ヴィクトル・シェンクの受難再び

 開け放した木枠の窓から、涼しい夜風が吹いている。
 王都の夏は短い。
 近頃は夜が随分と長くなってきた。
 ヴィクトルは窓辺に置かれた椅子の背板から体を起こしつつ、古びた本を閉じた。
 このこじんまりとした鍛冶屋の二階の屋根裏部屋は、主人の好意により格安の家賃で借りている彼の住処だ。
 路地に面する側に窓が一つきりあり、壁際には古びた暖炉が備え付けられている。
 家具らしいものはもとから置いてあった、樫の木を薄く切り出した素朴なテーブルと椅子が一つ、それから狭い藁敷きのベッドだけ。
 質素な部屋だが、寝に帰るだけの場所なので特に問題はない。
 つい数か月前まで住んでいた神殿裏の兵舎では、鼾のうるさいほかの荒くれ男達と大部屋に雑魚寝だった。
 その時も特に居心地など気にしたことはなかったヴィクトルが、何故に兵舎を出、一人暮らしを始めたのかというと、そうせざるを得ない事情があったからに他ならない。
「みゅっ、みゅ〜」
 床の上でリンゴを齧って食い散らかしている、白い十本の触手を持った謎の生物。
 円筒型の身体に大きな紫のつぶらな瞳を二つ持ち、タコのような形状の腕を器用に使いながら夢中で果実を咀嚼しているこの物体は、巷ではヴィクトルのペットと認識されている。
 その正体は、この国の主神バアル・アミュールだ。
 一部の人間だけが知るその事実は勿論、王都の最高機密である。
「お前なあ……それ俺の分だからもう食うなって昨日言っただろうが。穀潰しの癖に何で人並み以上に食うんだよ」
「みゅう」
 ギクッとアミュが動きを止め、赤い口の中に入れていた腕をヌルリと取り出す。
 涎まみれのリンゴのカケラを差し出され、ヴィクトルは呆れて首を振った。
「いらねーよ、そんな汚ねえの」
 断ると、リンゴは一瞬でアミュの赤い口の中に消えた。
 神という存在は霞のようなものしか食べないものかと思っていたが、どうやらこの生物は違うらしい。
「ちょっと俺は出掛けてくる。お前のせいで、夕飯の材料も何もねえし。……絶対、付いてくんなよ」
 厳しい口調で釘を刺し、ヴィクトルは椅子を立ち上がった。
 アミュが瞳をパチパチ瞬かせながら『抱っこ』とでも言うように腕を二本伸ばしてくる。
「みゅ?」
「だから、連れてかねえって言ってんだろ!? 養ってやってんだから少しぐらい我慢しろ」
「みゅぅ……」
 白い胴がくの字に曲がり、しょんぼりと俯いた。
 つい情が移りそうになるその姿をなるべく見ないよう、急いで部屋の扉を開けて出る。
 ギシギシと不快な音を立てる急な階段を下り、一階で剣を磨いている鍛冶屋の親爺に一声掛けて、広い石畳の通りへと足を踏み出した。
 この界隈は王都でも一番賑わいのある中心地で、夜でも店々の灯りが客を誘っている。
 そのうちの一つ、馴染みの酒場の扉を開けた。
 中に入った途端、暖炉の熱気と強い酒精の香り、それから賑やかなイーリアン・パイプの音色がヴィクトルを出迎える。
「よう、ヴィクトル! 珍しいじゃねぇか」
 奥の卓を囲んでいた二人の男がすぐにこちらに気付き、手を振った。
 ヴィクトルと同じ青い軍服を身に纏った、刈り上げた金髪の人相の悪い男と、茶色の巻き毛の軽薄そうな男。
 山賊をやっていた頃からの腐れ縁の同僚、エリクとフレディだ。
(――あいつら、一人でゆっくり飲みてえ気分の時に限って現れやがる……)
 ヴィクトルは小さく舌打ちし、彼らに気付かないフリで引き返そうとした。
 だが、 「おーい、ヴィクトル!! 無視してんじゃねえよぉ!!」
 客がみな此方を振り返るほどの大声で名前を叫ばれ、退路を断たれてしまった。
「ちっくしょう……」
 仕方なく二人の方へ重い足を向ける。
 金髪のエリクがニヤニヤしながら自分の椅子を端に寄せた。
「最近お前、夜勤がねえ日はお天道様が沈んだ途端にすぐ家に帰っちまうもんだから、つまんねぇなって噂してたんだよ。さあさあ、こっちに座れ」
 他所の卓から椅子が一つ持ってこられて、目の前に席が用意される。
 テーブルの上には既に空になった木製のジョッキと、食い散らかしたパンや魚の骨の残骸が汚らしく散らばっていた。
 今は給料日前だ。飲み屋のツケが溜まりに溜まっているだろう二人なので、恐らくこちらに会計をたかるつもりに違いない。
(適当な所で消えるか)
 密かに決意しながら、ワインの注がれたゴブレットを黙って飲み干していると、左隣に座ったフレディに横腹を肘で突っつかれた。
「なあ、ヴィクトル、お前絶対、女が出来たんだろう」
 口の中の液体を吹きそうになり、ヴィクトルはしかめ面になった。
 何とかワインを飲み下し、擦り寄ってくるフレディの身体を拳で押し退ける。
「出来てねえよ。あの変な生き物に懐かれてて、それどころじゃねえ」
「本当かあ? あの変なタコも案外、女の持ってきたペットだったりして」
「下衆な勘ぐりしてんじゃねえよ。……おい、親父! ソーセージをくれ。あと、つまみの豆」
「あいよ」
 背後の店主に向かって注文を済ませた後で、いやいや二人の方へ向き直る。
「フレディ、お前こそこの間まで娼館の女を身請けして所帯を持つとか言ってたじゃねえか。なんでこんなとこでクダ巻いてるんだ」
 反撃してやると、フレディはバツが悪そうにはにかみながら巻き毛をクシャクシャと指で掻いた。
「それがさあ、あの女よりももっといい、とびっきりの美女が最近、王都に現れたんだ。踊り子ミランダこそ俺の運命の相手さ。あのエキゾチックな肌と黒髪、豊満な胸……」
「……あんなに入れ込んでたのに、随分な変わり身だな」
 呆れて肩を竦める。
 それにしても、ミランダというのは聞いたことのない女の名だ。
 踊り子ということは流浪の民なのだろうか。
 以前なら興味の一つも湧いただろうが、最近めっきり、そっちの関心が湧かなくなっている。
 あまり考えたくないが、毎晩、あの忌まわしい生き物に精を貪り尽くされているせいかもしれない――。
 つい昨日の夜にも繰り広げられた悪夢のような淫靡な記憶に、下腹の奥がゾクリと震える。
 記憶をかき消すように、ヴィクトルはゴブレットを呷った。
「ヴィクトル、お前だってミランダに会ってみれば分かるぜ。なぁ、エリク!」
「俺はどっちかいうと清楚系好きだからなぁ〜」
 騒がしい二人を無視して黙って飲み続けていると、横で突然、フレディが素っ頓狂な声を上げた。
「噂をすれば、だ。――ミランダ! 俺の女神!」
 それまで奏でられていた音楽が止む。
 客がざわつきながら店の一角の広く開けられた空間に注目した。
「ミランダ!」
「南国バルドルの女神!」
 そのかけ声にハッとして視線を移したその先に、ヴィクトルは目を疑うようなものを見た。
 腰まで長く伸びた、ウエーブのかかった艶やかな黒髪。
 瞳の色は夜の闇を思わせる漆黒で、肌の色はヴィクトルのそれよりも一段濃い褐色。
 歩くたびに揺れる沢山の飾りの付いた薄衣の下の豊満な肉体と、濃い睫毛に縁取られた目の印象的な美貌は、確かに王都の娼婦達が霞むような存在感だ。
 そしてその容姿は、余りにもヴィクトルの記憶の中の母の姿に酷似していた。
 南の大国バルドルの出身で、エルカーズ人の父に見初められた舞姫であった母。
 目の前の彼女の姿は、まるで記憶の中の母がそこに現れたかのようだ。
 視線を奪われるあまりに手に持ったゴブレットを落としかけ、ハッと我に返る。
 美しい異国の女は揚げた両の腕にはめた鈴をシャンと鳴らし、従えた屈強な男の打つ異国の打楽器の音に乗せ、美しく舞い始めた。
 空気が研ぎ澄まされ、酒場の男達の意識と視線の全てが彼女一人の躍動する艶姿に集中してゆく。
 音は打楽器のみで、音色は無いに等しいのに、かえってそれが人々の血を沸き立たせるのか、ヴィクトルもいつの間にか、言葉で言い表せない熱の渦へと引きずり込まれていた。
 ――もしかしたら、自分の中に眠る母の血がそうさせたのかもしれない。
 まるで魅入られたようにぼんやりとしている内にいつの間にか音は止み、ミランダは美しい鈴の音を立たせながらピタリと動きを止めた。
 まるで完璧な絵画のように美しい終幕に、店の壁が吹き飛びそうな程の喝采と声援が飛ぶ。
「ミランダ! ミランダ!」
 汗ばんだ胸元を弾ませながら長い黒髪を掻きあげると、彼女は真っ直ぐにヴィクトルを見て妖艶に微笑んだ。
「……!」
 射止められたようになっていると、身を乗り出したフレディが大声で叫ぶ。
「おお女神よ! どうか今夜は俺のテーブルに!」
 すると対抗するように店内の男達が口々にミランダに呼びかけ始めた。
「何言ってやがる、俺のテーブルだ!」
「こっち空いてますよ女神!」
 ――だが、引く手あまたの美女が素晴らしい身のこなしでやってきたのは、ヴィクトル達のテーブルだった。
「!!」
 憧れの美女に興奮したフレディが一瞬椅子から飛び上がり、ミランダに席を譲る。
 彼女は軽く会釈すると、蠱惑的な眼差しをヴィクトルに向けた。
「初めまして、私はミランダ。ワインを下さるかしら?」
「……。生憎、飲み干した所だが」
 そう言うと、エリクから押しつけられるようにワインの入った水差しと新しいゴブレットが卓上に置かれた。
 仕方なくワインを注ぎ、ミランダに渡す。
 彼女は華やかな笑みを浮かべ、ふっくらとした真っ赤な唇を開いた。
「あなた、南の人よね。私はバルドルから来たの。同郷かと思ったのだけど、違うかしら?」
 この場では二人にしか分からない共通語で話しかけられ、ヴィクトルは益々動揺した。
 幼い頃の夕べ、ベッドで眠りにつく前に優しい声音で異国の思い出を語る母の言葉は、こんな響きだったかもしれない……。
(いや、待て。今何を考えた、俺)
 ぶるりと首を振って正気を取り戻し、ヴィクトルはあくまで冷静に共通語で応じた。
「生憎だが、俺はこの国から出たことがないただのエルカーズ人だ。故郷の思い出話ならこいつらにしてやってくれ。あんたの話すことなら涎を垂らして聞き入るだろう」
 エリクとフレディを視線で差して立ち上がろうとすると、女は肩にしなだれかかるようにヴィクトルの腕にすがった。
「待って。私は、あなたと話がしたいの」
 媚びるような視線にギクリとする。
 何故、こんな女を母に似ているなどと思ったのだろう。
「……俺は単なる神殿兵だ。女に奢ってやれるほど金もねえし、あんたの期待に沿うような面白い話もない」
「あらまあ、そっけないのね。そういう人って私は好き。――明日も私の踊りを見に来てくれないかしら。ねえ、貴方の名は?」
 美しい声音が籠絡するように意識に染み、女の纏う異国の花の香りに頭がクラクラする。
 ――このままここにいては、自分の中の何かがおかしくなりそうだ。
「悪いが急いでるんだ。――明日は来ない」
 ヴィクトルは女を押し退けるようにして席を立ち、親父のいる奥の勘定台に銅貨を置いて酒場を出た。


 外に出た途端、嫉妬に顔を真っ赤にしたフレディがすぐに後ろから追いついてきた。
「おいおい、何でお前ばっかりあんなにミランダと……お前まさか、何でもないようなフリして彼女と知り合いだったのかよ!?」
「違えよ、初対面だ。あっちが勝手に俺を同郷の人間と勘違いしたんだろ。俺は帰るぞ」
 素直に質問に答え、足早にその場を去る。
 フレディがまるで負け犬の遠吠えのように後ろから叫んだ。
「畜生……っ、俺のミランダに手をだしやがったらタダじゃおかねえからな!?」
 ヴィクトルは思わず振り返り、声をかけた。
「馬鹿、何言ってやがる。お前、頭大丈夫か」
 遊び人のフレディがまだ手に入れた訳でもない女のことでこんなにのぼせ上がっている所を見たのは初めてだ。
(あの女、何かある……のか?)
 チクリとした嫌な予感を感じながら、ヴィクトルは足早にねぐらへと急いだ。


 鍛冶屋の屋根裏部屋に戻って古鍵で戸を開けると、狭苦しい我が家は真っ暗で、妙にシンとしている。
 灯しておいたままだったはずのランプの炎も消えていた。
 ギシギシと軋む床を踏みしめながら中に入っていき、あたりを見回す。
 いつもなら「お帰り」と言わんばかりにすぐ飛びついてくる生き物の姿がない。
「アミュ……?」
 思わず名を呼んでしまってからハッとした。
 いつも、さっさと自分の世界へ帰れだとか、穀潰しだとか言って罵っているのに、姿が見えなくて不安になるとは。
「……クソ……あのタコ野郎……」
 何故だか深く落ち込み、ヴィクトルは毒づいた。
 気を取り直し、仕事着を脱ぎ始める。
 軍服の袖から腕を抜き、椅子の背に上着を被せた。
 身に付けていた剣も外して壁に立て掛け、シャツを脱ぎ落とす。
 闇に馴染む肌の色は、生粋の南方人であるミランダのそれよりも薄く、エリクやフレディに比べれば濃い。
 その肌を『あの男』は美しいと囁きながら愛でる。いつかは飽きるのだろうと思うけれど。
 真っ暗な中で着替えをしていると、突然、背後の暖炉の薪にボッと火が点った。
 ハッと驚き、下半身だけ軍服を着た状態で着替えをする手を止め、素早い動きで屈んでベッドの下を覗き込む。
「お前、やっぱりいるんじゃ……」
 だが、寝台の下には埃っぽい暗い床板しか見えない。
 ちっと舌打ちをしながら体を起こした時、妙なことに気付いた。
 さっきは真っ暗だと思ったのに、閉まっているカーテンの隙間から妙に明るい一筋の光が漏れている。
 訝しみ、歩いて窓際に近づくと、分厚い布を両手で掴んで強く左右に引いた。
 眩しいばかりの太陽の光が狭い屋根裏部屋とヴィクトルの顔を照らしだす。
 ――建物の外に広がっていたのは、王都の夜ではなく、雲一つない青空の下の清らかな森だった。
「おいおい……」
 驚き呆れつつ、すぐにこの事態を引き起こした犯人の顔が頭に浮かぶ。
 我が家にこんな悪戯ができるのは、『あの男』しかあり得ない。
 アミュ……バアル・アミュールの仕業だ。
 ヴィクトルは木枠の窓を外に向かって開け放ち、大声で叫んだ。
「おいっ、アミュ! ふざけるのもいい加減にしろ!!」
 だが、木々の間からは爽やかな風が吹き込むだけで、何の反応も返ってこない。
 業を煮やし、ヴィクトルは軍服の上着を軽く羽織って部屋を出た。
 階段を下ると、一階の鍛冶屋の作業場で、剣を置いた台につっぷしたまま家主が眠り込んでいる。
 肩を揺すって起こそうかと思ったが、今起きても戸惑うだけだろうと思い手を引っ込めた。
 なるべく足音を立てないよう、店先に出る。
 外に足を踏み出すと、石畳に舗装された路地のあるはずの場所には、太陽を燦々と浴びる木立が生えていた。
 足下に目をこらすと、土のむき出しになった細い獣道が扉の前から森の奥に続いている。
「……迎えにこいって……? 冗談きついぜ」
 引き返そうかと思ったが、朝になってもこのままだと仕事に遅刻することになりそうだ。
「……畜生」
 仕方なく、木々の間を抜けてゆく道なき道を進んだ。
 木漏れ日が下生えを照らす美しい森は、ただ静かで、虫一匹見当たらない。
「アミュ!」
 名前を呼びながら歩く内に、不思議な光景が左右に広がり始めた。
 濃い緑の葉が生えているばかりだった周囲の樹木が、見覚えのある様々な実をつけたほっそりとした木々ばかりになってゆく。
 ツヤのある真っ赤な林檎、黄色く熟れた洋梨、ふっくらとした桃に、一つの枝に鈴生りになった無花果。
 ……どれも、アミュに食べさせたことのある果物ばかりだ。
 首をひねりながら先へ進むと、木で作られた棚に垂れ下がる艶々した葡萄の実が見えた。
 思わずごくりと唾を飲み、潜るように葡萄棚の下に入っていく。
 葡萄の葉と蔓の日陰には、籐でできた長椅子が置かれ、そこに誰かが眠っているのが見えた。
 地面にまで散らばるふわふわとうねった真っ白な長髪、絹のシャツの上に膝まで丈のある純白の上衣と素晴らしい金糸の刺繍の入ったズボン、装飾の施された革のブーツ。
 鳥の羽のような長い睫毛を伏せて眠るその完璧に整った顔立ちは、一見すると女のように見えるが、その体格は現役の兵士であるヴィクトルよりも良く、明らかに男だと分かる。
 謎の生物アミュのもう一つの姿、この国の象徴にして永遠不滅の主神、バアル。
 すやすやと安らかに眠っている彼の元へ、ヴィクトルはわざと無遠慮に近づき、足元に散った白い髪を軍靴で踏みつけた。
「おい、起きろ!!」
「!?」
 急に怒鳴りつけられ、長椅子の上の神がはっと目を覚まして飛び起きる。
 と、同時に、踏まれた彼の長い髪の一部がピンと張り、バアルの体は反動で地面に転げ落ちた。
「ふぎゃっ」
 とても最高神とは思えないうめき声が上がり、深い紫の優しげな瞳が情けなげにヴィクトルを見上げる。
「ああ、お帰り私のヴィクトル……。ひどいじゃないか、せっかく気持ちよく寝ていたのになんてことを」
「なんてことをはこっちの台詞だ。鍛冶屋ごとこんな所にぶっとばしやがって」
 ヴィクトルは踏んでいた髪の上からどき、一応助け起こすように手を伸ばした。
 その手が優雅に握られ、美貌の神がゆったりと立ち上がる。
 同時にその長身の頭頂部が葡萄棚にしこたまぶつかり、声にならない呻きが漏れた。
「お前、本当に馬鹿だな……」
 籐でできた椅子の上に再び倒れ込んだ神を、ヴィクトルは呆れて見下ろした。
「すまない……」
 照れ臭そうな笑顔でバアルが微笑む。
 ――これだから、突き離しきれない。
 どこぞの宗教のような全知全能の唯一神のイメージとは程遠い神だ。
 ヴィクトルが密かに肩をすくめていると、バアルが両腕を伸ばして誘ってきた。
「お前も座ったらいい」
 アミュに抱っこをねだられる時と同じ仕草だ。
 そのせいか、ヴィクトルはつい彼の隣に腰を下ろしてしまった――ただし、1フィートほどの距離は保って。
「おい、さっさと家を王都に戻せ。親爺が起きちまったらどうする。俺たち宿無しになるぞ」
 隣で嬉しそうにする神をじっと睨むと、綺麗な手が伸びてきて、ヴィクトルの頬に触れた。
「……彼は起きないよ、私が眠らせたからな。それよりも、せっかくの果物を食べていかないのか? 腹が減っているだろうと思って、私がお前のために準備をしたのに」
「……腹……?」
 バアルの指を払いのけながら首を傾げる。
 確かに言われてみれば、酒場でろくに食べないで帰ってきてしまったので、酷く空腹だった。
 柔らかな微笑みが目の前の白い貌に浮かぶ。
「……お前が私にくれた果物の種を私の庭で大事に育てて、果樹園を作ったのだよ。私も食べるばかりが能という訳じゃない。さあ、食べてごらん」
「断る。こんな怪しい空間で育ったモノなんぞ食えるか」
 即答すると、バアルは美しい眉を下げて悲しげにこちらを見た。
「そう言わず、一口だけでも……。そうしたらすぐに家を元に戻す」
「しょうがねえな。分かったよ」
 根負けして、ヴィクトルは長椅子の背に身を預けた。
 バアルが嬉しそうに微笑み、服の袖の下から白く細い触手をスルリと出す。
 その触手の先は目のない蛇の頭のようにかぱりと口を開き、丁度すぐそばに垂れ下がっていた葡萄の実に噛み付いてもぎ取った。
 ヴィクトルは既に彼の本質的な部分がそういうものだと知ってはいたが、何度見てもいい気分はしない。
 そのまま実を唇に押し付けられそうになって本能的に避けると、バアルがそっと顔を寄せてきた。
「……。これは嫌いか?」
 申し訳なさそうにうなだれた触手が主人の手の中に実を渡し、しゅるんと袖口に仕舞われる。
 美しい長い指が改めてヴィクトルの唇に瑞々しい果実を押しつけ、舌の上に滑り込ませた。
「ン」
 不本意ながら奥歯で噛み締めると、甘く濃厚な果汁が口の中いっぱいに溢れる。
 脳が痺れるような深い甘味を味わいながら、アミュに葡萄を食べさせたのはいつだったろうと考えた。
 この王都を実質的に統べている伯爵の農業政策で、ワイン用の葡萄の栽培を始めることになった時かもしれない。
 葡萄の産地から、苗木と一緒に実が王都に持ち帰られ、大事に分けて貰った一房の半分ほどを、ほとんどアミュに食べられてしまった。
 その時ほんのわずかに味わった葡萄より、今、口の中にある果実の味はずっと繊細で、甘みも強い。
 素直に飲み込むと、いつの間にかバアルの美貌が目前に迫り、口移しに次の実を渡されていた。
「……!」
 唇の粘膜を触れ合わせながら実を受け取ると、芳醇な香りと共に舌に熱が生まれる。
 まるで、上質のワインを飲み下した時のように。
 反射的に離れようと身を引くと、バアルの手に両腕を掴まれ、籐の長椅子に上体をドッと押し倒された。
 前を留めていなかった軍服の前身頃がはだけ、ヴィクトルの綺麗に割れた腹筋と、隆起した胸筋があらわになる。
 途端に覆い被さっているバアルの纏う絹のシャツのボタンが弾け飛び、その隙間から白い蛇のような触手がどっと溢れ出て、剥き出しの褐色の肌に接吻し始めた。
「……っ、やめ……」
 言葉を発しかけた唇が深く塞がれる。
 熱い舌にすぐさま喉奥まで侵入されて、割れた葡萄の果肉を共に味わうような官能的な愛撫で口腔を犯された。
「……ッン……、う……っ」
 唇を貪られつつ、バアルの無数にある口のうちの二つに乳首に吸い付かれ、ねろねろと舌でなめ回される。
 強い性感に、ヴィクトルの腰が長椅子の上で無意識にしなった。
「ンン……っ!」
 目の前の強引な男に必死に目でやめろと訴える。
 けれど自分を弄んでいるこの神は、唇は離したものの、触手での情熱的な愛撫を一向にやめようとしない。
「……ごらん。お前の可愛い二つの実が、精一杯に大きくなって私の舌に懐いている……」
「懐いてんのはてめえだろうが……っくゥ……っ!」
 触手のぱっくりと開いた口に生える微細な歯が皮膚の薄い乳頭に立てられ、そこが絶妙な加減でクニュクニュと甘噛みされる。
 日を置かず弄ばれて感度の上がっているそこは、愛撫される悦びを真正直に下半身に伝え、ヴィクトルの性器をあっという間に充血させた。
「うァッ、は、あ……!」
 軍服のズボンの隙間にも忍び込んでくる相手の分身を、もはや拒むことができない。
 細い触手が、屹立したペニスにきつく絡みついてくる。まるで、自分のモノだと言わんばかりに。
 敏感な亀頭には、ぱっくりと口を開いた太い触手の先で吸い付かれ、獣の舌で鈴口をクチュクチュほじられて、気が狂いそうになる。
「ぁぁあああ……ッ、そ、こはぁ……っ、や、め……ぁ……っ」
 ヴィクトルの陰茎の根元が、絡みついたバアルの一部にゆるゆると扱かれ始めた。
 両脚は別の太い触手に縛められ、ズボンと下着とが無理矢理に素早く脱がされる。
 神自身は目の前で涼しい顔をしているのに、その体から出ている無数の触手の行為は、まるで手際のいい強姦魔だ。
 無防備になったヴィクトルの下半身に無遠慮な触手達の濡れた舌が無数に群がる。
 ヒクヒクする後孔と、張った双玉、陰毛の生え際にも触手に吸い付かれ、ねろねろと舐めまわされた。
 乳首にも、脇腹にも、ヘソにもたっぷりと唾液を含んだ粘膜の感触が這っていく。
「くぅ……っ、ふあ……あ」
 まるで複数の人間から同時に快楽責めを受けているかのような状況だ。
「出てしまいそうか? 私が全部飲むから、安心して放ちたいだけ放てばいい……」
 バアルの唇が再び開いて、楽しそうに訊く。
 休むことを知らない愛撫で身体を無理やり絶頂へ押し上げられ、返事もままならない。
「んぅ、嫌、だ、先のほう、ばかり吸う、なぁ……っ、」
 下腹部がムズムズとし始めて、嫌な予感がした。
 最近自分の身体はすっかりおかしいのだ。
 尿道を吸われながら射精すると、閉じるべきところが閉じなくなって――。
「ッア! あ――っ……っは……ぁあ……っ」
 凄まじい解放感と絶頂と共に、精液と尿とが同時にヴィクトルのペニスの先から迸る。
 けれどそれは決して服や長椅子を汚すことなく、全てがバアルの触手の餌になり――ゴクゴクと音を立てて飲み込まれた。
「ふっ、……く……っ、この嘘つき野郎、一口食ったらっ、家、戻す約束だろうが……っ」
 また、だ。また、やってしまった。
 情けなさと悔しさで熱くなった顔を片手で覆った。
 もう、嫌だ。こんなに身体を変えられたらもう、元に戻れる気がしない。
 目の前の男が、いる限りは……。
 指の間から見える男の美貌は、ヴィクトルの体液を味わったせいか、興奮した淫靡な表情になっている。
 バアルはこちらの視線に気付くと、心底愛おしげな口調で耳元に囁いてきた。
「……ヴィクトル……私に叶えてほしい望みはあるか?」
 何故、この男は今そんなことを言い出すのだろう。――怒りが沸騰し、ヴィクトルは噛み付くように叫んだ。
「俺の望みは、お前が元いた世界に帰る事だ……!」
 バアルが心底不思議そうにカクンと首を横に倒す。
「……嘘をついているのはお前だな……」
 白い指がヴィクトルの頬を優しく包んだ。
「……私はお前の望みが読めるのに、可愛い抵抗をするのが愛おしくてたまらない。
……でも、たまにはお前の口から本音が聞きたいのだ……ヴィクトル、お前の望みを言っておくれ……」
 波打つ黒髪がバアルの指で優しく梳かれ、甘い声音が問いかけてくる。
「言いたくないのなら、代わりに言ってやろうか?」
 紫の瞳から、視線がじっと注がれた。
 ヴィクトルの身体の奥の奥まで、隠しているものを全て見透かすように。
「……かつてのお前の望みは、亡くなった母にもう一度会う事だった……でも今のお前は」
「……っ、言うな……っ」
「お前は、私と共に生きることを願っている……そしてできれば今のまま、死がお前に訪れる時まで――」
 確信に溢れた口調に堪忍袋の緒が切れ、ヴィクトルの頭にカッと血が上った。
「てめえ、調子に乗ってんじゃねえぞ……!!」
 声に怒りを込め、触手の絡みついたままの足でバアルの腹を思い切り蹴り上げる。
「ぐふっ……!」
 反撃されるとは全く思っていなかったのか、神の長身は力を失った触手ごと無様に長椅子の上から転がり落ちた。
 ヴィクトルはすかさず立ち上がり、地面に落ちた一番太い触手を靴先で踏みにじりながら白髪を乱暴に掴み上げた。
「……今度また、今みたいな嘘八百を抜かしやがったら、元の世界じゃなくあの世に送ってやるからな……!!」
「うっ、嘘じゃなっ、あぐぅ……っ!! やめておくれ、お前が踏んでいるそれ、わ、私の」
「分かってて踏んでんだよ……! さっさと家を元の世界に戻さねえと、二度と俺の中に入れねぇくらいこれをグチャグチャに踏み潰すぞ……!!」
 足に力を込めて凄んでみせると、周囲の景色がすうっと薄れ、美しい葡萄棚も、鮮やかな色のリンゴや桃も全てが消え失せた。
 代わりに現れたのは粗末な鍛冶屋の屋根裏の我が家の、小さな暖炉と狭いベッドの置かれた光景だ。
 足下の床では、触手の一本をヴィクトルの靴に踏まれた小さなタコ型生物が、ピイピイと子供のような声を上げて泣いている。
 大きな紫の目から涙をボロボロ流しているその姿を見ても、ヴィクトルの心にはもはや同情心も罪悪感も湧かなかった。
「失せろ。
……しばらくお前の顔は見たくない」
 踏んでいた足をどけ、プイと後ろを向く。
 床に落ちた軍服と下着を拾い集めて椅子の上に放り、火の付いたままだった暖炉の前にしゃがむ。
 体を温めつつ壁際に直置きした行李から新しい下着だけを出して身に付け、藁の上にリネンのシーツを敷いたベッドに身を投げ出した。
 素朴な毛織りの掛け布団をひっかぶり、壁の方を向いて目を閉じる。
 まだ体には触れられて高まった熱が残っている。……無数の唇と、髪を撫でる優しい指の感触も。
 横にはなっているが、動揺と欲情が入り混じった興奮で、心臓が激しく高鳴っていた。
 それが少しずつ収まるにつれ、じわじわと後悔がヴィクトルの胸を蝕んでゆく。
 言い過ぎただろうか?  いや、甘い顔をして調子に乗せたら終わりだ。
 葛藤している内に、しばらく続いていたグスグスというアミュの泣き声がやんでいた。
 その後、いつものようにベッドに勝手に入ってくるかと思ったが、来ない。
 もし来たら、拳骨一発のあとで布団にくらいは入れてやろうと思ったのに……。
 その内に暖炉の火が燃え尽きて部屋が暗くなり、ヴィクトルはいつの間にか深い眠りに落ちていた。


 翌日の早朝、ヴィクトルが起きると、アミュは部屋のどこにも居なかった。
 ベッドの下や、テーブルの下、食料を入れた麻袋の中も開いてみたが、影も形もない。
 朝飯を用意すれば出てくるかと思い、パン屋で一人では食べきれないような巨大な黒パンを買って帰ってみた。
 不本意ながら名前を呼んでもみたが、それでもあの紫の瞳の十本足の生物は姿を見せなかった。
 おかげで出勤前だというのに、自分の顔以上に大きな硬いパンを一人で平らげる羽目になってしまった。
「あの野郎……。帰ってきたらタダで済むと思うなよ……」
 胃もたれに悩まされながら、ヴィクトルは一人で家を出た。
 いつもなら無理矢理アミュが左肩にへばりついて付いて来て一緒に出勤しているせいか、今朝は妙に肩が軽い。
 城壁沿いの王城への上り坂を歩きながら、何となく体のバランスが取りにくいことに気付いた。
 自分の体は、アミュの体重が片側にかかっている状態にすっかり慣らされていたのだ。
「クソ……っ」
 それにしても、アミュは一体どこへ消えてしまったのだろう。
 彼はここ半年以上、表向きはヴィクトルの珍しいペットとして、常に一緒に行動していた。
 触手で撫でて朝早く主人を起こし、同じテーブルで一人前以上にパンや果物を食べる。
 日中は盗人の捕獲や酔っ払いの保護、夫婦喧嘩の仲裁まで、持ち前の触手でヴィクトルの仕事を手伝っていた。
 そして夜は――逞しく優美な青年の姿になってヴィクトルの体を気が済むまで貪った後、また小さなタコの姿に戻って枕元で眠る。
 そんな生活だったから、今、一人で歩くことにすら違和感を感じるようになってしまった。
 元々自分は孤独が平気な人間だったはずなのに。
「……」
 複雑な感情が湧き、密かなため息をついていると、後ろから背中にドンと衝撃が走った。
「おい!」
 声を掛けられ、はっとして足を止める。
 振り向くと、見慣れた軍服と鬱陶しい巻き毛頭の男が立っている。
「……なんだ、お前か……フレディ」
「なんだとは何だよ。どうしたんだお前、すげえ浮かねえ顔してさぁ」
 浮かない顔と言われ、ヴィクトルはますます眉をしかめた。
「別に俺は普通だっ」
 即座に否定したその語気に、フレディが驚いてぽかんとする。
「いや、どう見ても不機嫌じゃねえか……。女にでもフラれたのか?」
「お前と一緒にするんじゃねえ」
 うんざりして前方に向き直り、ヴィクトルはフレディを無視して歩き始めた。
 フレディはますます面白がるような口調で絡んでくる。
「お前みたいな色男でもそんなことがあるんだなぁ、クククっ。でも俺のミランダには手は出すなよ! 俺たちすげぇいい感じなんだから」
 妙に浮かれたその調子がカンに障り、胸がムカムカした。
 同時に、何か腑に落ちない感覚が腹に疼く。
 ヴィクトルは顔だけをフレディに向け、短く訊いた。
「いい感じって、どういうことだ。昨日は明らかに無視されてたように見えたが?」
「いや、そんなことねえし。一週間前だって、彼女が俺たちのテーブルに来てさ。――私は王都には来たばかりだから、王都のことを色々教えて欲しいって話しかけられたんだ。それで俺、色々教えてやってすっかり親密な感じに」
「……。一体何を話したんだ。お前は」
「彼女、意外と歴史好きっていうかさぁ。神殿とか、王城とかに興味があるとか? ……でも、一番盛り上がったのは、伯爵様の話題かな。あいつ国中の女に人気あるけど、本性はすげぇドケチで人使い荒いんだぜってバラしといた」
「……ほかには?」
「あと、悔しいけどよ、お前の話にも食いついてたな。俺の友達にバルドル人とのハーフなのに、頭が良くてすげえ出世してるヤツがいてって話したら、会ってみたい――なんて言っててさ……だから昨日、お前にあんなに親しげに話しかけてたんだろうなぁ、今思うと」
 ヴィクトルは奥歯をぎりっと噛み締め、フレディの巻き毛頭を拳で軽くたたいた。
「喋り過ぎだ、バカ。相手は踊り子を装った盗っ人かもしれねえのに」
「ああ、確かに盗っ人かもしれねえな。俺の心をまるごと盗んでった……。はー、仕事なんてサボって逢いにいきてぇ、俺の女神……」
「一生やってろ」
 呆れ返り、視線を外して大股で歩いてゆく。
 ヴィクトルは無言で足を進めながら、心の中にあった黒い疑惑が少しずつはっきりと形をなすのを感じていた。
(あの女、やっぱり何かあるな……。手が空いたら少し調べてみるか)
 密かにそう決めたところで、フレディがまた性懲りもなく素っ頓狂な声を上げる。
「あれ!? おい、そういやお前、アミュどこやったの!? なんか変だなーと思ったら、肩に貼り付いてねえじゃん!?」
 思考を邪魔されると同時に、今一番思い出したくないことを思い出させられ、瞬時に感情が沸騰した。
「うるせえな、あんな奴のことはどうでもいいだろ!! 少しは黙ってろ馬鹿野郎!!」
「は、はぁい……」
 こちらの態度に戸惑ったのか、フレディがそれきり黙り、おとなしく歩き始める。
(クソ……)
 自分らしくない言動をしてしまったことに気付き、ヴィクトルは後悔に苛まれて唇を噛んだ。
 恥辱のあまり、地面に転がっている石を思い切り軍靴で蹴る。
 ――こんな風になるのも、全部あの間抜けな悪魔のせいだ。
 おそらく今夜あたりにはふらっと帰って来るに違いない。
 顔をみたら殴り飛ばしてやろう――。
 そんな風に意志を固めたヴィクトルだった、のだが。


(……あいつ……どこほっつき歩いていやがるんだ……)
 酒場の隅でもう何杯目か分からないワインを飲み干し、ヴィクトルは一人でクダを巻いていた。
 アミュが姿を消してから、気が付けばもう7日が経っている。
 昨日はとうとう下半身の方が音を上げて、移り住んでからは初めての自慰をしてしまった。
 しかも、前を扱くだけではとうとう達することができず、後ろまで使って。
 終わった後の空しさと絶望感と言ったらない。
 自分をそういう状況に追い込んだ相手への恨みが募ると共に、一つの結論が胸に色濃く浮かんだ。
 アミュは……バアル・アミュールは、自らの世界へ帰ったのかもしれない。
 元々、たった一夜の祭の為だけにやってきた神だ。
 それが気まぐれで自分にちょっかいを出し、そのまま居着いてしまった。
 けれど、神がそうそうこの世界に居て良いはずがない。
 それも、この国の最高神が……。
(望みが叶ったってのにこれじゃあ、本当に俺があいつと一緒に居たがってたみたいじゃねぇか……)
 苦い笑いで唇を歪め、ヴィクトルは額を手の平で覆った。
 ――今更気付きたくはなかった。
 自分は、マイペースで間抜けなあの変態男と暮らす生活を、どこかで楽しんでいたのだ。
 もう既に終わってしまったのかもしれないけれど……。
 深くため息をつき、ヴィクトルはテーブルに数枚の銅貨を置き、立ち上がろうと椅子を引いた。
 相当酒精が体に回っているのか、足下がふらついて視界が揺れる。
 強く瞬きをして体をまっすぐにした時、背後から誰かが自分の背中と腕に触れた。
「大丈夫? 相当酔っているみたいね、あなた」
 優しげな女の声――そして懐かしい共通語。
 だが、相手が誰なのか中々思い浮かばない。
 振り返ると、波打った長い黒髪の、褐色の美女が微笑んでいた。
 今日は踊り子の衣装ではなく、足首まで隠す丈の緋色のドレスを身に纏っている。
「やっと捕まえたわ……あなたのことを待ってたの」
 ミランダ、という名前をぼんやりと思い出した。
 そういえばしばらく前にこの女のことを調べようと考えた気がする。
 だが、ほかの仕事とアミュの件で頭がいっぱいになり、すっかり忘れていた。
「悪いが、これから帰るところだ」
 ……もしかしたら今夜はアミュが帰っているかもしれない。
 根拠はないがそんな考えが浮かんで、ヴィクトルは女の手から自分の体を離した。
「でも、フラフラじゃないの。私の部屋で、少し酔いを冷ましていった方がいいわよ……」
 女が媚びを売るような声音でなおも追いすがる。
 ヴィクトルは振り返りもせず、酒場の出口に足を向けた。
「必要ない。帰る」
「……。――あなたの大事なペットの居場所を、私が知っているって言ったら?」
 ヴィクトルの足が、思わずビクンと静止した。
 ミランダに連れられて辿り着いたのは、元々王都の貴族の自宅だったものを商人が手に入れ、一室ずつを宿にしたという瀟洒な館だった。
 大通りと建物を隔てる庭園に足を踏み入れると、急に空気がしんと静まり返る。
 見た限り、とても踊り子の稼ぎで泊まれるような場所ではない。
 金持ちの男が背後にいるのか、それとも――。
 ヴィクトルは訝しみながら、注意深く女の後について館に入った。
 シャンデリアの灯る上り口の広間を抜け、通された部屋は、知らない異国の香の匂いで満ちていた。
 暖炉に赤々と燃える炎に、豪華な調度が揃えられた居室が照らされる。
 壁を飾る、深い森と神々をモチーフにしたタペストリー、天蓋のついた貴族のベッド、片側にヘッドレストの付いた寝椅子、花の飾られた卓。
 ……アミュの姿は、ない。
 扉が閉まると、ミランダが慣れた様子で寝椅子を指差し、優雅な仕草で手招く。
「さあ、こちらでどうぞ休んで」
 だが、ヴィクトルは部屋の入り口近くに立ったまま首を振った。
「俺はここまででいい。……アミュはどこだ」
 単刀直入に質問すると、女は妖艶な笑みを浮かべ、こちらに近づいてきた。
「……ごめんなさい。そうでも言わないとあなたはついてきてくれないかと……アミュっていうのね、あなたの大事なペットは。犬だか猫だか知らないけど……」
 その言葉に落胆し、ため息が漏れる。
「……とんだ無駄足だ。フレディか? あんたに余計なことを喋ったのは」
「そうよ。あなたが最近ペットがいなくなって落ち込んでるって聞いたから……ごめんなさい。でも、どうしてもあなたと二人きりで話したかったから……ヴィクトル・シェンク」
 名乗った覚えのない名を呼ばれ、ヴィクトルは片眉を上げた。
「……何故俺にそんなにこだわる」
 途端、ミランダは上目遣いにこちらを見つめながら、ヴィクトルの首筋に腕を回してきた。
「神殿騎士団のナンバーツー……母親はバルドルの踊り子、そして父親はエルカーズ人の商人。――実は、どうしても気になって、あなたのことを少し調べさせてもらったの。といっても、情報源は殆どあなたのお友達だけれどね」
 ヴィクトルは深い闇色をした女の瞳を睨みつけた。
「尻尾を現わしやがったな、メス狐め……。お前、何者だ」
 腰に佩いた剣の柄に手を掛ける。
 だが彼女は恐れる様子もなく、ヴィクトルに抱きついたまま微笑んだ。
 豊満な二つの胸がぴったりと腹筋に押しつけられている。
「待って。ちゃんと話を聞いてちょうだい。私の本当の名はミランダ・エル・アラバスタ」
 女の名乗った苗字に聞き覚えがあり、ヴィクトルは愕然とした。
「……まさか……」
「そう、あなたのお母様と同じ。……アラバスタの姓を持つ家は、バルドルには一つしかないわ。私とあなたは間違いなく親戚よ」
 訴えるような表情でミランダが軍服の胸を掴む。
「貴方も気づいてるでしょう……どこか似てるわ、私達」
 驚きと共にヴィクトルは目の前の女の顔を見た。
 確かに女の顔は母に――自分に、似ているかもしれない。
「ヴィクトル、私達がここで出会えたのは運命だと思うの。私と一緒に来ない?」
 ヴィクトルは女の肩を掴み離しながら、遮るように口を開いた。
「待て。あんたの言ってる事が本当だとして、あんたと俺は生まれた時代も場所も全く違う、そういう意味じゃほとんどあかの他人だと思うが?」
「……」
 一瞬、ミランダの表情が固まる。
 だが直ぐに彼女は長い睫毛を伏せ、しおらしく腕にすがって語り始めた。
「警戒されるのは尤もだわね……。でも、信じて。私は同胞として、親族として、あなたを救いたいの……この国で、見た目もエルカーズ人とは異なる貴方は、今まで快くない目に遭ってきたんじゃなくて? 神殿兵の生活も苦しいと聞いたわ」
 ヴィクトルは失笑した。
「……随分俺のことをよく知ってるんだな、ミランダ。確かに俺は半分バルドル人で、薄給で、この肌の色のせいで現在進行形で酷い目に遭ってるかもな。――で? そんな俺に目を付けたのはどういう見立てだ。バルドルの殺し屋め」
 ヴィクトルは女の長いスカートを掴み、太腿のあたりをビッと勢いよく破いた。
 褐色の扇情的な太腿が露わになり、ガーターベルトに仕込まれた抜き身の短剣が三本、ギラリと光る。
「俺は散々あんたと同じようなのをここで捕まえてるから分かるが、あんたの身のこなしは素人じゃない。その武器も、バルドルの暗殺者が好んで使うものだ」
 ミランダは軽く舌打ちすると、ヴィクトルの手から破れかけたスカートを奪いながら素早く離れた。
「……酷いわ……女のスカートを破くなんて」
「あんたがさっさと正体を明かさないからだろうが。何故俺を仲間に引き入れようとする?」
 聞くと、女は自ら残りの布をビリビリと破きながら話し始めた。
「流石は我が一族の男ね……お為ごかしはやめるわ。私のことは御察しの通りよ」
 真っ赤に染めた爪が破れた裾を床に捨て去り、美しい両脚が露わになる。
「貴方の実質的な主のタールベルク伯爵は、この国で最も王に近い男だと言われているわ。彼は、悪魔の加護を受けているともっぱらの噂よ……そんな男がこの国の王になったら、エルカーズはまた以前のように悪魔の力を借りて周辺の国を脅かしかねない」
 ミランダは冷たい微笑みを浮かべ、腿のナイフを撫でた。
「私の任務は伯爵の暗殺……でも、隙がなさすぎて近づくことすら出来なかった。――だから、あなたの協力が欲しいの。伯爵に近づくことが出来る、私たちと同じ唯一の神を信じているバルドル人……あなたの力がね」
 その言葉にヴィクトルは一瞬目を丸くしたが、次第に腹から笑いがこみ上げてきて、我慢しきれず吹き出した。
「くっ。ふふ……悪魔の力か。はっきり言って、その噂には同意しかねえな」
 ミランダが嬉しそうに畳みかける。
「――やっぱり……! あなたなら必ず私の話に耳を傾けてくれると思っていたわ」
 ヴィクトルは笑いながらうなずいた。
「確かに伯爵は悪魔の加護を受けている……というか、悪魔そのものと言ってもいいくらいだが」
「だとすれば、決まりね。……もしあなたが伯爵の暗殺に協力してくれるなら、バルドルは貴方への助力を惜しまない。私の雇い主が、莫大な報酬と、バルドルでの永住権と爵位を約束するわ。収入も暮らしも今の何倍も良くなる。……だから」
「断る」
 拒絶と共に、ヴィクトルは腰の剣をスラリと抜いて薙ぎ払った。
 ドレスを着た細身の体が柔軟に反ってその刃を避け、そのまま背後に宙返りをし、恐ろしく軽い身のこなしでストンと着地する。
「……何ですって……?」
 乱れた黒髪の間から見える表情からは笑みが消え、怒りがあらわになっていた。
「……伯爵に恨みがないと言えば嘘になるが、殺したら俺の大事な人間が悲しむ」
 淡々と話すヴィクトルに対し、ミランダは太腿からナイフを抜き放とうとした。
 だが、ヴィクトルの操る長剣が一閃し、あっけなくそれをはじき落とす。
「……どうやら俺はあんたを捕まえて尋問し、最後は国に強制送還してやらねえといけないようだ。勤務時間外だから気が乗らねえが、ナイフを全部捨てて王城まで付いてきて貰おうか」
 ミランダの表情に影が深くなる。
「哀れな男。この国の悪魔に取り憑かれているのね」
 彼女は憎々しげな口調で渋々と残りの短剣をガーターベルトから抜き、床に捨てた。
「よく分かったな。とりあえずこっちに――」
 言いかけた途端、背後に殺気を感じてヴィクトルは飛び退いた。
 一瞬前まで自分のいた空間が曲刀で切り裂かれる。
「!」
 姿勢を低くしながら振り向くと、顔を黒い頭巾で隠した旅装束の屈強な男が刀を再び振り下ろすところだった。
 それも横っ跳びに避けながら、出入り口のドアの方を一瞬うかがう。
 扉は閉まっていた。誰かが入ってきた気配がなかったことを考えると、恐らく暗殺者の仲間だろう。
 気配を隠して入ってきたか、もしくはこの部屋に潜んでいたのか。
(ちっ、アミュが居れば――)
 どうしてもそんな事を考えてしまいながら、必死で攻撃を避ける。
 追い詰められるように逃れて背中を壁に付けた途端、短剣が飛んできてグサリと顔の横に刺さった。
「!」
 まだ酒の酔いが抜けきらず、息の上がったヴィクトルに暗殺者たちが迫る。
 ミランダは細く鋭い短剣を構え、歪んだ笑顔を浮かべていた。
「ヴィクトル! 最後のチャンスよ。私達の仲間になりなさい。貴方の素質があれば、素晴らしい暗殺者になれる。……身寄りのないあなたの、新しい家族になれるのよ――私達ならば」
 籠絡するその言葉に、ヴィクトルは薄く笑った。
「……悪いが、俺の家族は死んだお袋と、どうしようもない間抜けなタコだけだ。――」
 刃物が目にも留まらぬ速さで放たれ、ヴィクトルの心臓と頭を狙った。
 この距離では避けられない――そう思って目を閉じた瞬間。
「……みゅ」
 子供のような高く短い声が足元で上がった。
 耳を疑い、薄目を開いて辺りの様子を窺う。
 まさかと思った時にはもう、白く長い蛇のような何かが二人の暗殺者の体をぐるぐる巻きに縛り上げているところだった。
「……キャーッ! 何なのよこの化け物はっ! だから私こんな悪魔の国になんか来たくなかったのにっ!」
「助けてください、姐御〜っ!」
 空中で身もだえている二人を見て、次に足下を見る。
 床にへばりつき、十本の触手を操っている、腕に収まる程の大きさの白い生物。
「おっ……おま……あっ、あっ」
 さすがのヴィクトルも声がなかなか出ず、先に手が出た。
 這いつくばりながらアミュの頭(胴体かもしれない)をぐいぐいと引っ張り、紫の目を無理矢理にこちらに向ける。
「てめえ……!! 一体今までどこに行ってやがったんだ、このクソタコ野郎……!!」
「みゅ〜っ、ミュッミュッ!」
 アミュの腕の一本が縛られた男女を必死に示した。
 どうやら、「今はそれどころじゃないだろう」と言いたいらしい。
「チッ。……後で落とし前付けてやるからな!!」
 叫んでから深いため息をつき、勢いよく立ち上がった。
 アミュが長く伸びた腕で暗殺者達を捕えたまま、体だけ足下にすり寄ってくる。
 その感触は相変わらず気分が良くなかったが、何故か自然と、ヴィクトルの口元に微笑みが浮かんだ。
「――面倒くせぇけど、このまま王城まで行くぞ……アミュ」


 家路につくことが出来たのは結局明け方近くだった。
 ミランダと仲間の男を夜通し尋問したが、結局ろくな情報は得られていない。
 「拷問はしない」という伯爵の寛容な精神に則り、手荒なことは避けて二人を王城の地下牢に閉じ込めたが、フレディがこれを知った時のことを思うと、すでにかなり憂鬱だった。
(あいつ、絶対『誤解だ』とか何とか言ってあの女を逃がそうとするに決まってるからな……――それにしても)
 視線を移し、肩にへばりついている白い生き物を見下ろす。
 さっきからアミュはそこにしがみ付いたまましんと黙っている。
 訊きたいことは山ほどあったが、こちらから声をかけるのもしゃくな気がして、ずっとこの状態だ。
 やがて家に着いてしまい、ヴィクトルは軋む階段を上り、そっと自室の扉を開けた。
 中から白くまばゆい光が溢れ、眩しさに驚いて目を瞑る。
 恐る恐る瞼を開くと、鍛冶屋の狭い屋根裏部屋があるはずの空間に、暖かな昼間のリンゴの木の園が広がっていた。
「……またかよ……疲れてんのに……」
 がっくりと落とした肩からアミュが居なくなっている。
 仕方なく覚悟を決め、土と苔で覆われた地面に一歩足を踏み入れた。
 つややかなリンゴの生る並木が囲む小道を、迷いも無くまっすぐに進んでゆく。
 やがてたどり着いた先は、柔らかな芝生の生える明るい広場だった。
 中央には、丸いドームを天井に備え、正面には装飾された柱の並んだ小さな神殿が建っている。
 柱の間を潜るようにして中に入ってゆくと、大理石の床に光の注ぐ中央のドーム下に、白いトーガを体に纏った長身の男――バアルがひっそりとヴィクトルを待っていた。
 いつもとは異なる姿にドキリとして足が止まる。
 ドレープの多い布を纏った相手は、主神を描いたエルカーズの神話に出てくる姿そのままで、近づきがたかった。
「……今更そんな格好しやがって、一体どういうつもりだよ」
 皮肉を言ってやったつもりだったが、動揺で声が掠れる。
 神はふわふわと波打った長い白髪をなびかせながらこちらに近づき、典雅な動作でヴィクトルの足下に跪いた。
「……私は、お前の望みを叶える……」
 低く艶めいた声と共に左手が取られ、その甲に口づけが触れる。
「お前の命が尽きるまで、私はお前の伴侶となり、そばを離れはしない」
 喉が詰まったようになって、ヴィクトルはうっと呻きを漏らした。
「……お前なあ……っ。いつ俺がそんなことを」
「さっき言っただろう。私のことを家族と。お前はあの時あの女と新しい家族を作ることが出来たのに、敢えて私を望んだ。――お前のあの言葉で、契約が成立したのだ。助力の終わりはお前が他の人間と結婚するか、あるいは命の尽きる時……もちろん、対価は貰う……ありとあらゆるお前の体液で」
 にっこりと神が微笑み、祭壇のあるはずの奥を指さした。
 薄布のカーテンで隔てられたそこに何故か、大人二人が眠れそうな大きな寝台が置いてある。
「げっ……」
 神殿にあるまじき光景に思わず引いたが、腕をぐいぐいと引かれ、よろけながらそこへ無理矢理連れて行かれた。
「待て待て待て! 強引にも程があるだろうが……!」
「私はそうは思わない。お前は飢えているはずだ……私の愛撫に。この前だって一人で慰めて……」
「!!」
 バアルの言葉に雷が落ちたような衝撃を受け、ヴィクトルは無言で相手のそばを離れた。
「ヴィクトル?」
 きょとんとしている神の目の前で、黙り込んでブーツのままベッドに腰を下ろす。
 ヴィクトルは床を指さし、有無を言わさぬ口調で低く命令した。
「てめえ……まずはそこに座れ……」
「? 分かった」
 素直にベッドの脇にバアルがストンと跪く。
「……さて、どうしてほしい? お前の靴を脱がしながら、足の裏を舐めてやろうか?」
 嬉々とした顔で提案する白い美貌を、ヴィクトルは思いきり軍靴で踏んだ。
「うぐ!」
「まずは俺の質問に答えろ……。……雲隠れしてる間、ずっと俺のことを見てやがったのか……?」
 殺気に溢れたその尋問に、バアルはうっとりと答えた。
「だって、お前がしばらく私に消えろと言うから、望み通りにしたのだよ。でも、姿だけ消して、いつも離れないようにはしていた。お前が心配だからな」
「〜〜〜〜っ」
 絶句しているヴィクトルの軍靴の紐を、バアルの首元から出た触手が丁寧に解いてゆく。
「でも、あんなに可愛いお前が見られるとは思わなかった……。私を必死に探してくれたり、居ないからと落ち込んだり……。挙げ句の果てに尻をいじりながら私の名を」
「それ以上言ったら殺す」
 もう一度踏みつけようと太腿に力を込めた途端、ずるっと靴が足から引き抜かれた。
 逆側の足で肩を蹴ろうとしたが、それも触手に捉えられて靴紐を解かれてゆく。
 バアルが剥き出しの脛に頬ずりしながら真剣な眼差しでヴィクトルを見た。
 睫毛に縁取られた優しげなその紫の瞳は、アミュの時のままだ。
「……お前を愛している」
 紅い唇が紡いだ言葉に、ヴィクトルは激しく動揺した。
「う……っ、そばっかり言いやがって……っ」
 思わずベッドの上を尻で這って後ろに逃げる。
 この男は、単なる興味本位で自分に近づいてきた気まぐれな悪魔だ。
 そんな訳の分からないものに絆されたくない。
 心の中を見透かされるのも沢山だ。
 バアルが立ち上がり、追うようにベッドの上に膝で上がってきた。
「来るんじゃねえっ、もう嫌だ……! お前に振り回されるのはごめんなんだよ……っ……あ」
 白いトーガの腕の袖口から伸びてきた触手に手首を掴まれる。
 いつの間にかヴィクトルの吊り気味の目尻に涙が浮かび、こぼれていた。
「それ、嫌いなんだよ……余計な腕いっぱい生やしやがって……いつも訳わかんなくなって、俺がお前に触れねえだろ……っ」
 ぎりっと睨み付けると、バアルはハッとした表情で触手を引っ込めた。
「わ、悪かった……でも、少しでも早く、私の全部でお前に触りたくて……だって、私だって七日間、目の前の可愛すぎるお前に触れられなくて死ぬかと思うほど辛かったのだよ」
 人間の形をした方のバアルの手がヴィクトルの手の甲に重ねられ、潤んだ紫色の目が至近距離で必死に訴えてくる。
 その懇願にヴィクトルはいい仕置きの方法を思いつき、はじめて口元を綻ばせた。
「……。そんなに俺に触れたかったのか?」
「ああ……気が狂うかと思うほど」
「今も?」
「今もだ。……お前の体中にキスして、匂いを嗅いで、極上の体液を舐めて啜らないと死にそうだ……」
「ふうん、そうか。――なら、今夜はお前の本体を出すのは禁止させて貰う。最初から最後まで、絶対に人間の形をきっちり保つなら、抱かれてやらないことはないぜ」
「!!????」
 バアルが声にならない悲鳴を上げ、真っ青になった。
 どうやら思った通り、自分の提案はこの男には何よりの罰だったらしい。
「どうすんだ。してぇんなら、さっさとそのズルズルした服を脱げ」
 軍服のホックを外し、褐色の肌を見せつけて誘いながらそう言ってやると、バアルは美しい顔を情けなく歪めて頷いた。


「んぶふ、んーっ」
 腰の下で、バアルが唇を塞がれて呻いている。
 引き締まった尻肉を神の顔の上にどっかりと乗せたまま、ヴィクトルは彼の性器をゆっくりした舌遣いで口淫していた。
 体の下にはバアルの素晴らしい肉体が組み敷かれているが、その肌にいつもある青い斑紋は消え、人間のような白く滑らかな皮膚と隆起した筋肉がヒクヒクと震えている。
 普段は伸び縮みしたり、先が割れて舌が飛び出したりするバアルの分身は、辛うじて人間の雄のそれの形を保っていて、震えながらはち切れんばかりに勃起していた。
 鈴口の体裁を保っている小さな穴に舌をねじ込んでやると、ちゅうちゅうと吸い付いて来ようとするので、すかさず口を離して抗議する。
「おい、人間のチンポは舌は吸わねえぞ」
「んうっ、んーっ」
 尻の下から悲痛な叫びらしきものが上がった。
 その反応に、この7日間で溜まった鬱憤が少しは晴れてゆく。
 唾液を絡めてペニスを舐め回していると、尻が鷲掴まれて持ち上げられ、バアルのぼやきが狭間から漏れてきた。
「酷すぎる……触れているのにお前の体液が吸えないなんて……拷問のようだ……っ」
 その言葉に満足感を覚えつつ、ヴィクトルは手の中にあるペニスの裏筋を舐め上げ、震えるカリ首に舌先から唾液を垂らした。
 太い屹立がビクっと揺れ、生き物のように悶えだす。
 辛うじて飲むのを我慢しているのか、唾液は根本に向かってこぼれ落ちた。
 その軌跡を追いかけるように舌を這わせ、側面からしゃぶるようにキスを繰り返す。
 バアルもお返しとばかりにヴィクトルの後孔を舌で突き始めたが、触手のそれとは違い、ひどく稚拙な動きだった。
 恐らく、人間の形を保つのに必死なあまり、身体に神経が行き届かないに違いない。
(……こいつ、触手以外はほぼサボってたしな…………)
 ごく浅い部分を愛撫している男の熱っぽい舌に尻を押し付けると、もっと深くまでほじられ、吸われた経験を持つそこの筋肉が飢えを訴えるようにヒクヒクと痙攣した。
「っ……、ンっ」
 ヴィクトルの愛撫が疎かになった隙を突いて、少しだけ余裕を取り戻した神が両手で褐色の肌を辿ってゆく。
 指先が尻から腰にかけてを擽り、脇腹を撫で、最後には乳首を捕らえて、優しく撫で弾いた。
 愛撫に飢えた突起はすぐに硬くなり、ヴィクトルの丸めた背中がビクビクとバアルの上で跳ねる。
「んぐ……っ」
 太い雄の先端を頬張ったまま喘ぎ声を耐えると、尻の中でバアルの舌が徐々に伸びて、より奥深くをグチュグチュと舐り始めた。
「……っ!」
 慌ててペニスを口から外し、背後を振り向いて抗議する。
「おまっ、人間の形保てと……っ」
「ちゃんと保っている。少しぐらい舌が長い人間だっているだろう?」
 何故か目の前のペニスから声が聞こえてきた。
「馬鹿野郎、人間がそんなとこで喋るか……っ、はあっ……っ!」
 ズプッ、ズプッと後孔を抉られながら二つの乳首を強く引っ張られ、まだ触れられていない性器が疼いて仕方がない。
「……っ」
 苛立って、乳首に触れている手を無理やり外させ、膝で踏みつける。
「にっ、人間の身体そのまんまだぞ、そこは!」
「ルールを違反した罰だ」
 冷たく言い放ちながら、ヴィクトルは一つ意地悪を思いついた。
 上体を上げ、バアルの顔を尻で、手を膝で踏んだまま自分のペニスに指を絡める。
「……っ、お前はそのままそこ舐めとけ……っ」
 言い含め、勃起したバアルの「本体」に見せつけるように艶めかしく髪を掻き揚げ、尻を揺らしながら自分のペニスをしごき立て始めた。
「んんっ、んんん……」
 舌しか使えなくなってしまった哀れな男は、必死に言葉にならない抗議を上げながらヴィクトルの中をえぐっている。
「はは……いいざまだぜ、アミュ……、ン……っ」
 キュウ、と舌を括約筋で締め付けながらペニスを擦る指を早めると、溢れた先走りが神の首筋へ垂れた。
 濡れた部分のバアルの肌が青く発光し、すかさず注意する。
「ダメだ……飲むのは許さねぇ……、っ」
 男が自分の体液を欲しがって悶える愉悦に浸りながら、キュ……っとひときわ強く舌を絞り上げ、ヴィクトルは精液を放った。
「ウッ、は……あっ」
 尿道を無理やり吸われずに出すのは久々の感覚だったが、思ったほどの快楽はない。
 ただ、神の胸や腹に精液を撒き散らしてやることで溜飲は下がり、ふーっと大きく甘い溜息が漏れた。
 バアルの情けない顔が見たくなり、敷いていた頭から尻を上げる。
 ちゅぽんと力なく舌が抜ける感触とともに、脚を上げて身体の向きを変えた。
 バアルの腰のあたりに座りなおし、いきり立ったペニスにわざと尻の狭間を擦り付けてやりながら相手の顔を見下ろす。
 見れば、横たわったバアルは子供が泣きじゃくった後のような酷い表情をしていた。
 ぷっと吹き出して、思わず声を掛ける。
「なんて顔してんだ、お前……」
 この上なくいい気分で顔を近づけ、涙で濡れて赤くなった目元に口付けてやった。
 拗ねたように目を逸らされ、それが可愛くて仕方がなくなり、フワフワの長い白髪を指で掻き混ぜる。
「我慢した褒美だ。
もう手ぐらいは使っていいぜ……」
 言いながら、ヴィクトルは少し尻を浮かせ、緩んだ後孔をバアルの太いペニスの上に落とした。
「……っ……」
 接吻するように濡れた窄まりを亀頭に押しつける。
 バアルがヒクンと雄を震わせ、整った眉を顰めながらこちらを見た。
 その表情に主導権を握った優越感を感じながら、腰を落としてズブズブと太い雄を呑み込み始める。
(くそ、久々過ぎてキツい……)
 苦しさと、粘膜の擦れる甘い疼きに眉を寄せ、唇を噛んだ。
 長い髪を乱したバアルが魅入られたように上体を起こす。
 繋がりかけたままの体勢で、逞しい両腕がヴィクトルの震える腰に回った。
 そのまま尻肉を掴むように引き寄せられて、ズブンと深く一気に中を貫かれる。
「……っあぁ……っ!」
 肉壺を無理やりに開かれて、筋肉が淫らに痙攣しながら怒張に馴染んでゆく。
「おい、俺が動くんだからお前は大人しくして……っ、んァ……っ!」
 抵抗の言葉もむなしく、ヴィクトルの体はベッドの上に膝立ちになったバアルに抱え上げられていた。
 いつもとは違い、熱い体温がぴったりと重なって、心地よさを覚えそうになってはっとする。
「はァっ、離、せ……っ」
 かろうじて抵抗するが、体が強く揺すぶられ、ズプズプと水音をたてて小刻みに奥を犯される。
 神は膝で歩くようにベッドの端に進み、ヴィクトルの背を天蓋を支える銅で出来た柱に押しつけた。
「はぁっ、痛ぇ……っ」
 背後の柱は大人の男の腕ほどの太さで、冷たく硬い。
 抗議の声を上げると、バアルの手がヴィクトルの体を離した。
「……っ!」
 落ちる、と思ったのに、何故か体が落下しなかった。
 下半身もバアルのペニスをしっかり飲み込んでいる。
 さては触手を使ったかと相手の体を見回したが、どこを眺めてもすべすべとした白い肌と、隆起した完璧な筋肉に覆われた肉体しか見当たらない。
「なん……で」
 脚をいっぱいに開いたまま中途半端に宙に浮いている状態に混乱し、ヴィクトルは後ろを振り向いた。
 そして気付いてしまった――触手が、自分の体を支えていることに。
 ただし、それはヴィクトルの体から生えている。
 尻のすぐ上、左右の腰から子供の腕程の細いものが二本、それに太腿の裏から一回り太いものが更に二本。
 太腿の触手は膝に一回転巻き付いた後、葡萄の蔓のようにベッドの柱に巻き付いていて、体を宙に固定している。
 腰のものは気付いた時にはヴィクトルの両腕を巻き込み、柱に縛り付けていた。
「ひっ……!」
 驚いて正面に向き直り、目の前の男を睨む。
「お前っ、人間の姿を保てと……!」
「『私は』保っている。問題無いだろう?」
 バアルが首を傾げて艶然と微笑み、その指がヴィクトルの乳首を強く摘まみ上げた。
「いい訳な……んン……っ!」
 ビクッ、ビクッと褐色の尻が宙に躍り、ギチギチに肉棒を飲み込んだ穴が、雁首を引き込むように締まる。
「お前はやっぱり、縛り上げた方が感度がいい……このままゆっくり愛してやりたいが、私も既に限界だ……お前の身体もトロトロに蕩けて私を欲しがっているし――」
 低い声がヴィクトルの耳元で甘く囁き、舌がねっとりと耳穴を舐め回し始めた。
「あはァ……っ、ァ……」
 乳首を指先で乱暴に愛撫されながら性急な動きで尻を突かれる。
 自分の体は一切自由にならないので、そこから体を貫く度を越した快楽の逃げ場がない。
「ンっ、はぁあっ、イク……っ、も、やめろ……っ」
 柱に縛られたままのけぞり訴えるが、バアルは紫の目を細めたまま腰を打ち付けてくることをやめようとしなかった。
「たまには人間のような交わりをするのもいいな……本来の私を出せないのは辛いが、積極的なお前が見られるのは楽しい……」
 首筋や唇に啄むキスをいくつも落とし、バアルの腕が柱ごとヴィクトルの体を抱き締める。
 密着した体温に、ずっとそんな風にされたかったのだと気付いて動揺した。
 それが伝わったのか、目の前の神が微笑みながら頬と頬を付け、低くつややかな声で囁く。
「お前は私と人間の恋人のように愛し合いたかったのか。可愛いな……愛しているよ、ヴィクトル……」
 言葉とともに唇を塞がれた途端、下腹の奥で激しい絶頂感が高まり、ヴィクトルは声にならない叫びを上げた。
「〜〜〜っ、……!!」
 もう、止まることができない。
 膝から下を神の腰に巻き付けて尻を擦り付け、蕩けた肉を押しつけて何度も悦びを貪る。
「ずっとお前と一緒にいる……決して離れはしない」
 唇を貪りあっているはずなのに、どこから聞こえたのかそんな言葉が耳に届き、ただ頷いて瞼を閉じた。


 翌朝、ヴィクトルは見慣れた粗末な藁敷きのベッドではっと目が覚めた。
 慌てて飛び起き、周りを見回すと、微かないびきをかきながら枕元に白いタコ状の生物が伸びきって眠っている。
「――はぁ……」
 気の抜けたようなため息が漏れて、がっくりと全身から力が抜けた。
 全裸の褐色の肌には接吻の跡が残っていて、昨夜のあれがどうやら夢ではなかったらしいことを悟る。
 ――完全にハメられてしまった。
 改めて怒りがフツフツと湧きながら毛布を剥がし、何気なく自分の下半身を見下ろして驚愕した。
「げぇっ!!」
 腰の両脇と左右の太ももから、うねうねと白い触手が四本出ているではないか。
「おいっ、なんでこんなもんがまだ俺の体から出てんだ!? おいアミュっ、起きろ!!」
 慌ててアミュに掴みかかろうとすると、触手がまるで腕のように伸びてアミュの体をぎゅっと抱き締めた。
 その仕草は、まるで子供が大事な人形か何かを抱くかのような優しいもので、益々気味が悪い。
 アミュは触手に抱かれたまま腕で大きな目を擦り、ふわーっとあくびをしてから、悪びれない様子で声を上げた。
「……みゅ?」
「みゅじゃねえ! これ何とかしろ!!」
 朝っぱらから全裸で激昂するヴィクトルに、アミュがおびえたようにビクンとはねる。
 そのまま必死で身振り手振りを始め、懸命に何かを訴え始めた。
 その仕草を解読するにつれ、次第に嫌な予感が湧く。
「……はぁ? 元に戻らねえけど……? 自分の意志でしまえるから大丈夫……?」
 言われて試しに『戻れ』と念じた。
 と、スポンと左右の腰と太腿に計四本の触手が収まり、皮膚には入れ墨のような青い斑紋が残った。
 バアルの触手が出る時に浮かぶものと同じ模様だ。
「確かにしまえたがよ、そういう問題じゃねえだろうが!? おまっ、ずっと一緒って……まさかそういう意味かよ!? ふざけんな、元に戻せこの野郎……っ!!」
 床に落ちたアミュの体を何度も足で踏みつけるが、何故か白いタコは幸せそうな顔をして足の裏に抱きついている。
 自分の体と運命がまた一つ取り返しのつかない方向に進んでしまったらしいことに気付き、ヴィクトルは今度こそ本気で天を仰いで叫んだ。
「この悪魔……っ、もう二度とその面見せるんじゃねえ!!」
「みゅう!」
 ――だが、悪魔の方はとうに自分たちは結ばれたと思っているのか、しっかりと足首に巻き付き、二度と離れてはくれなかったのだった。


end