犬塚さんの形のいい大きな唇に入っていく。
「付いてた」
 あ、ご飯粒か……っ。心臓に悪い……って、別に食うことねぇだろ、教えろよ!
 相手は多分ワザとだったのか、メチャクチャ動揺してる俺を見てちょっと笑っていた――。


 昼飯食った後は人間デートで、園内の水族館に入ってみたりのんびり過ごした。
 夕飯も別の駅で一緒に食って帰ろうかって話にもなったんだけど、俺は昼過ぎた辺りから何故だか身体が重怠くて、夕方前には家に帰らせて貰うことにした。
 夕日の差す電車のホームに彼と並び、別々の方面の電車をそれぞれ待つ。
 ――なかなか来ない電車をぼんやり待っていた時、不意に犬塚さんに話し掛けられた。
「次、いつにします?」
 次……。次が、あるんだ。
 嬉しいような戸惑うような気持ちが湧いて来る。
 熱っぽくて何だか頭がフラフラしながら、俺は頷いた。
「俺、基本的にいつでも空いてっから……犬塚さんの方が忙しいだろ。都合に合わせるよ」
「そんなことないよ。俺は鳩羽さんとしか会う予定無いし」
 さらりと敬語を取って、犬塚さんが俺の背中に優しく腕を回した。
「大丈夫? 具合悪いんですか?」
 海からの冷たい風が吹きまくってるホームで、その温もりがじわっと伝わって、また身体の奥で何かが渦巻き、沸き立つ気配がする。
 これ、何だか嫌な予感がする……。
 早く家に帰らねぇと……。
 それにしても、今この人なんつった……?
 俺としか、会う予定が無い……?
 ――まさか、リップサービスだよな。
「大丈夫だから……」
 背中に触れている手からそっと離れる。
 何故だか分からないけどこれ以上触れられてると、取り返しがつかない事になる気がした。
「色々気ぃ使わせてごめんな。本当に、会うのは犬塚さんの会える時でいいから」
「そんなこと言われたら、明日って言うけど」
 何言われてんだろ。なんか頭がクラクラしてよくわかんねぇけど、明日が都合いいってことか?
 ちょうど入試と新学期の繁忙期の狭間だし、無理じゃねぇとは思うけど、二日連続はなぁ……。
「ごめん、平日とは思わなかった……明日は急すぎてちょっと……犬塚さん、職場どこ」
「俺は浜町だよ」
「ああ……俺は神保町だから、地下鉄で俺の方に来て貰ってもいいかな……そうだな、水曜の夜とかなら」
「分かった。じゃあ水曜に」
 約束したところでアナウンスが鳴り出し、ちょうど電車が来た。
 あんまり本数がねぇせいか、時間帯のせいか、かなり混んでいる。
「じゃあな。今日はほんと楽しかったよ、弁当もすげぇ美味かったし。……ありがとう」
 手を振って電車に乗り込み、入り口近くに立つ。
 犬塚さんの黒曜石みたいに綺麗な目が、何か言いたげに俺をじっと食い入るように見つめた。
(何……?)
 発車ベルが鳴り始める。
「また火曜ぐらいに連絡するから」
 そう言ってもう一度俺が笑顔を作って手を振ると、ドアが閉まる一歩手前で彼の長い脚がぐっと横に割り込むように乗って来た。
「えっ」
 驚いて犬塚さんの綺麗な顔を見上げる。
 あんたの電車、反対だろう……!?
 混んでて身体が触れそうな距離で犬塚さんが俺を見下ろす。
「具合悪そうだからやっぱり送っていく」
 驚いた。俺は十代の女の子じゃねぇんだぞ。
「いいよ、別に。そこまでじゃねぇから」
「でも、もう乗ってしまったし」
 強く拒絶する気力もなくて、俺は仕方なく電車のドア横に避けてもたれた。
 本当に頭がぼんやりする……熱がありそうだ。遅れて来たインフルエンザかな。
 犬塚さんが俺の前に立ちふさがるような位置に来る。対面に立つと、この人本当に背が高い。肩幅も広いし、やっぱり種族が違うんだなと感じる。
 そのまま会話すらなく一緒の車両に乗り続ける内に、混み合った電車が大きく揺れた。
「!」
 犬塚さんの胸がぐっと近付き、いわゆる壁ドンみたいな状態でその両手がドアと手すりに掛かった。
 冷たいほど整った彫りの深い顔が頬のすぐ横に来て、息が耳に掛かってる――。
 心臓が鷲掴まれたみたいになって、頭が真っ白になり、そして気付いてしまった。
 俺、……勃ってる……。
 恐ろしくて犬塚さんと目が合わせられない。
 これ、一時的なもんじゃねぇ。午後からずっとおかしかったから……多分、発情期のなりかけだ。
 あと1ヶ月は先の筈だったのに、何で今来てんだよ……!?
 俺、発情の周期が機械みたいにキッチリしてんのだけが取り柄で生きて来たから、まさか今日来るなんて全然思っても無かったし、薬も持ってねぇ。
 どうしよう……まだなりかけだけど、満員電車で隣にいたら分かるくらいの微かな匂いは出てると思う。
 ちょうど犬塚さんの位置なら、確実にバレる。
 アルファの相手には絶対キツいはずだ。――でも、彼は微動だにしない。
 耳に触れる呼吸が熱くて少しだけ荒い……。
 多分、気付いてねぇフリをしてくれてるんだと思う。
 やらかした……まだ仮交際の相手にフェロモン使うなんてルール違反もいいところだよ。
 この事だけで切られても仕方がねぇ大失態。
 情けなくて申し訳なくて堪らない。ワザとじゃねぇけど、絶対ユルい奴って思われたよな……。
 多分犬塚さん、さっき電車乗るとき気付いてトラブルになんねぇようにガードに入ってくれたんだ。
 発情期のことは、おおっぴらに口にするのも世間的にはタブーだから、面と向かって礼も言えねぇけど……。
 本当にこの人、ヤバいくらいいい男だ。
 ――そんでもって、ウィンドブレーカーの下で勃ちまくってる俺、ほんと最低……。
 一生懸命カオ逸らしてんのに、視界の端に入る犬塚さんの身体のどこ見ても目が眩む感覚がする。
 フワフワした金色の髪とか、その中に隠れてる可愛い垂れ耳、ジャケットの下の分厚い身体、俺を守りながら閉じ込めてる大きな両手……。
 何だろう俺……触りたい……のか……?
 それとも……。
(ダメだ、これ以上考えたら)
 慌てて思考停止したけど、うっかり気ぃ抜いたら犬塚さんに痴漢しちまいそうだ。
 俺、男には一度もこんなの感じた事無かったのにマジかよ……。
 アルファとほとんど会ったことなかったから知らなかったけど、オメガって属性はこういう事なのか――と思い知らされる感じですげぇショックだった。


 ――結局、犬塚さんは最後まで匂いのことに一言も触れずに俺を最寄り駅まで送り届けてくれた。
 家まで行こうかって言ってくれたけど、流石にそれは強く断った。家見られんの恥ずかしいし、ここ小学生の時から俺の地元だから、万が一知り合いに見られたら何となく気不味い。
 最寄り駅でようやく一人になった後、駅の窓口で頼んで、公的機関に常備してある非常用の発情抑制剤を分けて貰った。
 緊急とはいえこういうの申し出るのメチャクチャ恥ずかしいんだよ。ああこの人、発情管理に失敗したのねって目で駅員に見られるしさ。
 出来れば言い訳してぇぐらいだけど、その通りだよ、クソっ。発情したくてしてる訳じゃねえっ。
 薬飲んだ後しばらく駅長室で休ませて貰って、効き始めて体が落ち着いた所で家路についた。
 駅前の繁華街から五分歩いたところにある、築何十年か分からねぇボロい木造アパートの二階が俺とお袋の住処。
 本当はもうちょいイイ場所に引っ越せるぐらいの給料はあるんだけど、なかなか踏ん切りがつかなくてズルズル更新し続けてる。駅近くて便利だし、何より家賃安いしな。
 狭い玄関のドア開けたら、中は真っ暗だった。お袋は買い物っぽい。ちょっと安心した。
 入って箪笥からTシャツとジャージ出して着替えた後、奥の部屋の畳の上に布団出して、その上にバスタオル敷いて、用心のために更にもう一枚タオル被って横になった。
 自分の部屋ってもんすら明確じゃねぇ2Kの狭い家だから、俺の発情期中のスタイルは抑制剤飲んでひたすら収まるのを待つ、って感じだ。
 風呂の時とか真夜中にちょっと抜くぐらいで、あとは薬に頼ってひたすら耐え抜く。幸いそんなに症状重くねぇし、3ヶ月に一度だから普段は全く忘れて生きてんだけど、流石に前回から2ヶ月しか経ってねえのに始まるのはかなり凹む。
 お袋がいねぇうちに一回抜こうかなと思って、エロい動画見るためにスマホ握ったら、犬塚さんのメッセージが入ってた。
『無事に帰れましたか?』
 あぁ、心配させてたんだ……。
 あそこまでさせておきながら連絡するの忘れてエロ動画見ようとした自分が申し訳なさ過ぎる。
『ごめん もう帰ってる』
 短く打つと、すぐに吹き出しに既読が付いた。
『安心しました。水曜約束させてしまったけど、無理しないで』
『うん 無理そうだったら連絡する ごめん』
 打った後、またメッセージが画面に追加された。
『気にしないで。今日はありがとうございました。少し話したいことがあるので、体調良くなるのを待ってます』
 話したい事ってなんだ……。
 まだ会って二回だし、まさか付き合うって話じゃねぇだろう。
 仮交際、もう終わりにしようってこと――だろうな。
 俺、今日そのぐらいの事はやっちまったもんな……。
 引導渡してくれるなら早く渡してくれりゃいいのに。犬塚さん、俺が万全になるまで待つとか優し過ぎるのもかえって残酷だぜ……。
 いずれこうなると思ってたから、かえって少し安心したけど。
 あーあ。もっと何度も今日みたいにじゃれあって遊びたかったな。
 今日が最後なら、夜中まで一緒にいて飯食って帰りたかった。
 生きてて既に何千回も思った事だけど、何で俺オメガなんだろう。
 まあ、オメガじゃなけりゃ犬塚さんと出会うことも無かったんだろうけど。
 落ち込む余り抜く気すら無くなって、俺は布団に潜り込んでふて寝した。
 今日一日かなり運動したから、眠気はすぐにやってきた――。


 浅い眠りで落ちた夢の中で、俺は長い長い一本の坂道を歩いてた。
 周囲は夕暮れ時で誰もいない、見知らぬ住宅街。
 寂しいなんてもんじゃねぇ、路地は怖いぐらいの人気の無さだ。
 道に並んでるキレイな家の中では温かい家庭の気配がして、換気扇からは美味そうな夕飯の匂いが漂ってくるのに、俺には全く関係のない世界なんだってヒシヒシ感じる。
 俺はお袋がまだ帰ってこない、冷たくて暗いアパートに一人で帰るしかないから。
 俺はいつのまにか中学生くらいに戻ってて、黒い詰襟の学生服を着ていた。
 そういやこんな制服を着てた頃、誰もいない家に帰るのが嫌で仕方がなかったな……と思い出す。
 ――不意に、足元でキュンキュン声が聞こえた。
 道端に捨てられたダンボールの中から、ふわふわの金色の毛玉みたいな子犬が顔を出して懸命に鳴いてる。
 凄く気になって仕方ないのに、見なかったふりをして通り過ぎた。
 ウチじゃ飼えねぇから許してくれ、って思いながら。本当は今すぐ駆け寄って抱き締めたいのに。
 振り返らずにまっすぐ歩いて行くと、大学の時に付き合ってた彼女が電信柱の影から飛び出してきた。
 勝気そうな釣り目の美人で、胸の大きいロングヘアの女子大生。
 驚いて固まっていたら、俺の格好も学生服じゃなく、いつのまにかシャツとデニムになってることに気付いた。
「湊、あたしと別れて。あたし、子ども産みたくないから」
 彼女は笑顔で手を振った。長い黒髪とスカートが翻り、後ろ姿が通りの向こうに走り去って行く。
 俺はまた一人になって、重い足取りで坂道をまた登り始めた。
 ――どこまで行けば、俺の家にたどり着くんだろう。
 路地に並ぶ温かい家々はどれも俺を拒んでる。
 ……本当はもうこれ以上歩きたくねぇんだ……。
 すげぇ疲れてるしダルいから。
 でも、歩き続けねえとダメなんだよ。
 探さなきゃいけない。俺の家。俺の家族。
 だって諦めたら俺……。
 一生一人じゃ、寂しくて死ぬ……。
『鳩羽さん』
 呼ばれて俯いてた頭を上げると、目の前に、ジャケットとデニムを身に付けた犬顔の人――犬塚さんが、尻尾振りながら立ってた。
『鳩羽さん、俺と結婚してください。それで、ここにお家を買って可愛い子犬沢山作りましょう。そうしたらもう寂しくありませんよ』
 彼はキラッキラした菩薩みたいな目をしてて、それを見たら涙がブワーッと溢れて止まらなくなった。
 何回も頷いて、飛び込むみてぇに犬塚さんの首筋に抱きつく。
 なんてあったかいんだろう。本物の生きてる犬の毛皮にスリスリしながら、心のままに叫んだ。
「俺っ、子犬欲しいよ……沢山たくさん欲しい……!」
 逞しい腕が俺を強く抱き締め、包み込む。
 居たことねぇけど「お父さん」てこんな感じ……?
 甲にも指にも金色の毛の生えた犬塚さんの手が俺の腰をグッと抱き寄せる。
「てか、やっぱ俺が産まねぇとダメなの……?」
 顔を上げて涙目で訊くと、犬塚さんはワンッと吠えて頷いた。
「じゃあ俺、頑張るから……ン……っ」
 あれ、犬塚さん……いつのまにか裸になってる。毛が、犬並みに生えてるからあんまり裸っぽくねぇけど。
 そんで、何でか俺まで気付いたら全裸になって犬塚さんと抱き合ってた。
 道の真ん中なのに二人して全裸……俺まで犬みてぇ。ふふっ。
 獣面人身の彼の肌には、身体中柔らかそうな金色の毛が密生して生えてて、手のひらの裏は黒く肉球っぽい感じで少し硬い。
 ギューっと抱きついて毛の中に包まれるみたいに密着すると、幸福感でトロけそうになった。
 同時に、毛の繊細な感触が裸の肌を撫でて、堪らなく色っぽい気持ちになる。
 発情期全開の時みたいに腹の奥がゾクゾク疼いて熱い。
「あ、ッは……っ、犬塚さんの犬毛、あったかくてフワフワして気持ちいいよぉ……っ」
 腰を振って柔らかい毛にずりずり体の前面を擦り付けると、幸せ過ぎる感触でたちまち俺のチンポがガチガチになった。
 ガマン汁がトロトロ溢れて、犬塚さんの脚に生えたカワイイ毛を濡らしてる。
 頭の奥が罪悪感でいっぱいになんのに、止められねぇ。
「っあ、いく……俺、出ちゃう……犬塚さん……」
 切ない感覚に身を捩りながら、ハァハァ呼吸を繰り返しては相手の硬い太ももに恥ずかしい部分を擦り付ける。
「……あっ……」
 ――股間が精液やらナニやらでグチョグチョになったところで、俺は布団から飛び起きた。
 やっ……。
 やっちまったよ……。
 相手男……しかもイヌ毛オナニーで夢精って……。


 筋肉痛と薬の副作用でフラフラしながら真夜中に下着洗って、薬飲んでもう一度寝直して――起きたら朝で。
 俺は職場に連絡して午前中だけ仕事休んで、かかりつけの病院に行った。こんなに発情周期乱れるの初めてだったから、念の為な。
 そしたら医師の言うことには、通りすがりにアルファの方と接触したりした覚えはありませんか、って。
 その上言われたのが、オメガは30過ぎると身体が出産リミット意識し出して、相性のいい相手と接触すると発情周期が乱れやすくなる、って事で。
 昨日の今日でまたショックを受けた……。
 夢のこともあるけど、要するに身体ばっかり産む気マンマンてことじゃねぇか。
 ……犬塚さんの子供を……?
 夢の中でも俺、頑張るって言ってたしな……子犬が欲しいって。
 ……ずっと、自分は世間一般の男と何一つ変わんねぇと思って生きてきたのにな。
 ――12歳の時にオメガだって知るまで、自分は「普通」の男だと信じてたし、疑いもしなかった。
 オメガだと知らされてからも、余計なものは付いてるけど、他のことは周りのベータの男と何一つ変わらないと思ってた。
 この余計なものを使うってことは、女にならなくちゃいけない事だと漠然と感じてたし、セックスで子供を作るなら文字通りそういう事になると後から知って、なおさら嫌になった。
 男ってさ、俺の同級生殆どそうだったけど、毛は生えてるし硬いし脂っぽいし、頭の中身は大概アホでスケベだし、外見も中身もあんまり綺麗じゃねぇじゃん。そんな奴らにワザワザ痛ぇ思いして突っ込まれるなんて死んでもゴメンだと思ったんだ。
 ――今改めて思うと、思春期の女の子みてぇな考えだったな……。この人の子供なら産めるかもって相手を探してみる気もなく、ハナから決めつけてたと言えなくもない。
 犬塚さん毛は生えてるどころの騒ぎじゃねぇし、硬いし、人間の時に触ってみたら脂っぽいかもしれねぇけど、何でか嫌じゃない。顔もキレイで可愛いし、中身がムチャクチャ男前だったりもするからかな。
 もし彼が俺の立場だったら、犬とか人間とか、男とか女とか、アルファとかオメガとか、気にしなさそう。
 そういう毅然とした態度が、すげぇカッコいいし、例え男でも惚れそうではある。
 もしかしたら俺、ほかの誰かの子供はともかく、犬塚さんの子供なら産めるのかもしれない……と、チラッとは思う……。
 犬塚さんは俺なんか選ばなくて、この仮交際ももうすぐ終わりかもしれねぇけど。


 ――病院出て、貰った強めの薬飲んで月曜午後は出勤した。
 けど、犬塚さんとの水曜の約束は、やっぱり延期してもらった。事故があったら申し訳ねぇし。
 ……そしてその日から会えない間、俺のスマホには毎日オハヨウとオヤスミのメッセが来るようになった。
 今日も一日頑張りましょう、とか。
 今夜はいい月だね、とか。
 午後は雨が降るらしいから、傘を忘れないで、なんて事まで。
 それで気付いた……犬塚さん、この前のことで俺を嫌ってねぇんだなって。
 終わらせようと思ってんのにこんなにマメに接して来るヤツ普通いねぇし、言葉の端々から「恋人」っぽい感じが半端ねぇから……。
 好きとかそういう直球な言葉は無いけど、それ以外なら全部くれる感じ。
 仮交際終了かなって思ったのは俺の勘違いだったんだと思う。
 「少し話したいこと」がやっぱり怖くはあるけど……。
 それでもって、毎日メッセージが来るたびにやっぱり嬉しくてさ。
 でもいつもよりも来るの遅かったりすると、もう終わりなのかなとか、凄ぇ怖くなって。
 俺の送った言葉が何か悪かったんじゃないかとグルグル悩んで……来たら、ホッとしてスマホを抱く。
 こんな事毎日繰り返してたら、元の生活に……犬塚さんが現れる前の生活に、戻れないような気がしてだんだん恐ろしくなった。
 包み込むような優しさに少しずつ慣らされて、毎日オハヨウとオヤスミがある事が当たり前になっちまったら、この先もしもそれを失った時、俺はどうなっちまうんだろう。
 毎日一喜一憂する心が悲鳴上げてる。
 これ以上踏み込まれたら危ない。
 そんなに揺さぶらないでくれ。
 俺、自分自身のこの半端な気持ちに、まだ名前を付けきれてねぇのに。
 尊敬なのか恋なのか、発情か、はたまた単なる犬好きなのか……。


 発情期終わって一週間後、三度目は俺から誘って東京駅待ち合わせでデートする事にした。
 この前のデートで体力不足を実感したから、まず皇居の堀の周り5キロをランニングして、御苑の広い芝生でフリスビーしようかなと。
 都内一走ってる人が多いとこだから、あちこちにロッカーとかシャワーを貸してくれるランニングステーションがあって、犬塚さんが脱いだり着たりしやすいし、帰りに飲んで帰る場所にも困らねぇし。
 念の為に発情抑制剤を飲んで、更に予備も持って、今度は俺もデートっぽい服で行った。勿論、走る時は着替える前提。
 黒スキニーに春用の白ニットとボア付きのミリタリーコート、それから、髪はもう仕事行く時と同じ感じで額出してった。
 もう三回目だし今更若作りしてもと思って。
 ちなみに弁当は、俺が作るって言ったんだけど、周りに食べる所いっぱいあるから無理しなくて良いとか言われて、ナシ。
 なんだかんだで二回目のデートから二週間空いちまった後だったので、俺は凄く緊張しながら丸の内中央口の大きな改札に向かった。
 時間にはまだ30分近く早い。
 駅舎のクラシカルな天井ドームを見上げながら改札にICカードを通して出ると、屋内広場を囲むように丸く並んだ柱の一つに寄り添って立ってる犬塚さんの姿が見えた。
 すぐには声を掛けずに、待ち合わせ相手の横顔をじっと観察する。
 服装は、春っぽいトレンチコートに、ライトグレーのピンストライプの綿パンと、羨ましいぐらいの胸筋がチラ見えするオープンカラーの黒シャツ。
 ……これにサングラスでも掛けたら完全にインスタの芸能人って感じだ。
 犬塚さんは柱にもたれるみたいに立ち、難しそうな本読みながら、ふわふわの金髪の下に透ける耳を時々ピクピクさせてる。
 かっこいいのに堪らなく可愛い。
 発情期の最中に見た夢みてぇに、ギュッと正面から抱き付けたらいいのにな。
 でもそれやったらマジで変態だから。
 よく考えると子供うんぬんどころか、一緒に運動するだけの清い仮交際しかしてねぇもん。
 現実の俺は久々過ぎて声かけるのさえ躊躇してる始末だ。
「……あの……犬塚さん」
 心臓バクバクしながら話しかけたら、ビックリした風に綺麗な顔がこっちを向いた。
「あっ……すみません、気付かなくて」
 相手も久々なせいか敬語に戻ってる。
 ちょっと寂しかったので、俺はわざと距離を縮めるように、彼の肩に自分の肩でどんと体当たりした。
「久しぶり。……あのなぁ、早く来すぎ」
 花がほころぶみたいに犬塚さんがほわっと笑う。
「本能的なものなのか、わざと待つの好きなんだ。趣味だから気にしないで」
 何だよそれ。忠犬ハチ公みてぇで凄ぇカワイイ。
「好きでやってんならいいけどさ。ほら、着替えに行こうぜ。駅地下がランニングステーションと直結してるから、すぐそこ降りたら行けるよ」
 鼓動を抑えながら地下への階段を親指で差した。
 俺、ちゃんと友達っぽい軽いノリで話せてるかな……。
「今日は鳩羽さんも着替えるの?」
 訊かれ、頷きながら一緒に歩き出す。
「ウン。この格好じゃちょっと走れねー」
「そうか。じゃあ、一緒に」
 休日も結構な人が行き交ってる広めの地下道に降りて、並んで歩く。
 手とかは繋がねぇから、はたからは友達同士に見えてるかな。
 コートの裾から出てる大きな手をチラ見すると、電車で壁ドン状態になってた時のこと思い出して、頬が熱っぽくなる。
「その……この前は送って貰っちまって……ありがと」
「俺が送りたかったんだよ。……鳩羽さん、今日の髪型も可愛いね。お見合いの時のプロフィール写真と同じだ」
 横並びに歩きながら顔を覗き込まれて、変な声が出た。
「へぁっ……何言ってんだ。年上からかうなよ……っ」
 か、可愛いとか言われて喜んでんじゃねーよ俺。
 てか、俺の今までの努力なんなんだ。
「だって、額出てるの可愛かったから」
 重ねて言うな……!
 心臓ヤバくてどんどん速足になる。
 地下鉄コンコースからビル地下に入り、ランニングステーションの店舗の自動ドアを潜った。
 店内はダークブラウンの木材を基調としたセレブっぽい雰囲気だ。受付のカウンターに並び、説明を受けてランニングシューズ一人分と男子ロッカー二人分を借りる。
 シャワー室とかも併設されてるらしい……走るだけなのに至れり尽くせりだな。職場からもコースが近いからよく走ってるヤツ見かけるけど、自分が挑戦するのは初めてだった。
 奥に進み、犬塚さんと更衣室に入ってハタと気が付いた。
 一緒に着替えるってことは、犬塚さんの裸が見られるんだな……。
 夢の中の犬毛オナニーの事を思い出してブワッと変な汗が出た。
 俺の変態!バカ野郎!!
 頑張って精神統一しながら、上下で二つに分かれてる上のロッカーに背負ってきたランニングバッグを押し込んだ。犬塚さんのロッカーは三つ右隣。
(犬になるトコ気になるけど見ない見ない見ない……)
 心に唱えながらコートを脱いで中に掛け、腕を交差させてニットを脱ぎ、下着のシャツも脱いで上半身裸になる。
 ロッカーに手を入れてTシャツを出そうとしたら、
「鳩羽さん」
 突然話しかけられて、肩が無意識に跳ねた。
「何……」
 開いてる扉の向こうを見て、俺は目玉が飛び出しそうな程驚いた。
 メチャメチャ鍛え上げた感のある綺麗な逆三角形の上半身と、高い位置にある腰に、逞しい太腿……の間の金色の陰毛と余りにもでかくて長いイチモツ……っ。
 何で全裸!?
 いやこれから犬になるからそうか全裸か!!
「このロッカー、開ける時は普通に開いたのに、何でか閉まらない。何でだろう。俺の使い方がおかしいのかな」
 平然と聞いて来る犬塚さんに開いた口が塞がらない。
 隠す気とか全然ナシかよ! まぁ犬だもんな……!
「たっ、タッチ式のキーだから開くのに閉まらねぇなんてねぇよ、普通……っ。キー貸して」
 ブレスレット式の電子キーを受け取り、ガチャガチャ当ててみるけどしまらねぇ。
「ほんとだ、しまらねぇ……おっ俺、受付行ってこようかっ?」
「あっごめん、コートのベルトが引っかかってた。完全に閉まってなかったのか」
 って、結局自己解決かよ…!!
 とんでもないモノを見せられた俺は一体……。
 俺犬塚さんの子供なら産めるかもとかちょっとだけ思ったけど、前言撤回。
 あんなスゴイの、絶対ケツの穴になんか入るわけねぇーっ!!


 事故的に犬塚さんの逸品を見せられた俺は、しばらく目に焼き付いたものがモヤモヤ脳裏から離れなくて苦労した……。
 相手はあの後アッサリ犬になっちまって、もう話も出来ねぇし。
 ――フリスビーとか最低限のもんだけ入れて軽くしたランニングバッグを背負い、地下からエレベーターで上がりながらふと疑問が湧いた。
 もしかしてワザと見せられた……? まさかそんな訳ねぇよな。
 狭い箱の中で、足元のでっかいゴールデンレトリバーを疑いの目で見てしまう。
 すると視線に気付いたのか、犬塚さんは堪らなく可愛い黒い目で俺を見上げ、手の甲をペロペロと舐めてきた。
 あああ……っ!
 こんな天使みてぇに可愛い犬がそんな露出狂みてぇな事する訳ねぇ……!
 思わず跪いてひしっと抱き締めそうになったとこで、エレベーターは地上階についてしまった。
 あーあ。
 ビルから外に出ると、駅から皇居までまっすぐ通ってるだだっ広い通りを犬塚さんと歩いた。
 空は雲ひとつないくらい晴れてるが、三月のせいか立ち並ぶ裸のイチョウ並木が少し寒々しい。
 前方に石垣が現れ、大きな堀を渡ってしばらく行くと車道挟んで内堀側に色とりどりのウェアを着たランナーが走ってるのが見える。
 手前の綺麗な噴水公園で軽く準備運動してから車道を渡り、左手に内堀と石垣、右手に公園を眺めながら反時計周りにランニングをスタートした。
 東京のど真ん中とは思えねぇくらい緑が綺麗だし、周りもみんな走ってるしモチベーション上がるなぁ。
 ヨーシ、走るぞー!
 ……と、やる気マンマンだったのは最初の5分から10分てところで……。
 コースの北側に入り、竹橋渡ったあたりで緩やかな登り坂がダラダラと続き、景色も微妙に変わり映えがしなくなって、地味にキツくなってきた。
 いかに普段運動不足かが身体に出ちまってる。
「ハァッ、はぁっ、犬塚さぁんっ待って……」
 かなーり前方でワンッワンッと俺を励ます声が聞こえる……。
 きッつ……いつまで続くんだこの勾配。
 犬塚さんが爪でアスファルト蹴りながらタッタッと逆回りに引き返してくる。
 ちょっ、逆走禁止だってば。
 あっという間に彼がすぐ目の前に現れ、グルンと尻を向けると、犬にとっては早足くらいの足並みで俺を先導し始めた。
 走らないの?みたいな感じでキラキラした黒目がこっちを振り返って、引き攣った笑みを返す。
 うん、あの、俺一応走ってるんだよこれでも。
 プレッシャーをヒシヒシ感じながらしばらく伴走して貰ってたら、後ろから他のランナーが近付いてくる気配がした。
 はー、また抜かされる……と思っていたら、小柄なランナーが俺の隣に並んだ。
「わぁ〜凄いカッコいいわんちゃんですね!」
 鈴の鳴るような綺麗な声で突然話しかけられ、驚いて横を向く。
 気づけばアイドルみてぇにキレイな二十代くらいの若い女の子が、走りながら俺に微笑みかけていた。
 美人感の高いサラサラボブヘアーに、ピンクの迷彩柄タンクトップ一枚とレギンスっていう露出度高めの格好で、しかも胸がメチャクチャでかい。
 それが俺の目の前でバインバイン揺れてて、完全に目が釘付けになった。
 ウッワァ……完っ全に俺のタイプにどストライク。
「あはぁ……あ、ありがとうございますぅ……」
 苦しかったのも忘れ、デヘヘ、なんて笑いながら頭を掻く。目の前の彼女がニッコリ笑い、揺れる髪からフンワリいい匂いが漂った。
 女の子はコレだからいいよなぁ……!
「いつもここでワンちゃんと一緒に走ってらっしゃるんですかぁ?」
「あっ、いえっ、俺、今日が初めてでっ」
「そうですよねぇ〜。いつものこの時間では見たことないなぁって思ってー」
 いやはや、俺もいつも見られないようなモノを見せてもらってホントに眼福です。
 やっぱ女の子のマシュマロおっぱいは最高……!
 この世の宝なんじゃねぇ?
「それじゃ、お先にー」
「はぁい、それじゃまたー」
 指を揃えて折りながらバイバイする。
 すげー巨乳美人だったー……ここ、芸能人もちょくちょく走ってるらしいもんな。
 こんな出会いがあんなら、これからもチョイチョイランニングに来るのもいいかも、なんてデレデレしながら走ってたら、思い出した。
 俺、一応今デート中……!
 しかも気が付いたら目の前に犬塚さんがいねぇ。
 えっホントどこいったんだ。
 いつのまにか置いてかれてた!?
「いっ、犬塚さぁん……!」
 俺は情けなく叫んだが、返事が返ってくる事は無かった。


 途中スタミナ切れで死にそうになりながらコースを一周回りきった場所で、犬塚さんはオスワリで待っていた。
「ぜっ、はぁっ、よかっ、た、犬塚さん、いたっ」
 犬だと電話掛けるわけにもいかねぇーし、このままサヨナラになったらどうしようかと思ったよ。
 ホッとしたのも束の間、目の前のゴールデンはこっちを見もしねぇでトコトコ歩き出した。
 何だろう……様子がおかしい。
 いつもの感じなら思いっきり尻尾振って出迎えてくれそうなのに、毛が逆立った尾は小刻みにフラフラしている。
 心なしか目も泳いでる……というか、逸らされてる?
「ごめん、遅くなっちまって……ほら、フリスビーしよ?」
 誘ったのに、犬塚さんはグルウゥと喉から低い唸りを漏らしながら鋭い牙を剥き、プイとそっぽを向いてしまった。
 え……何で……?
 何か気に触ることしたか?
 俺が余りにも遅くて待たせたから、嫌になっちまったのかな。
 不安になってグルグル考えてるうちに、フワッとした毛の生えた背中がさっさと横断歩道を渡り始めた。
「待ってくれ……!」
 訳がわからず呼び掛ける。
 彼が行こうとしてるのはフリスビーしようと思ってた芝生とは真反対の方向だ。
 ――まさか帰ろうとしてる……?
 いつもすごく優しいのに、彼がこんな態度を取るなんて普通じゃねえ。
 もしかしたら体調が悪いのかな……?
 冷えてトイレ行きたいとか。
 あーもう……っ、犬の時は喋れねえから、訊くこともできねぇじゃん。
 困ったなぁ……と思いながらも、ほかにどうする事も出来ずに俺は犬塚さんの後をトボトボ歩いた。
 何だか俺の方が連れられてる犬みてぇだ。
 金色の大型犬が段々スピードを上げ、地下道への入り口をタッタカ降りて行く。
 バテてて足も痛くて、追うのが辛かったけど、俺はその後ろ姿を何とか見失わないように追い掛けた。
 四つ脚でどんどん歩いて行く彼の前方にランニングステーションが見えて来る。
 自動ドアに飛び込むと、店員がお決まりのように「お帰りなさいませー」と挨拶を告げた。
「犬塚さん……!」
 呼びかける俺の目の前で後ろ姿が更衣室に入ってゆく。
 俺も後について飛び込むように足を踏み入れると、既に犬塚さんはそこに居なくて、シャワー室から水音だけがザーッと聞こえて来た。
 ムチャクチャ避けられてる……。
 流石に凄くショックで、かなり落ち込んだ。
 俺がしくじって発情しても怒らないでいてくれた犬塚さんが……。
 俺、何やらかしたんだろう……。
 自分のロッカーを開けながらランニングしてた時のことをイチから思い出す。
 一緒に走った時は普通だった。犬塚さんが消えたのは、確か巨乳美女に話しかけられた時で……。
 犬塚さん放って話してたから?
 でも別にあれだってあっちから話しかけられたから普通に話してただけだよな。
 確かに俺の方はすげぇオッパイ見ちゃってたけど、男なら誰でも見るよな?
 俺別にアレでナンパとかしてねぇし、殆ど相槌打ってただけじゃん。
 でも彼の態度の変わり目はあそこしか思い浮かばない。
(何なんだよ……訳わかんねぇ……)
 泣きそうになりながら汗まみれのTシャツを脱ぎ、ランニングショーツとレギンスと下着をいっしょくたに脚から剥ぎ取った。
 裸になってシャワールームに入ると、五つあるブースのうちの一番奥から水音が聞こえて来る。
 俺はワザとその隣に入り、スライド式の磨りガラスのドアを閉めてシャワーを浴び始めた。
 相手が途中で出るかなーと思って凄くゆっくり髪と身体を洗ってたんだけど、何故か隣は水音がずっと一定で、動いてる気配がない。
 ……まさか、体調悪くて倒れてるとか――。
 急に心配になり、一度自分のブースを出て隣のドアのガラス部分をコンコンと叩いた。
「犬塚さん……?」
 反応が無い。ちょっ、ほんと死んでねぇだろうな!?
「犬塚さん、大丈夫か――」
 叫びながらガラリとドアをずらす。
 途端に冷たい水がビチビチと俺の体に跳ねて、驚いた。
 み、水!? 湯じゃなくて!?
 微動だにせずつっ立っている逞しい背中と引き締まった尻が目に飛び込んでくる。
「ちょっ、何やってんの……」
 そっと後ろから肩に触れると、俺の肘にまで冷水が伝い落ちる。
「ギャッ……! こんなん心臓麻痺起こすって」
 余りの冷たさに悲鳴を上げ、俺は強引に横から割って入って水を湯に切り替えた。
 その伸ばした腕が突然冷たい手に握られ、青ざめた人間顔の犬塚さんが俺を振り向く。
 さっき一瞬見ただけじゃ分からなかったけど、その全身にはうっすらと透ける金色の産毛が生え、水の流れに沿って肌に貼り付いている。
 その下の綺麗な筋肉の隆起に一瞬見惚れて、すぐにハッとした。
 いつのまにかシャワールームの仕切り壁に追い詰められるみたいになってて焦る。
(なっ、なんだこのシチュエーション……!)
 流石に俺もヤバイと思い、外に出たかったが握られた腕がガッチリ掴まれてた。
「すみません……俺、あの格好だと感情抑えるのが難しくて。少し頭を冷やしたかったんです」
 近い近い、距離が近い。そんで謝ってるのに目がメチャクチャ怖い。下も怖くて見られない。
 シャワーはとっくに湯になってんのに両脚がガタガタ震える。
 でも、言わなきゃ。訊かねぇと。
 勇気を出して犬塚さんと目を合わせ、俺は口を開いた。
「それって、俺が犬塚さんを、感情抑えられないほど怒らせたって事だろ。別に我慢しなくて良いから言ってほしい」
 犬の時の彼にそうするように、自由な方の手をそっと彼の髪に伸ばして触れた。
「鳩羽さん……」
 その指に懐くように彼が頭を傾ける。
 そして、ちょっと辛そうな表情で呟いた。
「俺、犬じゃ無い……」
 言われて目が点になった。
 え……いやどう考えても犬でしょあなた……。
「なので、あの女性にワンちゃんと言われた時はちゃんと、飼い犬じゃなくて交際相手だって言って欲しかった」
 はいぃ!? そこ!?
「あっ、いや、それはちょっと説明が面倒かなーって思って……っ」
「そうですよね。……だから、俺が悪いんです」
 掴まれていた手首が離され、犬塚さんはふいと横を向いてしまった。
 えええー……走りながら話しかけられた初対面の相手に、いやいや彼は俺のカレシ候補なんですよぉーカッコいいでしょー!? って言うべきだったんかー……言われた方も目が点になるだろうし、俺も変質者として通報されかねんけど……。
 ――というツッコミが一通り心の中をよぎったけど、多分これは彼の獣人としての尊厳に関わる事なんだと思い直した。
 彼が最初会った時に俺をちゃんとひとりの人間として見てくれたように、俺も彼を、どんな姿であろうと人間として見なくちゃダメだったんだ……。
 もしも俺が犬塚さんの立場で、カワイイワンちゃんですねーなんて言われて、犬塚さんが俺をダシに女にナンパされてたら……うん、やっぱ相当悲しいかも。
 本当に俺は想像力足りてねぇ、救いようの無いバカだった。
「いや、俺がホントに悪かった……ごめん、全然犬塚さんの気持ち考えてなかった。傷付けてほんとにごめん、ごめんな……!」
 寂しそうに丸まった逞しい背中に両腕で強く抱きついて必死に謝る。
 すると一瞬空白があって、腕を解きながら犬塚さんが振り向いた。
 彼の両腕が俺の左右でスライド式のドアをバンと押し閉め、泣いているように見える綺麗な黒い瞳が近付く。
 その黒曜石みたいな瞳孔に吸い込まれるように見惚れた瞬間、彼の冷えきった唇が俺の唇に押し付けられた。
「!?」
 ――不意打ちもいいとこで、何が起きたのか一瞬分かんなかった。
 エッと驚いた間抜けな顔になってたせいで口もだらしなく開いてて、すぐに濡れた熱い舌が俺の中に入り込んで来る。
「ン……、うぅ……っ」
 磨りガラスのドアに後ろ頭と背中を押し付けられながら、喉奥まで熱くぬめった塊を挿入されて、俺の舌が掬い取られて激しく絡まされる。
 男とキスするのなんて初めてだけど、なんかこれ、それ以前に、か、感触が、人間じゃねぇ……っ。
 舌の厚みは人間の男なのに、ヤバイほどヌルヌルで擦られるとざらつく。それが俺の口の中の敏感な部分を全部擦ってきて、感じるのを我慢できない。
 抑制剤と自制心で、意識的にも無意識にも頑張って閉じてた感覚が無理矢理こじ開けられてく。犬みたいな激しくて、エロい舌使いで。
「ンン……っ、ンッ……!」
 鼻から喘ぎが抜ける。
 ロッカーすいてたけど、こんなアヤしい声出したら誰が来るかわかんねぇのに……。
 ダメなのに気持ち良くて頭がぼんやりして何も考えられなくなる。
 もっと……もっと擦ってくれ……もっと奥、中まで入ってイイよ、犬塚さん……。
 気がついたら俺は太い首筋にすがるように腕を回し、うっとりとしながら自分からも舌を差し出していた。
 鋭い犬歯が舌先に二つ触れて、それが堪らなく可愛くて何度も舐め回して啄ばんだ。
 そしたら、犬塚さんがその歯で俺の下唇フニフニ甘噛みしてきて、痺れるくらいに感じて。
 腰がガクガク震えて両脚に力が入らなくなると、股間に太腿入れて支えられて、更に貪られた。
 はあっ、もう、無理……。
 婚活とか産むとか産まないとかもう何もかもどうでもいい、キスだけじゃなくて……犬塚さんと、もっと、気持ちイイことがしてぇよ……今すぐに、ここで。
 舌を絡めて互いの唾液を求め合って、頭がバカになりそうな幸福感で腹の奥がギュンと痺れて熱くて、逞しい太腿に乗り上げた俺の玉と竿が腰と一緒にビクビク跳ねる。
 身体が濡れてるからバレねぇだろうけど、キスだけで前も後ろも恥ずかしい程トロトロに濡れてる。
 女の子とキスしててこんなになったこと、一度もねぇのに……ほんとにヤバい……。
 犬塚さんの凶悪に大きなモノもとんでもないことになってるけど、何故かさっきみたいな恐怖心がぜんぜん湧かない。
 むしろ、俺でそんな風になってくれてるのが嬉しくて堪らなくて、身体中ゾクゾクする。
 濡れて貼り付いた髪の間から出てる垂れ耳も、がっついてくる舌も歯も、腕も脚も胸も腹も、でっかいチンチンも、ぜんぶ全部堪らなく可愛い……、今だけでも俺の物になったらいいのに。
「ン、ふ、……ンンッ、んうゥ……っ」
 尻を揉まれるみてぇに腰を優しく抱かれて更に理性がぶっちぎれて、角度変えて激しく口付けを繰り返しながら、ヌルヌルのドロドロになった尻の狭間とペニスを太腿に押し付ける。
 もう絶対これバレてる、なのにむしろ自分から腰揺すって誘うみたいに擦っちまうの止められない。
 ちんぽだけじゃなくて、太腿の当たってる変なトコが気持ち良くて、夢の中の感触より数倍クる。クチの中犬舌で擦られるのだけでも感じすぎて神経焼き切れそうなのに……。
 こんなの教えられたらもう俺、普通のキスじゃ何も感じなくなっちまう……っ。
「ンンンン〜〜ッ!」
 目尻から涙が溢れて、抑え切れない悲鳴みたいな呻きと共に、下腹がキュンキュンするのが止められず、俺は派手にイッてしまった。
 ドロッとした白濁が溢れ出て、犬塚さんの腹に飛ぶ。
 やば、俺、キスだけで――。
 我にかえりかけた瞬間、俺の耳に微かな人の話し声が飛び込んできた。
「なぁ、なんかこのシャワー室におわねぇ……?」
「そうかぁ? 誰かが漏らした匂い?」
「ちげーよ。なんかムラムラするような甘い匂いだよ。ほら、しねぇ?」
 ギョッとして犬塚さんから唇をもぎ離す。
 ハアハアと激しく胸を上下して呼吸しながら、彼の首筋に絡めていた腕をずるっと下ろし、扉に張り付くように身体を引いた。
 犬塚さんも多少は理性が戻ったのか、でっかい手のひらで真っ赤になった顔抑えてたけど、隠すべきはフルボッキしてる下の方だろうよ……。
 曲がりなりにも一回出したお陰か、俺の方はツッこめるぐらいは理性が戻ってきて、少し扉を開けて出る隙を伺った。
 水音が聞こえ始め、どうやらさっきのやつらは、五基あるシャワーブースのうち手前二つに入ったらしい事が分かる。
 そんでもう一回犬塚さんの方に向き直ると、ほんと可哀想なぐらい「やっちまった」って感じのショックを受けた顔してた。ごめんそれ、半分……いやそれ以上に、多分俺のせいだ。
 きっと朝飲んだ抑制剤の効果が切れてたんだよ。
 まだ効果ある時間帯の筈なんだけど……。
「い、犬塚さん、また、後で……」
 かろうじてそれだけ言うと、彼はコクコクと頷いた。
 ヨロっとしながら一番奥のブースを出て、元いた隣のシャワー室に飛び込んで全身に湯を浴び直す。
 出たらすぐ薬飲まねぇと……。
 相手隣とはいえ一応一人になり、心底ホッとして、次の瞬間青ざめた。
 こんな公共の場所でフルに発情したら、俺逮捕されるとこじゃねぇか。
 頭ン中でオメガのやらかした事件が新聞の三面記事になってたのを思い出す。
『警視庁丸の内警察署は今日、商業施設内で知人男性を相手に発情しわいせつな行為を行ったとして、大学職員鳩羽湊(33)を公然わいせつ罪で略式起訴』――そんな記事が出たらお袋の心臓が止まっちまうじゃねーか。
 改めて自分が恐ろしくなった。
 俺、本当に犬塚さんとこのまま会い続けてていいのか?
 いつかとんでもねぇ事になっちまいそうで、怖い……。


 俺がシャワーブースを出てロッカーに戻った後も、しばらくの間犬塚さんは出てこなかった。
 多分、勃っちまったモンを何とかしてたんだと思う。
 あれだけデカいと、あのまま出て来たりしたら間違いなく注目の的になっちまうからな……。
 犬塚さんがあの狭い場所で一人で抜くはめになったかと思うと、想像するだに死ぬほど申し訳なかった。30過ぎオメガの俺が、本能のせいで所かまわずアルファの犬塚さんに発情しちまうもんだからこうなったんだろうし……。
 俺が薬を飲み終え、服も全部着た後で、犬塚さんはロッカールームに帰って来た。
 しかも恐縮したみてぇに真っ青な顔して、全裸のまま俺に深々と頭を下げてきて。
「本当にすみません……。まだ交際を申し込んでもいないのに先走って鳩羽さんにあんなことを」
「いっ、犬塚さんっ、人が見てるから……せめてパンツ履いてくれ、パンツっ!!」
 綺麗な顔が一瞬ハッとして、すぐにますますしょげたような表情になった。
「ごめん、つい……」
「いや、犬塚さんは悪くねぇから……パンツ履こう、な? 俺、待ってるから」
 成人男性に言う言葉とは思えねぇが、それしか言いようがない。
 周囲で着替えてる人達のイタイ物を見るような視線が突き刺さる。
 俺だけでも外に出てようかと思ったけど、こんな針のむしろに犬塚さんだけ置いて行くのは忍びない……。
 結局俺は横で彼の着替えをじっと待つことになった。


 支度を終えて店を出た後、俺たちは高層ビルのレストラン階で少し早めの昼飯を食う事にした。
 選んだのは、座席が店の外に開けてて、目の前に屋内噴水の見える有名なハワイアン・ハンバーガーチェーン店。
 トマト、玉ねぎ、それにアボカドにチーズがたっぷり入ったでっかいハンバーガーを店員に二つに切ってもらったものの、一つを犬塚さんに差し出した。
「はいよ。そっちも半分貰うぜ」
「あ、どうぞ……」
 目の前の金髪の美青年はまだ微妙にぼんやりしている。
 俺は犬塚さんのサルサソースのハンバーガーを勝手に貰って自分の皿に置いた。
 すげぇ腹が減ってたから俺はすぐにハンバーガーに食いついたが、相手は皿に手をつけようとしない。
 見かねて、周囲に聞こえないようになるべく声を落としながら声を掛けた。
「さっきのはさ、俺のせいなんだ。……その……単刀直入に言うと、俺、最近発情周期がおかしくて、実は今も薬を飲んでる。だから……」
 すると、犬塚さんは緩く首を左右に振り、テーブルに少し身を乗り出して指で俺を誘った。
 同じように俺も上半身を前に傾ける。
 俺の耳に、近付いた彼の口許が低く囁いた。
「違う。……俺はあなたにキスしたくてしたんだ……匂いは関係ない」
 かあっと顔に血が集まって、食ってるハンバーガーの味がさっぱり分からなくなった。
 俺から仕掛けたとはいえ、そんな返し方をされるとは思ってなくて思わず背もたれに背中がくっつくまで後ろに逃げる。
「なっ、何言って……」
「鳩羽さんの気持ちも確かめずにあんな事をして、申し訳ないとは思ったけど」
 フェロモンに誘惑されちまっただけもしれねぇの俺のせいにしないでくれるなんて……と、思ってたら次の瞬間目が点になった。
「――俺はあなたの事が好きで、あなたが俺に歩み寄ってくれたのが嬉しくて、堪らなくなってしただけだから」
 一気に喋り切って、犬塚さんがアイスコーヒーのプラスチックの蓋を開けた。
 氷ごと直接カップで飲んでるのを眺めながら、俺はボンヤリ何を言われたのか考えていた。
 す、き……?
 それは何処までの……ライク……? ラブ……? 
 コーヒーの入ったカップを置き、犬塚さんが真剣な顔で俺を見る。
「でも……途中から鳩羽さんが応えてくれたと思ったのは……あれは、俺を好きだと思ってくれてたんだと俺は思ったけど……違う……?」
 いつかは答えを出さなきゃいけないと思っていたことを単刀直入に訊かれて、俺は喉が詰まったようになって俯いた。
「……っ、それは……ごめん、俺……。まだ、分からねぇんだ……俺、犬塚さんのこと好きだと思うんだけど――恋愛、的な意味で好きなのか……もう3回も会ってるし、キスされてあんな風になっておきながら、そりゃねぇだろって思うかもしれねぇけど……」
 やっぱり、という顔で彫りの深い綺麗な瞼が伏せた。
 本当に申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになって、その顔が直視できない。
 でも正直なところだ。
「……。鳩羽さん、もう一つ聞きたい」
「うん……。答えられることなら」
「この前から話そうと思っていた事なんだけど……。その――鳩羽さんは……もしかして、どちらかというと男性よりも女性の方が好きなのかな」
 ドキッと心臓が跳ね上がった。
 何で……?
 何で、バレたんだろう。
 俺がオッパイ見過ぎてたから?
 犬塚さんのこと、友達になりてぇとか思ってたから?
 やっぱそういうの表に出ちまってた?
 グルグルしすぎてすぐに言葉が浮かんでこない。 
「あ……。あの……」
「やっぱり、そうなんだ……?」
「う、……」
 逮捕された人の気分で俺はズーンと俯いた。
「もしかしたら、そうなんじゃないかなって思ってた。歩く時も距離があるし、あなたの態度が何というか……気の合う男友達、って感じで……一緒にいる時も、スマホのやり取りでも、俺がそういう態度を表すと、すっと引いていく感じがして。――俺の裸見た時もあからさまに引いていたし」
 そ、そんなにあからさまでしたか俺は……。
 って、あのデカさは普通に女も引くと思うけどな!?
「あっ、あのー……犬塚さんのこと意識してねぇ訳じゃねぇんだ。……ただ男相手にそういう空気を出すのが……慣れねぇというか……」
 必死に弁解してみたら、犬塚さんはますます突っ込んで俺を尋問し始めた。
「それは俺に好意があるってことですか」
 ううっ、結論を急ぐのは許してくれよ刑事さん……。
「た、多分。犬塚さんと一緒にいんのすげぇ楽しいし……。ただ俺、前に恋愛したの大昔で、誰かをそういう意味で好きになるって気持ち自体よく分かんなくなっちまってるもんだからその……ごめん」
 もう何を弁解してるんだから分からなくなって来たけど、とにかく謝った。
「鳩羽さん……。ずっと恋愛してなかったの?」
 犬塚さんの口調が少し柔らかくなる。
「うん……」
「どうして婚活始めようと思ったの。何か、結婚したいと思うきっかけがあったんですか」
 それを聞かれるとまた辛ぇなー。
「どうしてそんなこと気になるんだよ……」
「あなたが好きだから」
 なっ……!?
 いやいや、会ってまだ3回目だぜ。さっきキスはしたかもしれねぇけど、会って3回でそんな事、フツー自信満々に言えるか?
 俺にはやっぱり、俺の発情の乱れによる勘違いとしか思えねぇ……あと、若さ?
 ――ついそんな事考えるあたり、やっぱ相当にコジれてるのかも知れねぇな、俺。
 しっかし30過ぎの独身男の事情なんて、聞いたところで楽しくも何ともねぇし、俺が触られて痛ぇだけじゃん……。
 なんて考えつつ、チラッと犬塚さんと視線を交わし、俺はポツポツと言葉を探し始めた。
「婚活始めたのは30になってからだけど……結婚してぇって何となく思ったきっかけは……元カノと偶然会った事かもな。確か、26ぐらいの時に……」
 犬塚さんが頷く。
「彼女とは学生時代、オメガ同士ってことで仲良くなって付き合ったんだけどさ。――就職したぐらいの頃言われたんだ。自分の子に、自分みたいな思いをさせたくない。子供は産みたくない、だから別れてくれって」
 この前夢の中で久々に見た彼女の姿が脳裏に蘇り、心が痛くなる。
「オメガに生まれると、確かにかなり生きづらい事は間違いねぇから、そんな風に思うのも仕方ねぇと思って……俺は子供いなくてもいいから結婚したい、って言ったんだけど、彼女は別れるの一点張りで。それからは一度も会ってなかったんだけど」
 犬塚さんが黙って相槌を打った。
「……その、偶然再会した時の彼女はベビーカーに赤ちゃん乗せて歩いててさ」
 何で俺こんなことまで話してるんだろうな……もっとサラッと話せばよかったのに。
「ああ、あの時の『産みたくない』は、『俺の子供』はって意味だったんだなって……」
 ――少しでもオメガになる可能性が低くなるように、出来ればベータやアルファと結婚したいと思うのは普通だから、俺は再会した彼女を責められなかった。
 俺も彼女も色んな偏見と色眼鏡にずっと苦しんでいて、痛いほどそれが分かったから。
「ショックだったけど、そん時の彼女は幸せそうだったから、俺も結婚しなくちゃなって。……結婚して、彼女と同じくらい幸せになんなきゃなってさ。それがきっかけと言えばそう」
 ……って、あれ……犬塚さん固まってる。
 ちょっと湿っぽすぎたか?
「鳩羽さん、子供産ませる方は出来るんだ……?」
 ひっ。そこを訊かれたか。
 とりあえず頷くと、今度は次の質問が来た。
「……。女性が好きなのに俺に会おうと思ったのは何故?」
 怖いぐらいの無表情で更に尋問されて、俺は渋々正直に答えた。 
「俺オメガなせいか、出産NGだと結局誰ともマッチングしなくて……、蛇の目さんからおススメされたっていうか……って、俺さっきから聞かれすぎじゃねぇ……!?」
 これ以上細部まで突っ込まれると俺のライフポイントがゼロになりそうだよ、勘弁してくれ!
「じゃあ、逆に鳩羽さんが俺に質問してください」
 ――あ、許してもらえた。ホッ。
「……犬塚さんは、何で婚活しようと思ったんだよ。メチャクチャカッコいいしモテるだろ?」
 テーブルに身を乗り出し、絡むみたいに訊いてやったら、犬塚さんはあっさりと首を横に振った。
「いえ、全然。獣人の世界は閉じてるので……芸能人とか、人前に出る職業に就職しない限りは人間からモテるような状況はそもそも無いんだ。俺も、町中で声かけられるくらいだし」
 それをモテると言うんだよ……。
「鳩羽さんは知らないかもしれないけど、他の獣人はともかく、イヌ科の獣人は学校も就職も恋愛も、結婚も……同種の一族の中で完結するのがスタンダードな生き方だよ。俺も普通にしてれば、恐らく同じマンションの別の階に住んでる従姉妹と結婚してたと思う」
 そ、それは世界狭いな……! まるでアレだ。血統書付きの純血の犬みてぇな感じ?
「小さい頃はそれが当たり前だったけど、大人になるにつれ、本当にそれでもいいのかなって思い始めて……。視野を広くして、人間みたいにもっと色んな人と会って、運命の人を探してみるのもいいんじゃないかって。それで婚活始めたんだよ」
「そんな勝手なことして、家族に反対されなかったのか……?」
「一族全体で見ればいい顔しない人も多いけどね。俺の家族はちょっと変わってるんだ。弟の一人が結構はねっかえりで、人間の女性と結婚して一緒に暮らしてる」
 あ、一応前例アリな訳ね。
 で、真面目な長男の犬塚さんも触発されて婚活始めちまったと。
 それにしても、ここまで純粋培養だと知ると益々、俺を好きって言って来るのが勘違いに思えてくるけど大丈夫なんかな……と、思ってるそばから犬塚さんがテーブルの上の俺の手をがしっと握ってきた。
「――でも、婚活してみて良かった。俺はあなたを運命の番だと思ってるよ。女性じゃないからあなたの子供は産んであげられないけど、幸せにしたい――湊さんを」
 ギャッ。今さり気に下の名前呼んだ!?
 好きどころか、本交際すらぶっとばして運命まで言いきっちまうの!? まだ会って三度目で!?
 嬉しいとか以前にちょっと怖ぇよ、マジかよ……。
 って思ったのが俺の顔面でバレバレなのか、相手に溜息吐かれた。
「……そんな引かないで……。真剣に言ってるのに。大体婚活で出逢ったんだから、そういうこと意識して当たり前でしょう」
 うーん、言われてみればそうだな。
 俺が引き過ぎだわ……。
「ご、ごめん。でもほらさ、まだ俺が一人目なんだろ、会ったの。婚活で他にも誰か会ってみたか?」
 速攻で首を左右に振られた。
 わーっ。純粋な若者の思い込み恐ろしい……!!
「もしかして、思い込みだけで俺がこんな事言ってると思ってる?」
 握られてる手がじっとりと汗ばんでくる。
 その体温に、さっきキスされた時に絡めた舌の熱さが蘇って来た。
 相手の唇にどうしても視線が吸い寄せられる。喋るたびに見え隠れする牙にも。
 ……噛まれてぇ。
 うわダメだ、俺またおかしくなってる。これ以上触られてるとまた発情してワケ分かんなくなりそう。
 早く解放して欲しいのに、犬塚さんが引き続き強い視線と言葉で俺を包囲していく。
「オメガのフェロモンに惑わされてるだけだとしたら、従姉妹だってオメガだから、そっちととっくに結婚してるよ。でも、湊さんが俺を好きなのかよく分からないと言うなら……次会う時までは、答えを待つ」
 期限を区切られた……!?
「わ、分かった……」
 固唾を呑んで俺は頷いた。
 次会うときまで……多分そうしないといつまでも結論出さねぇタイプだと思ったんだろうな。
 その通りだよ、知り合って1ヶ月経たねぇのによく分かってるな俺の事。
 なんて感心してる場合じゃねえ。
 嫁になる覚悟して本交際行くのか、犬塚さんを婚活市場にリリースすんのか、今度こそ決めないと。
「次までには決めるから、手、離してくれ……またおかしくなる……」
 ついに口に出して懇願したのに、相手は握った手を全く緩めずに笑顔を返してきた。
「俺はおかしくなって欲しいけど。――発情してる湊さん、可愛くていやらしくて、二度と離したくなかった」
「わぁぁっ! でかい声でそんなこと言うなよぉ……!」
 無理矢理に手をもぎ離しながら、涙目で抗議した。
 オメガはみんなそうだと思うけどさ、ああなってる時の俺は、俺だけど俺じゃねぇんだってば……!
「ごめん。でも俺があなたを好きだってこと分かって欲しくて。――そうだ、この後まだ少し時間もらっていい?」
「特に予定はねぇけど……」
 うう……正直なところ、俺もう午前中と今の出来事だけで気分的にはイッパイイッパイだぜ……。
 こういう所がヒキ気味って思われちまうんだろうな。
「うちに遊びに来ませんか。近くなので」
 言われた言葉に目が点になった。
「はい!? 犬塚さんこのへんに住んでんの!?」
 丸の内の近くってどういうセレブだよ。確かこの辺、商業施設とオフィスしかなくて人口が一人しかいないっていうの聞いたことあるぞ。
「流石に丸の内には住んでないよ。電車で少し行った先」
 なーんだ……って、そういば確か子犬も含めて大家族で住んでるんだよな、犬塚さんち。
「あ、遊びに行く……!」
 カワイイ犬会いたさに、俺はまんまと誘いに乗ってしまった。


 だいぶ空気も温まってきた昼下がり、犬塚さんに連れられてたどり着いたのは東京駅から驚きのたった二駅……彼の職場だという浜町にも近い隅田川沿いに面した高級マンションだった。
 職場まで徒歩とか自転車で行ける距離って。この東京ではあり得ねぇセレブだぞ。
 ううっ、俺の職場にもメチャクチャ近くて魅力的だなぁ……! つい結婚したくなりそう……って、犬塚さんのマンション目当ての人みたいになってどうすんだ、しっかりしろ。大体俺にはお袋がいるだろが。
 高級感溢れる素材で出来た入り口の自動ドアをおっかなびっくり潜ると、天井の高い開放感溢れるエントランス・ラウンジがガラス戸の向こうに広がっている。
 犬塚さんがキーをポケットから出し、黒いプラスチック素材で覆われたその頭部分を壁際のドアセンサーに近付けると、ガラス戸がシュッと左右に開いた。
 こ、これが憧れのオートロック……!
「俺のうちは12階だよ」
 そう言って振り返った犬塚さんの顔が突然モフモフの犬顔になってて、ギャッと叫びそうになった。
 変わる時は声かけてくれビックリするから。
「う、うん」
 動悸を抑えて相槌を打ち、壁やら扉がくすんだ金色でやたらピカピカしたエレベーターの前に案内された。
「来たよ。どうぞ」
 オヒメサマみたいにエスコートされ、内壁がスベスベの木目調な箱の中に乗り込む。
 ボタンを見たら12が一番上だった。
「最上階……!? 家賃死ぬほど高そうだな……」
 恐れおののくと、相手はサラッと首を横に振った。
「祖父のマンションだから、家賃は無いよ」
 ウワア……ドン引きする程セレブー……。
 犬塚さんとこれから本交際して結婚したとして、この格差感は拭えるんだろうか。
 金銭的な価値観も随分と違うんじゃ……。っていうかこの立地、そもそもスーパーとかあんの……?
 金持ちもここまで来ると不安になる……。
 部外者の俺なんかが長男の嫁に来ちまったら、親戚一同から『男でオメガ〜!? お前など犬塚家の嫁だとは認めん!』とか言われた挙句、一族の遺産を巡って隅田川に脚が二本突き出す事になったりしそうじゃん……。
 とかしょうもない古典妄想をしてしまったトコでエレベーターが着いた。
 やたら眺めのいい共用廊下を左に曲がり、すぐ目の前のドアに案内される。
 最上階の上に角部屋かい……。最早これ以上驚くことはあるまいと思ってたが、犬塚さんが鍵を差し込んだ瞬間に隣の部屋のドアがパッと開いた。
 凄く可愛い顔のでっかいゴールデンレトリバーが、ドアの横から顔だけ出して俺をジッと見ている。
「母さん、何してんの」
 犬塚さんが呆れたように肩を竦めた。
 お母様!? あの可愛い覗き見してる犬が!?
「あっち隣の家じゃねえの……!?」
「ビックリさせてごめん。ワンフロア分しきいの壁を取り払って住んでるから、ドアは違っててもこの階は全部うちなんだ。――母さん、覗き見は失礼だろ。挨拶したいならちゃんと人身になって着替えてきてくれ」
 お母様犬が引っ込んで、隣のドアが閉まる。
 同時に犬塚さんが目の前の扉を開けると、中はもっととんでもない事になっていた。
 広い大理石張りの玄関いっぱいに集まった、犬、犬、犬。
 小さいのも大きいのもみんな千切れんばかりに尻尾振って、前足でジャンプしながら一斉に飛び掛かってくる。
「わーっ!」
 重みに耐えかねて尻餅をついた途端、一斉に群がられてあらゆる角度から顔をベロンベロン舐められた。
 何だこの状況! 天国か!
「だ、大丈夫!? みんなお客さん大好きなもんだから……コラッ、失礼だろ。離れなさい」
 犬塚さんの一声で大きい犬達は離れてくれたけど、腕の中に収まるくらいの子犬はキャンキャン鳴きながら全然離れてくれなくて、俺の足元に縋り付いたままジワーッと嬉ションし始めてしまった。
「あぁっ湊さん靴が……!」
「いいよ、別に中までは濡れてねぇし」
 メチャクチャ可愛いからそんな事くらいは気にならねぇぜ……!
「ヨシヨシ、歓迎ありがとなぁ」
 両手で思い切り首筋を撫でてやり、前足の下に指を入れて持ち上げ、濡れないように玄関マットに載せてやりつつ何とか踵を踏んで靴を脱ぐ。
 子犬はブルブルっとした後、早く早く!ていう全然反省してない感じでピョンピョンしてる。
 メチャクチャいとおしい……! 天使か……。
「本当にごめん、休日なものだからみんなリラックスモードになってしまってて……。こら、湊さんは俺のお客さんなんだから、みんな自分の部屋に戻れ!俺の部屋にも押しかけたら駄目だからな!」
 クゥン、と残念そうな唸りを残してゴールデン達が散っていく。うーん、しかし誰が犬塚さんの何なんだ。ちっこいの以外顔の区別がつく気が全くしねぇ……。
「靴を拭いて来るから、湊さんはすぐそこの部屋に入ってて!」
 犬塚さんが俺の靴を持って廊下の途中の一室に消えてゆく。
 しかし、すぐそこの部屋ってどこの事だ?
 キョロキョロしてると、前方の暗闇の中で何かが動いた。
 同時に、ウーッという獰猛な唸り声が聞こえる。
「……!?」
 目を凝らすとリビングに通じるドアの手前に、犬塚さんを一回り小さくしたようなデカい犬がいて、こっちに向かって白い牙を剥き出して唸ってる。
 ひっ! 一匹だけどすげぇ怖いのがいる……!
 暗闇でビカッと光る瞳は明らかな殺気を放っていて、俺が一歩でも動けば飛び掛かってきそうだ。
 肉食獣に睨まれた獲物みたいになって、前にも後ろにも動けない。
 俺が固まっていると、相手は唸り続けながら一歩ずつゆっくりとこっちに近付いてきた。
 その迫力は、まるで縄張りを守る狼だ。
 さっきエレベーターの中で妄想した、因習の一族の遺産争奪サスペンスドラマが脳裏に蘇る。
 俺、ここで殺されちまうのか……!?
 ジリジリと距離が狭まり絶体絶命を覚悟したその時、廊下の途中の部屋から長身の犬塚さんがバッと飛び出してきた。
 俺の前に立ちはだかり、えらい勢いで相手に大きな声で何度も吠え立てる。
 非友好的なゴールデンは途端にキャウンと情けない声を上げ、ドアノブに前足で飛びかかってドアを器用に開けると走って廊下を出て行ってしまった。
「ごめん、あれ従姉妹の夏美。ちょうど遊びに来てたみたいだ。あいつだけは少し人見知りだから……」
 エッ、女の子!? 人見知りというより人殺しそうな凄い顔して吠えてたけど。
 そんでもって、もしかして……。
「従姉妹って……犬塚さんと結婚するはずだった従姉妹……?」
「それはもうとっくに昔の話だよ。ほら、こっちが俺の部屋。――ナオト! お前のところのチビが玄関で粗相してるから後でたたきを拭いてくれ!」
 どこからか、ワン!という応答が聞こえる。
 ドアを開けて案内されつつ、俺は引き攣った笑顔を浮かべた。
 さっきの、すげぇ嫌われてる感じだったけど、俺本当にここに居ていいのかな……。
 疑問に思いながらも部屋にお邪魔する。
 入って驚いたのが窓の日当たりの良さだった。
 俺のアパート一日中ほぼ真っ暗だから日当たりという言葉さえ久しく忘れてたわ。
 それと、広い。俺の家がすっぽり入りそう。
 そこにゆったりしたでっかいベッド、真面目そうな本の並んだ本棚にシンプルなパソコン机。
 タンスが無いなと思ったら、ウォークインクローゼットらしきものが壁にあるのに気付いた。
 なんつーか……俺が学生時代、こんな必要最低限のスッキリした感じで、いつか一人暮らししたいなって思ってた理想の部屋まんま。
 これが恵まれてるってことか。いいなあ……犬塚さん。
「飲み物、コーヒーでいい?」
「うん」
「じゃあ適当に座って待ってて」
 背後で相手がトレンチを脱ぎながら出て行く。
 俺もコートを脱いで脇に置くと、しんとした部屋を見回した。
 さっき唸られたことを思い出して怖くなる。
 またあのでっかいのが襲って来たりしねぇだろうな……。
 ブルッと肩を震わせていると、パソコン机の上の棚に写真立てが置かれているのに気付いた。
 少し変色した見るからに古そうな写真で、小さな子犬が映っている。
 すごく可愛いし、どこかで見たことがある気がする。
 あぁ、この前発情期の時に見た夢の中で出てきた子犬だ……。
 写真の中にいるその子をギュッと抱き締めたくなって、ガラスを指で撫でる。
 持って帰りたいくらい可愛い……。
「それ、俺だよ」
 いつの間にか、コーヒーの載ったお盆を片手に犬塚さんが帰ってきて居た。
「そこの丸テーブル、出してもらってもいい?」
 頷き、壁に立て掛けられたガラス製の丸テーブルの畳まれた脚を出して置いた。
 湯気の立つ色違いの犬柄のマグカップを二つ置きながら膝が触れそうな程の距離に座り、犬塚さんが尻尾を振っている。
 ちょっと近すぎやしねぇかと思ったけど、その黒目がちな優しい顔を見ると、確かに写真の中の子犬と似ていて、キューンとした。
「もっと写真見たい?」
 聞かれて頷くと、彼は立ち上がって壁際のクローゼットを開け、大きなアルバムを何冊も出してきてテーブルの上に置いた。
 ついでに俺のコートが勝手に回収されてゆく。
 犬塚さんがコートを掛けるのを待つ間、俺は一番上の古びたアルバムをめくってみた。ピンク色の地肌が透けた、生まれたばかりの子犬の写真が現れる。両手のひらに乗りそうな大きさで、目がまだ閉じている。
 ……泣ける程可愛い……。
 こんなの見ちまったらメチャクチャ心が揺れるじゃん。こんな可愛い子が生まれてくるなら……って。俺が産んだら全然違う感じかもしれねぇけど。
「横に見えてるのは弟二人だよ」
「犬塚さん、三つ子!?」
「珍しくないよ。それから、獣人は3歳まではずっと獣の姿で育つから、ここから暫くこんな写真ばっかり」
 三つ子かー。そういや、多胎児になりやすいって書いてあったもんな。可愛いけど、産む方も育てる方もすげぇ大変そう。
「誰が俺だか区別つく?」
「うーん……犬塚さんが一番優しい顔してるから何となく見分けはつくかな」
 可愛すぎる子犬成長写真集にとろける笑顔を抑えられないままページをめくっていく。
 弟達と一緒にお母様犬のオッパイを吸ってる犬塚さん……無防備なお腹を見せてゴロゴロ寝てる可愛い子犬達……。オモチャを噛んで取り合ってるヤンチャな所や、お皿に顔を突っ込んでる食いしん坊な姿。
 俺の胸の中に、フワーッとあったかい何かが浮かんでくる。
 俺だけのこんな子に、会えたらな。
 毎日世話をして、寝る前に抱き締めてお休みって頬擦りできたら……。
 犬や猫を可愛いと思うのは、赤ん坊を可愛いと思う人間の本能に訴えるからだと聞いたことがある。
 こんなに堪らなく愛しいと思うのは、俺の本能が欲しがってるからなんだろうか? 子供を、それとも子犬を?
「見て、湊さん。これは昔の叔父の結婚式だよ」
 促されて別のアルバムに視線を移す。
 集合写真の真ん中に、どこか人間時の犬塚さんに似ている、金髪の背の高い美男美女が白いウェディングドレスとタキシードを着て寄り添って居る。
 外国の広告みたいな完璧なカップル……。
 周りを囲む人達もみんな、同じ色の髪をして、老若男女の違いはあれど、みんな怖いくらいキレイで整った顔立ちをしている。
「湊さんは、どんな結婚式がいいと思う? 洋装? 和装もきっと似合うね……」
 飲みかけたコーヒー吹きそうになった。
 何故そこまで話が飛躍するんだ。
 でもそんな風に言われても全然何も具体的に思い浮かばねぇよ……。
 俺みたいなのはきっと、こんな人達の中に入ったら浮きそうだな、って思うくらいで……。
 ページを捲る手が重くなって、肩を落とす。
 自信がない。もし犬塚さんと結婚前提にお付き合いする決断をするとして、この生まれも育ちも違う獣人家族と上手くやって行けんのか。
 座り込んだまま黙ってしまった俺の背中に、犬塚さんがそっと触れてきた。
「今度、湊さんの写真も見たいな。あなたの家にも行ってみたい」
 死んっでも無理!
 って言いたいけど、結婚とかになったらやっぱ……連れてくことになるんだろうな。
 幻滅されたらどうしよう。俺自身は一生懸命小綺麗にしてるけど、あんなボロいアパートに住んでるって知ったら、どんだけケチなんだよって引かれねぇかな。
 今まで友達も、元彼女ですら家に連れてきた事なんてねぇもん。
 男の獣人連れてって「この人旦那になるかも」なんて言ったら、お袋が卒倒しそうなのも怖いなぁ……。
「……また今度な」
 誤魔化すように言った言葉が、今度があるんだと思わせてしまったのか――彼のキラキラした瞳が一層輝いた。
 その視線に対する動揺で息が少し乱れる。
 苦しい……。心が痛い。あんまりにも彼が純粋で真っ直ぐすぎて。
 知り合って1ヶ月で、この人は俺のことなんてまだ、何も知らねぇのと同じくらいなのにもう全部を受け入れてる。少なくともそのつもりでいる。
 本能と理性の狭間でアップアップしてる俺を置いてけぼりにして。
「犬塚さんは、家の人達に婚活の事とかどこまで言ってんの……?」
 恐る恐る訊くと、当然と言った感じで返答が返ってきた。
「運命の人に会ったかもって言ったよ」
 ギャーッ!
 まだ本交際してもいねぇのに、そこまで話しちゃってんだ!?
 すっかり油断して男友達みたいなノリで遊びに来ちまったじゃねえか。お母様に観察されたり従姉妹に唸られたり犬にへばり付かれたりする筈だよ……!
「犬塚さん、メチャクチャ俺の外堀埋めて来てるだろ……!?」
 さっきから段々近寄って来てる鼻先を手のひらでグッと押し返すと、カワイイ犬顔がハッハッと舌を出しながら、残念そうに白っぽい睫毛を伏せた。
「……ごめん、そんなつもりは無いんだけど」
 うぅっ、可愛いから許しちまうけど、この顔じゃ無かったらホッペつねってる所だぞ……!
「ねぇ、湊さん。じゃれてもいい?」
「はい!?」
「今日、獣の姿で遊んで無かったから寂しい」
 誰のせいだよ!?
 って俺のせいか。くそ、断りづらいな……!
「……分かったよ。じゃあ、撫でるだけ」
 向き合って膝付き合わせて座り、そっと両手を伸ばして首筋から耳の後ろまで毛並みを揉むように撫でていく。
 うぅ……相手が半端に人間ぽいからなんかシュールな図だぞ。
 大体、犬扱いするなって言う割には犬みたいにじゃれ合いたいなんて矛盾してねぇか!?
 クゥン、という高い音が犬塚さんの鼻から上がる。
 伸ばした腕に頭が懐き、薄くて長い犬舌が俺の手首をベロンと舐めてくる。
 敏感な腕の内側の皮膚に艶かしい感触が走り、ゾワッと肌が粟立ったが、それを堪えながら毛並みを撫でるのを続けた。
 シャツの襟ギリギリの部分を撫でると、人間の姿の時見たように毛並みの下に胸筋が盛り上がってるのが分かる。
 瞬間、甲に毛の密生した両手にそっと首筋を抱き寄せられて、そのシャツの間のモフモフに鼻の頭を突っ込まされた。
「んぶ」
 あっ、……こんな夢見た……。
 あったかくて堪らなく心地いい……。
 この毛皮はどこまで続いてるんだろう?
 四肢の全てに?
 裸で抱き合ったらきっと堪らない気持ちになる。
 すり、と頬を沿わせ、毛皮に唇と鼻を埋めて匂いを嗅ぐ。シャワー浴びたばかりなせいか今日はそんなに犬臭くない。石鹸のいい匂い。
 夢中で匂いを嗅ぎながら彼の膝の上を跨ぐように腿を開き、逞しい太腿に乗り上げると、俺の襟ぐりの開いた白いニットの肩の一方がずり落ちた。
 すかさず、犬塚さんの長い舌がざらあっとそこに這う。
「ふぁ……」
 変な声が出る。撫でるだけって言ったのに。
 いや、こんな距離まで来てたのは俺だ。
 首筋から移動した指が耳の後ろに触れる。
 手のひらの感覚はやっぱり肉球だ。人間の手の平よりも固めで、黒く少しガサついてる。
 やめてくれ、その指の腹の感触、絶対ヤバい。
 舌もダメだ。
 分かってるのに制止できない。
 飢えた本能が津波のように俺を呑み込んでいく。
「犬塚さん……やめてくれ……俺……」
 最後の抵抗で涙目で俯き首を振る。
「ナギサって呼んで」
 俺の大好きなあの甘くて低い声で、耳元に囁かれた。
「いやだ……無理……」
 目の前の男の名前を口にしたら、無意識に引いた境界線が崩れてしまう。
「俺は湊って呼ぶよ……好きだ、湊」
「あー……っ」
 もう、その短い囁きだけでゾクゾクと感じる。
 俺だけの犬。俺だけの男。俺を愛したがってる俺のアルファ……。
 酷いよ犬塚さん、俺の発情おかしいの知っててこんなことを。
 薬なんかじゃもう抑えが効かない。
 ボンヤリする視界で彼を見上げる。
 唇が勝手に口走った。
「舐めて……」
「いいよ。でも俺のこと好きって言うまでは、気持ちイイ所は舐めてあげられない……まだ恋人じゃないから……」
 頬を大きく舐め上げられて、その濡れた感触にまた堪らなくなる。
 頭が働かなくて、何でそんな意地悪されんのかが分からない。
「昼の時はエロいキスしたくせに……っ」
「あれは事故。……」
 今度は唇の上をねっとりと熱い感覚が這う。
 それがゆっくりと粘膜の上を通るだけで背筋がじんと震えて、尻の穴の奥の変なとこがキュンと疼く。
 じわぁっと下着が濡れる感覚が広がり、体の内側でジリジリと発情の衝動が膨らむ。
 既に息が上がってんのに、首筋もベロベロ舐められて、女みたいな情けない声が漏れた。
「ン……ぁ……! はァぁっ……っ」
 ここは気持ちイイ所じゃねぇの?
 普通に舐められただけでも俺、十分変になるよ、犬塚さん……。
 耳の穴まで舌を縦に差し込まれて、腰がビクビク上下する。
 ハッハッと短く息を切らしながら、犬塚さんが切羽詰まった声で訴えてきた。
「俺も我慢するの辛いよ、湊さん……何で身体でばっかり、俺に『今すぐして』って言って来るの……。期限切ったのは、これ以上我慢するの限界だからだってこと……分かって」
 ハッとして、少しだけ頭がマトモに戻った。
 二度目に会った時、電車の中で俺を守りながら黙って耐えてくれていた犬塚さんを思い出す。
「ご、ごめん……俺、またおかしくなって……っ、今までこんなこと一度もなかったのに、最近発情期乱れっぱなしだし、変な夢も見るし……っ、犬塚さんと会ってから、俺……っ」
 グラグラする頭を両手で抑えながら涙声で訴える。
「……じゃれたりすんのも、もう、やっぱ無理だわ……帰る……」
 離れたがらない自分の身体をやっとのことで引き離す覚悟を決め、尻を上げて相手の肩を押した。
 なのに、今度は両肩を掴まれて押し止められてしまった。
「待って、今なんて言った……!? 湊さんの身体がおかしいのって……それっていつから……?」
 優しく、でも性急に聞かれて、俺は首を傾げながら呟いた。
「犬塚さんと会ってから……犬塚さんと会った時だけ……」
「湊さん、どうして分からないの……それは……」
 呆れたような口調で言いかけて、牙の生えた口が閉じた。
 そのまま折れそうなぐらいの強い力で背中をギュッと抱きしめられ、痺れるような幸福感で溜息が漏れる。
「変な夢って、どんな夢だった」
 膝の上で抱かれて、子供にするみたいに優しく何度も背中を撫でられながら聞かれた。
 頭にモヤがかかり、もう難しいことは何も考えることが出来なくなって、正直に答える。
「……こんな風に、ギュッてしてた……犬塚さんと……」
「湊さん……湊……」
 耳に熱く吹きかかる呼吸の音が激しくなる。
「すごく嬉しい……嬉しくて我慢できない……」
 俺の方ももう離れる気持ちも自制する理性も無くなって、首筋の毛皮にスリスリと頬を擦りながら、自分のスキニーのホックに指を掛けた。
「なぁ、もう舐めてくれねぇの……? なら、ここで自分でしちゃうよ、俺……」
 膝立ちになりながらキツくなってる前立ての一番上を外し、ニットの裾の影でジッパーも下ろす。
 下着ごとズボンのウエストを下にずらすと、途端にそこから濃い甘い匂いが立つのが自分でもわかった。
「ま、待って湊さん、それは……っ」
 犬塚さんが激しく動揺し始める。
「……そこまで煽られたらもう返してあげられなくなる……っ、傷付けたくない……!」
 荒い呼吸を繰り返しながら焦りまくってる彼がたまらなく愛しい。
 ニット越しに反り返ってるモノの裏筋をそっと犬塚さんの腹に押し付ける。
「俺、帰るって言ったのに、犬塚さんが止めたんだろ……なぁ、責任とって……」
 そのすぐ下では、柔らかな素材のストライプのパンツの股間がグッと高く押し上げられてるのが視界に入る。
 その中身がもう一度、見たい……。俺で発情しておっきくなってるとこ見たい。
 見せて貰って……いやらしい匂い嗅ぎたい。
「犬塚さんもこれ、辛くねぇの……?」
 人差し指で服の上からグリグリ頂点を弄ってやると、虐められた犬みたいなキャウンという高い呻きが上がった。
「あは……可愛い……」
 誘うみたいに微笑みかけてやると、犬塚さんが怒ったみたいに歯を剥き出しにして俺のニットを掴んで持ち上げた。
 トロットロに先走りが溢れた恥ずかしい息子見られて、でもそれにすら興奮する。
「犬塚さぁん……」
 腰を浮かせたまま甘い声で呼ぶと、彼の手が伸びてきて乱暴に俺の濡れた竿を掴んだ。
「ァ……ッ」
 握られてる……っ、あの大きな手に。
 それだけでイキそうなくらい嬉しくて身悶えると、犬塚さんが上がった息の下で途切れ途切れに喘いだ。
「次まで待てなくて……わざと意地悪して問い詰めて、こんな風にしたの俺のせいだ、ごめんね。これは、緊急措置だから……っ、許して」
「うん……?」
 早く触って欲しくて、もうなんでも、どうでも良かった。
「これ、抑えて」
 たくし上げたニットの裾を渡される。中に着てる薄い下着も巻き込んで持ち上げて、唇でしっかりと噛んだ。
 乳首まで丸見えにした状態で犬塚さんの首筋に腕を絡めると、独特の感触のする手がゆっくりと俺の竿を上下に擦り始める。
「ンぅ……っ、んっ、ふっ」
 目を閉じ、服を強く噛んだまま待ち望んでた刺激を受け止めた。
 犬塚さんの手は、指先と手の平にはカサついて弾力のある肉球が付いてて、指の付け根から第二関節のあたりまではフサフサと短い毛が生えている。
 ドロドロに濡らした体液を絡めて裏筋をあったかい肉球で擦られると、たまらなく気持ちよくて涙が出た。
 そもそも人に触って貰うのだって何年振りかわかんなくて、それだけでもおかしくなりそうなのに。
「んクゥっ、ウンンッ」
 張ってる玉の裏と完勃ちした亀頭の丸みを、指の真ん中の毛の生えてる部分でザワッザワッと撫で回されて気が狂いそうになる。
 俺、服咥えさせられてて本当に良かった……。
 今頭バカになってるから、きっとやらしいこといっぱい叫んじまう。
 ちんぽヌルヌル擦んの気持ちいい。
 もっともっとして。
 良すぎて、尻の穴までズブズブに濡れちまってる。
 なぁ、ヤバいくれぇ奥がヒクヒクしてんの。なんか欲しがってるみたいで怖い……。
 もうこれ以上、俺にいやらしいこと教えないでくれよ。
 俺の身体、どんどん、犬塚さんのエッチな奴隷みたいになっちまうじゃん……。
 犬手の感触、自分の手でイケなくなりそうなくらい癖になるし……。
 こんなの知りたくなかったのに、この人に会って俺、どんどんおかしくなってる。
 知らなかった……こんな、女みてぇに一方的に触られて悦ぶ自分が居たことも、モフモフで逞しくてあったかいものに抱っこされる幸福も、身体が赤ちゃん産みたがってることも……。
 気持ち良すぎるし、自分は何も考えなくて済んじゃうし、こんなヤバいの知ったらもう俺、「男」としてこの先を生きていけんのか……?
「ン、ぐぅ……っ」
 咥えてるニットによだれが染みて、剥き出しの下腹が迫る射精感でブルブル震える。
 擦られてるちんぽは根元の陰毛までじっとり濡れて、後ろからも太腿伝うくらい汁が垂れて、益々匂いがきつくなる。
 不意に、犬塚さんの顔が俺の捲り上げたニットの下に突っ込んできた。
「? っ……ン……!」
 腹の真ん中から胸までを何度も大きく舌が這う。
 その反り返った舌先が乳首に届いた途端、俺の全身に激しい未知の感覚が走った。
 何これ、なにこれ……乳首やばい、どうなってんの。
 なんでこんなとこで訳わかんないくれぇ感じんの。
 意味わかんねぇ、怖い……!
「ンふぅっ、ンンッ! んぐゥッ!」
 ヤメテヤメテ、って叫んでんのに右のも左のもいっぱいいやらしく舐めまわされて、どんどん頭の芯が溶けてく。
 犬舌でおっぱい舐めるの気持ちいい、ヤバイほど気持ちイイ……っ。
 感じすぎて硬くなってて、ビチャビチャ音立てて舌が触る度にそっからちんぽに電流走ったみたいになる。
「ンッ、んん、…っ! ふーっ、ふっ……」
 ぐたあっとなる俺を舐めるのを一旦止めて、犬塚さんがニットの下から鼻先をスポンと出した。
「湊の身体、エッチ過ぎるよ……。元から濡れやすいの? 後ろ、処女だよね?」
 綺麗な目に見つめられながらスケベな質問されて、一生懸命頷く。
 処女なんて単語、自分に当てはまるなんて考えたことなかったわ……。
「嬉しいな……俺のを初めてお尻に挿れたら、湊、どうなっちゃうんだろうね……?」
 わざとしごく手をゆっくりにされ、グジュっ、グジュッといういやらしい音を聞かされた。
 脳みそ、掻き回されてるみてぇ。
 俺の頭ん中に、裸でモフモフの犬塚さんと抱き合って、両脚開いて腰に絡めながらでっかいのを尻の奥まで突っ込まれてる自分が浮かぶ。
 そんな風になったら……?
 俺の中でイッて奥に精液いっぱい出すの?
 赤ちゃん出来ちゃうやつじゃん、それ。
 してみたい……、
「ッんくぅ……!」
 想像しながらイッてしまって、腰全体が跳ねる。
 いやらしい絶頂と一緒に犬塚さんの手の中に精液がダラダラ溢れて、何度も何度も激しい呼吸を繰り返す。
 俺今、何、考えた……?
 朦朧とするまま、がくりと力の抜けた身体をそっと、床の白いラグの上に横たえられた。
「ごめんね。湊のお腹汚していい……?」
 良過ぎて涙が滲んでる視界の中で、こくんと頷く。
 もう一回裾を噛み直して、心地いい余韻の中で相手を待った。
 ほんとは俺が触ってあげたほうが良いんだろうけど……獣人ってどこが感じんのかわかんねぇしな……。
 犬塚さんがパンツのジッパー開いて、上から下まで赤黒い生々しいちんぽを取り出す。
 人間の時にあんま見てなかったけど、もしかしたら少し形が違うかもしれない。根元にコブみたいなの見える……あれ、何だろ。
「湊……湊、いい匂い……堪らない……」
 でっかくなったのを自分で扱きながら、肩口に鼻先を埋めるみたいに犬塚さんが上から覆い被さってくる。
 俺はせめてその背中をぎゅっと抱きしめて、垂れ耳を唇で優しく食んだり、耳の下の毛にキスしたりした。
 愛撫するたびに逞しい肩が腕の中で震えるのが分かって嬉しくなる。
「っは、湊、ごめん、今だけでいいから、名前で呼んで貰うの……だめ……?」
 おねだりが可愛くて堪らなくて、俺はつい頷いた。
 唇からニットを外して、溢れ出る愛おしさを込めて囁く。
「なぎさ……可愛い……俺の、だいじな渚……」
「っ……!」
 ブルブルッと大きな体が震えて、ヘソの辺りにあったかい濡れた感触がビャアッと広がる。
 俺は腰を丸めるみたいにして腹の方を覗き込んだ。
 独特のやらしい匂いで頭がくらくらする。
 握られてるモノの先からは、まだ白い液体がトロトロ吐き出されてた……。
 渚、俺の匂いとチュウでオナニーしてイッたの……?
 嬉しくてじっと顔を観察してしまう。
 犬顔だけど、目え細めてトローンとしてて、気持ち良さそうなのはわかるかも……。
 それにしても驚く程の量の精液だった。人間と違って粘度があんまり無くて、俺の腹のくぼみからこぼれてラグまで汚しちまってる。薄くて沢山出るんだな……。
 なんか、秘密を知ったような感じでちょっと嬉しい。
 意識がフワフワしながら、下腹にまた熱が集まっていくのを感じる。
 俺はまだ出し続けながらハアハアしてる渚の両腕を掴んで、ねだるみたいに顔を見上げた。
「ごめ……俺、また勃っちゃったんだけど……」
 可愛い犬顔がキュウンと高い呻きを上げる。
「新手の拷問受けてるみたい……」
 あは……そうかもしれねぇ……。
 大きな手が俺の腹の上の精液を掬い取って、その手でまた俺のドロドロのダメ息子を握り込む。
 嬉しい。またしてもらえるんだ……。
 相手の体の下で太腿を浮かせ、今度は自分からも擦り付けるように腰を躍らせた。
「はァっ……、渚の手、好きっ……」
 目の前の渚が目をまん丸にして呻く。
「ちょっ、流石にそれは反則……入れないで我慢してるんだからあんまり煽らないで……っ」
 ――結局俺と渚は、そのままもう二回、同じことを繰り返す羽目になった。


 余りにもエッチな気分が終わらなくて、最後は流石に、俺が抑制剤を容量以上に呑んで二人ともどうにか正気に戻った。
 ようやく素面に戻ってみて、ほんとアルファとオメガって組み合わせはとんでもねぇんだなってことがよく分かった……分かり過ぎるほど。
 だって俺たち、ほかに家族もいるマンションの一室で盛りまくってた訳で。
 当然多分匂いも声も漏れてたと思う。
 頭バカになりすぎて、そんなことすら気付けない、考えられねぇなんて。
 思い出すとちょっともう……色々死にたい……。
「大丈夫だよ、弟だって夜通し子作りしてるなっていうのみんな何となく分かってたけど誰も何とも思ってなかったし」
 正気になった途端に羞恥心に襲われ、床で悶絶してうずくまってしまった俺に、犬塚さんは言った。
 けど、結婚してる同士ならともかく俺たち本交際すらまだなのに、こんな爛れちゃっていいのかよ!? いやよくねぇよ……。
「取り合えず俺、薬効いてる内に帰んね……」
 いつまでもうずくまってても仕方がねぇから、俺はむくりと起きだして服を整えた。
「大丈夫? 送っていこうか?」
「いや、また発情したら帰り困るし」
「そう……」
 残念そうに言われたけど、正直一人になってちゃんと冷静に考えたかったんだ。
 ここまでヤッちまったけど、一応次回までにハッキリ答えを出さなきゃいけないわけで。
 だって、エッチしたいって気持ちと、好きって気持ちと、あと結婚できるかっていうのはこう、全部別問題じゃねぇの……?
 あれ、違う……? やっぱ俺いま、頭働いてねぇかも。
 ――あっ、あと妊娠出来るってことも今度こそ言っとかないとダメだよな……。忘れてた。
 何だかもう俺、ほんと……人として色々ダメだ。


 マンションのエントランスまででどうにか犬塚さんを押しとどめて、俺は駅までの帰路についた。
 すっかり日が傾いて、ごちゃっとした都会の街がオレンジ色の光に染まっている。
 さてと、駅はどっちなんだっけか。
 降りたこともねぇ駅なもんだから、一人だとどっちに行ったらいいのかサッパリ分からない。
 頭バカになってる上、見事に俺の方向音痴がまた発揮されちまったぜー……。
 一応スマホでマップアプリを開く。うーん、相変わらず見方がよく分からん。
 ウロウロ路地を迷ってる内に、ようやく色々考えられる程度には頭が働いてきた。
 俺……やっぱり犬塚さんと本交際するしか答えはねぇと思う。
 相手は次回までって言ってはくれてたけど、家帰ったら速攻で電話しよう。
 だって冷静になって犬塚さんとのやりとりを色々思い出してみるとさ、俺、どう考えても犬塚さんのこと好きっぽいじゃん。
 犬としての彼は可愛くて好きだしさ。
 人間の彼ももちろんカッコよくて好きだ。
 産むことに関しては、あんな可愛い子犬が産まれたら嬉しいし、産むためにしなきゃならねぇことも……今まではメッチャクチャ抵抗があったけど、今日の感じだと多分、流れで出来ちまいそうな予感がする。
 ていうかそれ以外にも、もう色んな意味で、生活の中で彼がいなかったらきっと寂しくて仕方ねぇしさ……。
 経済格差とか種や常識の壁とか色々不安はあるけど。
 犬塚さんとなら、越えられるんじゃねぇかなって……なんだかそんな感じがして。
 あとの問題は……「俺、ほんとは産めるよ。最初は女の子に産んで欲しかっただけ」って言わなきゃって事だな。
 嘘ついてたの怒るかな……。
 それとも、ちょっとは喜んでくれるかな……。
 どこもかしこも同じように見える雑居ビルの並んだ景色を眺めながらぐるぐる歩いて考えにくれてると、道路の真ん中に佇んでいた人物とぶつかりそうになった。
「わっ、すみません」
 謝って避ける。
 ダメだ、ちゃんと前見て歩かねえと――。
 会釈して相手の横をすれ違おうとした瞬間、俺はガッとコートの上腕を強く掴まれていた。 
「!?」
 驚いて振り向く。
 ――俺の腕を捕らえていたのは、腰まであるフワッフワに波打った金髪の、見たこともない美少女だった。
 まるで人形のようにも見える陶磁器みたいな肌と、ちょっと勝気そうな睫毛ばっさばさの黒目がちな大きな瞳。
 加えて、上腕にギュッと押し付けられてる、推定Gカップ以上はあるニット越しの爆乳。
 ミニスカートから伸びたすらりとした脚……。
 化粧の感じはギャルっぽいんだけど、華奢で清楚な雰囲気。
 やべえ……何この、理想の女の子が服着て歩いてる感。
 俺発情しすぎで幻覚でも見てるのか?
 異様な事態に声も出ないでいると、目の前の彼女はにこっと笑って俺に話しかけてきた。
「鳩羽湊さんですよね?」
 突然名前を呼ばれ、唖然として頷く。
 すると、彼女は張り付いたような笑顔のまま言葉を続けた。
「私、犬塚夏美と言います。ちょっとそのあたりの喫茶店とかで、お話しさせて頂いてもいいですか?」
 声までメチャクチャ可愛い。鈴が鳴るみてぇな感じ。……って、初めて見る顔なのに、何でこの子は俺の名前知ってんだ?
 今なんて名乗ったっけ? いぬづか……なつみ?
 ごく最近どこかで聞いた名前だぞ、と一瞬考えて、思い当たった瞬間にさーっと全身から血の気が引いた。
 さっき俺を殺そうとした(?)犬塚さんの従姉妹じゃねーか……。



 クラシカルな内装の喫茶店にコーヒーの湯気が上がる。
 壁際の古時計がカチカチと鳴り、トンボ柄のガラスランプがぼんやりと灯る店内は、さっきまでいた都会の街中とは別世界だ。
 夕飯時なせいか俺たちの他には客が居なくて、シンとした店内に、オペラ歌手の歌ってる微かなBGMだけが聞こえてくる。
 流石、都会に住んでると家の近くにこんな洒落た喫茶店があったりすんだな……と感心してる俺の前で、金髪の美少女が俯きながら長い睫毛を瞬かせた。
 強引に連れて来られたものの、さっきから彼女は静かに黙ったままだ。
 その表情からは感情が読めない。
 犬塚さんと似ている――と思った。
 犬の時は分かりやすいぐらいの感情を感じたのに、今は彼女が何を考えてるのか全くわからねぇ。
 分からなくて、恐ろしい。
「あの、話したいことって何?」
 沈黙に耐えられず、とうとう俺の方から切り出す。
 夏美さんは華奢な肩をビクンと震わせ、こぼれ落ちそうな大きな目をゆっくりと見開いて俺を見た。
 小さなピンク色の唇が震えながら開く。
「渚お兄ちゃんと……別れてください……」
 目が点になった。
 なんかこの展開テレビの再現ドラマとかで見た事あるぞ。
 アレだ。正妻の女の人が愛人を喫茶店に呼び出して、最後には「この泥棒猫ッ! あの人を返しなさいよぉ!」って叫ぶヤツ……って、ちょい待て!
 俺は不倫の愛人じゃねぇーし!
 それ以前にまだ付き合ってすらねーわ!
「そ、それはちょっとどうにも……そもそも、まだ付き合ってないよ、今はまだ仮交際中だし……?」
「じゃあこれ以上、お兄ちゃんと交際するのはやめてください」
 声は可愛いけど、その言葉尻がハッキリとキツくなった。この子、すげぇ気が強い。確かにあの時唸って来た犬と同一人物だってことを確信した。
 唖然としている内に、金色の睫毛で縁取られた瞳にみるみる大粒の涙が浮かぶ。
「私……物心ついた時から、ずっと渚お兄ちゃんと結婚するつもりで生きて来たんです」
 そのフワフワの髪の毛の中に見える垂れ耳がプルプル震えてるのに気付いてしまった。
 この人、なんて可愛い子なんだろう……と、こんな状況なのに思う。俺、やっぱり犬に弱い……。
「お兄ちゃんだってずっとそのつもりで、小さな時から何度も私に言ってくれてたんです。お前が僕のお嫁さんだからね、って……」
 脳裏に、一対の天使みたいに可愛い、そっくりな顔の少年と少女の姿が浮かぶ。
 犬塚さん……この子の中では、結婚するって話、全然昔のことになってねぇじゃん……。
「でも、最近になって急に、お兄ちゃんが言い出して。もっと色んな人に会ってみたいっ、婚活するって……」
 嗚咽を上げながら夏美さんが両手で涙を拭う。
「最初は本気だなんて思ってなかった。でも、本当にお兄ちゃんが婚活相談所に登録し出して……。初めてお見合いするって言うから、私……、前の日の夜、私との約束、忘れたの!?って、聞いたんです」
 初めてお見合いした日……初めて俺が犬塚さんに会った日の、前の日か。
「そしたらお兄ちゃんは、ごめんね、それは親が決めた事だし、昔のことだから、って……。でも、私どうしても諦められなかった。だから、もし婚活でいい人が見つからなかったら、その時は私と結婚してって言ったの。そしたら、お兄ちゃん、いいよって言ってくれた」
 頭を殴られたようなショックを受けて、俺は奥歯を無意識に噛み締めた。
 犬塚さん……。いや、俺と会う前だったし仕方ねぇけど……。そんな事約束したらこの子がこんな風に必死になんの、目に見えて分かるじゃねぇか。
 俺も大概鈍感だけど……犬塚さんもかなり天然過ぎるだろ……。
「あたし、オメガだし、獣人だし、……アルファと結婚するチャンスは血族婚くらいしか無いんです。一族の独身のアルファで年齢が合うの、渚お兄ちゃんしかいなくて。勿論、私は小さい時からお兄ちゃんのことしか見てないし、そんな事がなくたって他の人となんか結婚したくないけど……っ」
 泣きじゃくりながら夏美さんが俺を見つめる。
 堪らなく可愛い顔してる。けど、彼女を見れば見るほど、どんどん胸の中が苦しく、鉛を呑んだように重くなっていく。
「私ね……、お兄ちゃんに首を噛んでつがいにして貰って、普通になって生きるのが夢だった……ずっとずっと、その日を待って生きてきたの……」
 つがい、という言葉にどきりと心臓が跳ねた。
 アルファと結婚して、首の後ろを噛まれてつがいになったオメガは、もう二度と伴侶のアルファ以外には発情しなくなる。
 発情期に怯えて閉じこもることもなく、普通の人間として生きていけるようになる。
 この子は俺と同じようにオメガとしての自分の人生に苦しみながら、「その日」をずっと、楽しみに待ってたんだ。
 その気持ちは、犬塚さんみたいなアルファには到底分からないだろう。
 そして俺には……痛いほど分かる。
 俺は俯いたまま、冷たくなり震える指でコーヒーカップを取り、一度口を付けた。
 全く味がしない。
 目の前の夏美さんに、一瞬昔の俺の彼女が重なって見えて、頭がグラグラした。
 ここから逃げ出したい。そのぐらい苦しい。
「それに……私、あなたのことお兄ちゃんから聞いたんです。子供……産めないんですよね? 私だったら渚お兄ちゃんに、可愛い純血の子を何十人でも産んであげられます。だから」
 グシャグシャに泣いても綺麗な泣き顔。
 この子が子犬を産んだら、きっと完璧に可愛い子供しか生まれない。
 あの結婚式の時の集合写真に似つかわしい、金髪の可愛い男の子や女の子しか。
「私の夢を、奪わないで……っ。大好きな人の、お嫁さんになるのが子供の頃からの夢だったんです……」
 ああ。
 なんかもう、ダメだ……と思った。
 俺の子供の頃からの夢は、幸せな結婚して、子供を持って、可愛い犬も飼って、温かい家を持つことだった。でも俺の夢を叶えたら、この子の夢が消えてしまう。
 俺は犬塚さんに会ってまだひと月で、交際の覚悟が決まったのだって今日のさっきだ。
 でもこの子はもう20年以上も一番そばにいて、ずっと彼を見てきた。彼と結ばれる日の為に生きてきた。
 犬塚さんだって、まんざらじゃなかったからこそ、婚活でいい人に会えなかったら……と彼女に約束したんだと思う。こんな可愛い子だから。
 何より、この一途な子に一生恨まれながら、平気な顔であの人と幸せな結婚をできる気が、――しない。
 もしも俺が女だったら違ってたのかな。
 もしかしたらこの場で掴み合いしてでも張り合ったのかもしれねぇけど……。
 決めたはずの覚悟が萎んでいく。
 壁際の古時計が6時の鐘を打ち始め、俺は夏美さんの顔を見て、……乾いた唇で、無理矢理笑顔を作った。



 喫茶店を出てしばらく歩くと駅の看板が見えて、そっから先は流石の俺も道に迷わなかった。
 楽しそうなカップルやグループで混んでる日曜夜の各駅電車に乗り、ドア窓の向こうに街明かりが通り過ぎてゆくのを眺める。
 駅を一つ通過するたびに乗客が減って、地元駅が近付いて来たのを感じながら、今日あった色んなことを思い出していた。
 犬塚さんのキス。
 レストランで握られた手の温かさ。
 可愛い子犬と、それに写真の中の切ないほど愛らしい赤ちゃん。
 それから……名前で呼び合いながら気持ちいいことしたこと。
 俺が今からしようとしてることは、夏美さんに言われたからというよりも……彼女も含めて、彼の背負ってる色んなものが俺には重かった、それが多分一番の理由。……だから全部俺のワガママだ。
 最寄駅に帰って、繁華街から狭い路地に入り、見慣れた二階建てのアパートを見上げる。
 通路側にある風呂場の窓に灯りがついていて、お袋、家にいるな……と気付いた。
 家の中で電話するのは気まずい。
 俺はアパートの錆びた冷たい階段に腰を下ろし、スマートホンのメッセージアプリの通話ボタンを押した。
 呼び出し音がしばらく続き、ふっとそれが途切れて甘くて低い声がスピーカーから耳をくすぐる。
「湊さん?」
 声が嬉しそうで、それだけで泣きそうになった。
 もうこの声、聞くこともねぇんだなって。
 一緒に行ったカラオケの事とか思い出しちまって……。
 しっかりしろよ、湊。
「犬塚さん。……俺ね……」
 声が震えそうになって一旦言葉を切る。
「湊さんが電話してくれるなんて珍しいね。嬉しいな……。どうしたの?」
 優しく聞かれた。
 音を立てないように大きく息を吐いて、目を閉じる。
 前髪掴むみたいに額を手のひらで抑えながら、意を決して俺は切り出した。
「あのさ、今日の返事。本交際のことだけど」
 なるべく軽めに聞こえるように声を張る。
「……もう聞かせてくれるんだ?」
 反応が、明らかに期待を含んでて、恐ろしくなった。
 やっぱりこんなの嫌だ、犬塚さんと離れたくない。
 でも、もう今更やめられなかった。あの子にも言ってしまったんだから。
「俺……。今日昼にも言ったけどさ、やっぱ女の子がいいんだ……」
 電話口の向こうが静かになる。
 一方的に喋るしか無くなった。
「俺、子供産めねぇじゃん? 犬塚さんと結婚しても子供出来ねぇけど、ほら、……産ませる機能の方はあるからさ。俺モテねぇし、蛇の目さんにオススメされたから男の犬塚さんにも申し込んでみたんだけどさ……やっぱ深く考えたら、一生男と添い遂げんのは、無理かなー、って……」
 ああ、言っちまった。
 まさか俺のついた嘘が、こんなとこで役に立つなんて皮肉だけど。
 ちゃんとホントらしく聞こえてるのかどうかは、犬塚さんが黙ってるからわかんねぇ。
「……せっかく好きって言ってもらえたけどさ……まあこの通り、俺ってホントいい加減なヤツなんだわ。やっぱ犬塚さんにはもっといい相手、いるよ。……一緒に遊べてホント楽しかったし、貴重な時間、俺なんかに割いてくれてありがとう。お互い、幸せになろうぜ」
「湊さん……!!」
 急に耳元で叫ばれて、鼓膜がきいんとなる。
「それ本気で、言ってるんですか」
 怒ってるような驚いてるような、硬い声で聞き返される。
「悪いけど本気だ。――もう俺、家に入るとこだから。じゃあな」
 通話を切って、すぐさまメッセージアプリで相手のIDをブロックする。
 これ以上話してたら絶対ボロが出るし、それ以前に俺が電話しながらおいおい泣いちまいそうだったから。
 ……これで、犬塚さんと俺を繋ぐものは何にもなくなっちまった。
 通話もできるメッセアプリだけで番号は交換してねぇし、住んでる場所も駅しか知られてねぇもんな。
 一時は結婚考えるくらい仲良くなったのに、切れる時はあっという間か……。
 ふらっと立ち上がり、しんと冷えた夜気の寒さに震えながらアパートの階段を上り始める。
 急に夢が覚めて、現実に帰ってきたような気分だった。
 パーティから帰ってきたシンデレラもこんな気分だったのかもな……俺はオッサンだけど。
 犬塚さん、ほんといい人だった。
 俺が最初勘違いしなきゃ、こんな事にはならなかったのに。きっともの凄く傷付けた……すげぇ悪いことした。
 これに懲りてすっかり人間不信になって、夏美さんと結婚……するかもな。
 暗い顔でドアを開けると、俺の高校の時のジャージをパジャマがわりに着たひっつめ髪のお袋がコタツの中から振り向いた。
 奥のテレビがお笑い芸人の新ネタで盛り上がっている。
「おかえりー。夕飯は食べてきたんでしょ」
「……うん」
 嘘だけど、食える気がしなくて頷いた。
「どしたの。ひどい顔色して。熱でも出た?」
 心配そうに顔を覗き込まれ、靴を脱いで部屋に上がる。
「ちょっと……残念なことがあって」
 ほっといて欲しくても逃げ場がねぇのがこの家の最悪な所だな。
 やっぱ俺、引っ越すことを真剣に考えよう。
 ここに住んでたんじゃ落ち込むことすら難しいぜ。
 ――そんな決意をした俺を、お袋は首を傾げてまた見た。
「そうなの……。あんたのそんな顔久々に見たから心配になっちゃうよ。最近は、凄く楽しそうだったし」
「……。俺、楽しそうだった?」
 よしゃあいいのに、思わず聞き返してしまった。
「ウン。お母さんね、湊がどこに行ってんのかなーんとなく分かっちゃったんだ」
 ぎょっとした。何にも言ってねえのに、変に期待させちゃってたのかと思って。
 するとお袋はシワが増えた顔をニッコリさせて、立ちっぱになってる俺を見上げて言った。
「もうあんたは大人なんだから、したいようにしていいんだよ。我慢しなくてもいいじゃない」
 明るい感じで諭されて、それからぽろっと付け加えるように訊かれる。
「最近、ワンちゃん見に通ってたんでしょう? 今でも犬が飼いたいんならさ、飼えるとこ引っ越そうよ」
 その言葉に、俺は笑っていいんだか泣いていいんだか、サッパリ分かんなくなっちまって、ガクッと膝をコタツ布団の上に落とした。
「湊……?」
 気付くともう、訳わかんねぇくらい目から涙が溢れていた。
「うん……俺、犬が飼いたいたかったんだ。……俺だけの犬が……っ、ずっと飼いたかった……っ」
 ビックリしてるお袋を目の前にして、俺は涙腺が壊れちまったみたいに泣いてしまった。
 今まで生きててこんなワンワン泣いたの初めてだ、ってくらいに。

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