俺を殺しにきた男1

 ターゲットは、子供のような顔をした男だった。

 名前はマコト・オカノ――岡野誠。

 日本人の母と、素性、国籍不詳のアジア系の父親との間に生まれている。

 5歳の時に母親が出生地フランスの国籍を申請した為、今のところは日仏の二重国籍だ。

 住まいはパリ20区ベルヴィル。

 中華街があり、アジア人が多く住む区域にあたる。

 写真を見ると、年齢は21だというが、顔立ちはとてもそうは見えない。

 あどけない、どこか間が抜けたように見える笑顔を浮かべていて、顔だけを見ていると、せいぜい14か、もっと下にも見える。

 身体の方は肉体労働者のようなしっかりとした体格をしているので、どこかアンバランスだ。

 けれど、それ以外は何の変哲も無い、どこにでもいるようなアジア人の青年。

「――子供を殺すのにわざわざ俺を雇うのか?」

 クリスマス前の華やいだ街を背景にしたカフェテラスで、表情のない美貌の男が問う。

「その男は子供じゃないが……そういうことだ。事情は詮索しなくていい」

 喧騒の中で、向かいに座っている相手の低い声がはっきりとそう告げた。

「分かった。――金をこちらの指定する口座に入金しておけ」

 テーブルに差し出されたアジア人の写真を懐に入れ、雪白の肌をした殺し屋は静かに席を立った。

 

 

※ ※

 

 

 どこの世界にも、どこの国にも、二種類の人間がいる。

 人から言われたことを上手くこなせる器用な人間と、そうじゃなく、しょっちゅう怒られてばかりいる人間。

 街中に転がる犬のフンを、上手く避けながら颯爽と歩ける人間と、靴を買ったばかりの時ほどそれを踏んでしまう人間……。

 後者とはまさに、俺のことだ。

 しかも自分のことも面倒見きれてないのに、何故か困ってる人を見ると放っておけないという、本当にどうしようもない性分。

 

「メルシー、本当にありがとねぇ。中国人ってのは親切なんだねぇ、見直したわよお」

「マダム、俺は中国人じゃなくて、日本人……」

 

 自分の背中におぶさっている白人の小柄なおばあさんに、俺はなるべくゆっくりとしたフランス語で答えた。

 おばあさんが俺を中国人と勘違いするのは仕方がないことだ。

 俺の住むこの区画――ベルヴィルは、パリの中でもちょっと異色の街だ。

 中国語の看板が立ち並び、中国人向けの巨大スーパーもある。

 もちろんフランス人も住んでるけど、中国人、ベトナム人、アラブ人が集う、移民の町だ。

 で、そんな街に一人暮らしの俺が見ず知らずのおばあさんを背負う事になってしまったきっかけは、今から遡ること数十分前。

 パート勤務先に出勤する為、メトロの最寄駅の入り口に入ろうとして、俺はたまたま見てしまった。

 赤信号をガン無視して、車がビュンビュン行き交う大通りをゆっくりと渡り始めた、おばあさんを……。

 気がつけば俺は全速力で飛び出していて、彼女のボロボロの赤いショールをはっしと掴んでいた。

 白髪のもつれた髪をしたおばあさんは最初は俺を泥棒かなにかと勘違いしたらしい。目を丸くし、杖を振って怒りだした。

 そしてあまりに暴れたものだから腰をやられてしまったらしく、急にうずくまってしまい――。

 その後なだめすかして俺が泥棒でないことを説明し、何とか背中におぶさって貰って今に至る。

「日本? 日本って中国のどこだい」

「あはは……東の方だよ」

「へえ、なるほどね。ところであんた、中学校(コレージュ)は今日は休みなのかい」

「俺は大学生だよ、21なんだ」

「――オーラ・ラ……」

 フランス人馴染みの感嘆詞を口にして、おばあさんは絶句してしまった。

 この国ではアジア人はやたら若く見られるもので、今まで21年間生きてて何回、この類のやり取りをしたか分からない。

 中国人だと思われるのもしょっちゅうというか、むしろそれが普通だ。

 一応国籍上は、この国……フランスも俺の故郷なんだけど。

 既に諦めも入りつつ、俺はおばあさんをおぶったまま、彼女の住むアパルトマンの前まで来た。

 壁の漆喰がボロボロに剥がれ、更に上からスプレー缶で落書きされまくっている、三階建ての低層の建物だ。

 部屋番号を聞き出し、家の人をインターホンで呼んでから、彼女の体を地面に下ろす。

「ここで大丈夫?」

「あぁ、大丈夫さ。あんたは本当にいい子だねぼうや。……この先素晴らしい幸運がありますように」

「ありがとう。車には本当に気を付けてね。寒いから暖かくして」

 白い息を吐きながらおばあさんに笑顔で手を振った。

 街はすっかりオレンジ色の夕日に染まっている。

 彼女を背負いやすいようにお腹側にしていた蛍光緑のリュックを背負い直しながら、俺は腕時計の盤面を見た。

 午後四時半……。

「ちっ、遅刻……っ! 仕事に遅刻する!!」

 まっ、まずい〜〜っ!

 俺、ただでさえ店長から目を付けられているのに……!

 スリとか、泥棒の他は滅多に走る人なんて居ない、悠然としたパリの下町――その通りを、俺は相当に悪目立ちしつつ、全速力で駆け抜けていった。

 

 

 

 30分遅刻でようやく目的の職場にたどりついた俺は、バックヤードでメチャクチャに店長から怒鳴られた。

「お前、舐めとんのか!! 仕事なんだと思ってる!?」

「スミマセン、次からは気をつけます……っ」

 俺の職場はラーメン屋だ。

 パリには日本人の経営する日本食料理店が結構あって、中でもラーメン屋はリーズナブルなせいか、結構繁盛している。

 俺の働く店「風楽」はパリ・オペラ座の大きな通りから一本入った裏道で開店して、今年で丸30年。

 五十過ぎの店長は、剃りあげた頭にバンダナを巻き、「風になれ」っていう日本語の入った店員全員お揃いのTシャツ姿だ。

「これだから現地育ちの日本人なんぞ雇うのは嫌だったんだ。人畜無害な日本人の顔して、中身はフランスかぶれしやがって」

 冷たく言い放たれて、俺は自分より背の低い店長に深々と頭を下げた――なるべく、日本人らしく。

「本当にすみません、次は気をつけます」

「さっさと着替えろ。お前、今日は閉店まで洗い場やれ」

「はいっ!」

 大きな声で返事をしながら靴を脱ぎ、逃げるように着替えスペースのカーテンの奥に飛び込んだ。

 散々なこと言われてるけど、店長は見た目ほど悪い人じゃない。

 アジア人で、しかも大学の授業の合間にしか働けない学生の俺を雇ってくれる所なんて、本当にこの店くらいで……感謝しなくちゃいけないと思ってる。

 まかない付きだし、時々賞味期限切れの冷凍餃子がタダで手に入るし、家計的な意味でも今、クビになる訳にはいかないんだ。

 それに、みんなお揃いの黒いTシャツを着てラーメンを運んでいると、俺も母さんの国、日本の一員になれたようで嬉しい。

 普段、自分がどこの国の人なんだか分からなくなるような感じだから……。

 着替えた後、洗い場で汚れた皿の残滓の処理をしながら、俺は今日の出来事を思い出していた。

 あのおばあさん、最後まで俺のこと中国人だと思っていたなぁ。

 仕方のないことだけど。

『この先素晴らしい幸運がありますように』……。

 そんな風に言ってくれて、本当に幸運があるといいな。

 ……俺、今週に入ってからおかしいほど運が悪いんだ。

 メトロの駅で物乞いの女性に突き飛ばされて、ホームから落ちそうになったり、頭の上から観葉植物の鉢植えが降ってきたり、どれも間一髪の危うい所で助かったけど――死んでてもおかしくなかった。

 まるで、誰かに命でも狙われてるのか? ってくらい。

 それで昨日久々に、死んだ母さんの最期の言葉をおもいだしたりして……。

 ――今から五年前、たった一人の家族だった母さんは、すい臓がんでこの世を去ったんだ。

 もともと持病があってあまり身体が強くなくて、気がついた時には手術も出来ない状態だった。

 息をひきとる時、泣きじゃくる俺に、母さんは必死な顔で言ったっけ。

 

『私が死んでも、一人で強く生きてね。出来れば、18歳になったらフランスを出なさい』

 

 そう言われて、何故なの、と訊いた俺に、母さんは言った。

 

『本当はね、あなたのお父さんは、あなたが生まれてすぐに殺されたのよ……。あの国の人たちは、あなたが大人になったことを知ったら、あなたまで殺しに来るかもしれない……だから、お願い』

 

 今思うと、母さんは錯乱してたのかもしれない。

 だって、会ったこともない父さんが、実は誰かに殺されてただなんて。

 しかも、俺まで殺されるとか。

 それまで彼女は一度も父さんの死んだ時の事を喋らなかったのに、余りにも話が唐突すぎて、とても信じられなかった。

 だけど母さんが余りにも必死だったから、その時は、大人になったらフランスを出るよって約束したけど……。

 その後、一人きりになった俺は結局この国の手厚い教育政策に頼るしかなくて、21になる今もフランスに住んだままだ。

 幸い、誰かに殺されそうになった事もない……と、思う。

 父さんの事は、気にならないと言ったら嘘になるけど、名前も分からないんじゃ探りようがない。

 俺が父さんについて知っていることといえば、日本からフランスに留学してきた母さんが、この国で同じく留学生だった父さんと出会い、俺が生まれた、という事だけ。

 どこの何人かってことすら、最後まで母の口からは出たことがなくて。

 だから母さんのあの言葉は、今でも謎だ。

 今になってみると、あれは死ぬ間際の妄想とか、そういうものだったのかもしれないと思っている。

 だって、俺は単なる平凡なアジア人の大学生で、殺される理由なんかサッパリ思いつかないし……。

「おい、ボンヤリしてんじゃねえ! どんぶりよこせ、どんぶり!」

「あっ……はい!」

 調理場でラーメンを茹でていた店長にどやされ、俺は慌てて手を洗い、業務用食洗機のレバーに飛びついた。

 レバーを上げて洗いあがった沢山のどんぶりをカゴから出して運び、また洗い場に戻り、僅かな間に山積みになっている食器を掴み取る。

 素早く生ゴミを捨て、汁を排水溝に流し、器は漬け洗いしては食洗機のカゴへ――と、絶え間なく積み上がる器との格闘を繰り返していると、店内の熱気もあいまって汗が大量に吹き出し始めた。

「おい、メンマ出せ、遅ぇぞ!」

「ナルトの仕込みしたか!?」

「はいっ、今やります!」

 先輩たちに次々と怒鳴られながら、お客さんのいなくなる真夜中の閉店まで、狭い厨房を走り回る。

 ――最後にひどい臭いのする油水分離槽の掃除をして、退勤する頃にはもう、他の店員は誰も残っていなかった。

 

 

 

 職場のオペラ座付近から、俺の住むベルヴィル地区までは、地下鉄で15分。

 と、言うととても近いような感じがするけど、10駅以上は離れているし、雰囲気は天と地のように違う。

 ライトアップされたオペラ・ガルニエと、広場を囲み誇らしげに建つナポレオン3世時代の白亜の街並み、その一階の店が閉じた後も灯っている、キラキラして覗くのも憚られるようなショーウィンドウの明かり。

 暗闇に幻想的に浮かび上がる街は何もかもが夢のようで、幸せな幻を見ている気分になると同時に、堪らなく胸が痛くなる。

 ――うーん、そうだな、言い表すとマッチ売りの少女みたいな気持ちかもしれない。

 この街は綺麗な夢を沢山並べて売ってはいるけど、それは、観光客の人たちと、お金持ちの人、それに、暖かい家と家族のある幸せな人達の為のもので……俺には触ることの出来ないものなんだ。

 生暖かい風が吹き上げている地下鉄の入り口へ降りて行くと、嗅ぎ慣れたアンモニア臭が漂ってくる。

 汚れた床に横たわる、ボロボロの毛並みの犬と、物乞いの看板を出した浮浪者。

 パリは若くて、格好もまともな感じの浮浪者が沢山いる。

 みんな職が無いんだ。

 移民はどんどん増えているのに、社会の受け皿はなくて……。

 俺は一応国籍は持っているけど、彼らとの差なんて、紙一重だと思う。

 世の中はもうすぐクリスマスなのに。

 ちなみに俺は今年も多分、一人きりだ。

 ひと気が少なくて、強盗に襲われたりしないかとドキドキしながら終電間際の地下鉄に乗った。

 数駅で一本乗り換え、あっという間に地元駅に帰り着く。

 実は、パリのメトロって一駅の区間がすごく短いんだ。

 1分とか、2分とかね。何故なら、パリという町自体が小さいのに駅が凄く沢山あるから。

 日本人がよく言うには、東京のほんの一部、「セタガヤク」と同じくらいの広さなんだそうだ。

 そんなに狭い土地の中で、キラキラした部分と、そうでない部分がある不思議な町、それが、俺の住むパリ。

 ――メトロから地上への扉を開けた途端、凍るほど冷えた空気に包まれて、俺は両手をダッフルコートのポケットに突っ込んだ。

 通りに出ると、中国人の若い女の子がコートを着て夜道をフラフラと歩いているのとすれ違う。

 本当は中華料理屋のウェイトレスになるつもりでこの国に来たような女の子達だ。

 でも、職がなくて仕方なく、路上で身体を売っている。

 心が痛むけど、俺は何もしてあげられない。

(早く、家に帰ろう……)

 そんな風に思った、その瞬間――。

 突然、視界の中の夜の街が眩しいオレンジ色の光に包まれた。

 打ち上げ花火を百発同時に爆発させたような明るさに身動き出来ないほど驚くと同時に、この世のものとは思えない轟音が響き、地面がグラッと大きく揺れる。

 直感的にヤバいやつだと悟り、コートのフードを掴んで被り、目を閉じて地面に伏せた。

「――!!」

 バリバリと窓ガラスが割れて落ち、石畳に散乱する音が聞こえる。

 しばらくして衝撃と閃光が落ち着いた後、俺はよろけながら立ち上がり、呆然と自分のいた広い通りを見回した。

 みんな驚いて起きたのか、窓やバルコニーから沢山の顔が外を覗いている。

 叫びながら寝間着姿でアパルトマンのエントランスから走り出てきた女の人もいた。

 夜の寂しい通りは急に騒然となり、やがて消防車のサイレンが遠くから聞こえ始めた。

「爆弾テロか!?」

「いや、ガス管爆発じゃないか!? 今日ガス漏れで消防士が来てたんだ……ベルヴィル公園の奥だ」

 周囲の人達が口々に喋っているのを耳にして、俺はハッと息を呑んだ。

 爆発があったの、俺の住んでる家がある近くじゃないだろうか……!?

 だとしたら……っ。

 瞬間的に駆け出して、俺は人ごみの中に飛び込むようにして街のさらに狭い路地へと入り込んだ。

「とっ、通してくださいっ、パルドン(すみません)!」

 叫んだ瞬間、また大きな衝撃が走り、凄い悲鳴が上がった。

「うわぁっ!」

 さまざまな人種と肌の色の人たちが、みな建物を出て、散り散りに背後に逃げて行く。

「助けて!」

「逃げろ、早く! また爆発するぞ!」

 それでも俺は、流れに逆らって前に進まざるを得なかった。

 だって、あの俺の部屋には、母さんの写真や、生前に残した形見が置いてある。

 全部燃えたりしてしまっていたら、母さんの思い出がなにもかも無くなってしまう。

 父親も兄弟も、親戚だって一人もいない、たった一人の俺の、肉親の証拠。

 焦りに駆り立てられて、まるで操られているように足が前へ向かった。

 通りを歩いているのが俺だけになり、次第に周囲の惨状が目につくようになる。

 火柱と暗い空を埋め尽くす黒煙が上がっているのは、俺の住んでいるアパルトマンの斜め向かいの建物だった。

 崩落した瓦礫が一階の壁周りにうず高く積み上がり、オレンジ色の背の高い炎が地獄絵さながらに燃え盛っている。

 その前には完全に横転した車が炎上していて、ガスとオイルの酷い臭いが鼻についた。

 かろうじて俺の家の方は無事のように見えたけれど、ガラス窓がぜんぶ割れ尽くしている。

「よかっ、……俺んちっ、燃えてない……っ」

 ガクガクする膝を地面に突いた俺を、後ろから誰かが突き飛ばして押しのけた。

「邪魔だ! どいて! なんで避難していない!?」

 紺と蛍光イエローの制服を着て、酸素ボンベと銀の耐火ヘルメットを着けた屈強な男達が俺の前に立ちはだかる。

 消防士(ポンピエ)だと気付いて、慌ててその場を離れた。

 でも、言われるがまま避難することはやっぱり出来ず、彼らの背後でコッソリと自分のアパルトマンの入り口へ向かった。

 いつもならテンキーで開ける、地上階(レドショッセ)の背の高い扉は、爆風で吹き飛んで外れている。

 エレベーターは元々ない。

 中に入ると、ウチの建物に繋がる送電線は無事だったのか、共用部のオレンジ色の電灯が暗いながらも灯っているのが有難かった。

 狭い螺旋階段を上がり、借りている屋根裏部屋に向かう。

 途中で、上から来た顔見知りのフランス人のおじさんとすれ違った。

「ボンソワール、マコト! とっくに逃げたかと思ったのにどこに行く!?」

 でかいリュックを背負ったおじさんに早口で引き止められ、笑顔で誤魔化す。

「今晩はフランソワさん……、ちょっと荷物を取りに行くだけです、大丈夫」

「通りの向こう側の古いガス管からガスが漏れてて、それが爆発したんだって話だぞ。こっちの建物も、下の階ほどボロボロで、酷い有様だ。君の家は今はまだマシかもしれないが、また爆発があるかもしれないから早く逃げた方がいいぞ」

「はい、俺もすぐに逃げますんで……っ」

 そう言うと、フランソワさんは安心したようにまた階段を下り始めた。

 その薄くなりかけた後ろ頭を見送り、急いで階段を二段飛ばしで登る。

 ようやく部屋にたどり着き、黄土色のペンキのハゲたボロボロの扉の鍵穴に鍵を差し込んだ。

 ガチャっと音がしてロックが解かれ、ドアをグっと奥に押したけれど、木枠が歪んでしまっているのか、どうしても開かない。

 でも、諦めるわけにはいかないんだ、ここに母さんの形見が……!

 意を決した俺は、少しドアから距離を取り、肩を前に向け、全力でドアに身体をぶつけた。

 木製の薄いドアとはいえ、骨に走る衝撃と痛みは半端ない。

 それでも諦めず、何度か繰り返すうちに、唐突にドアがバタンと向こう側に開いた。

「あ……っ!」

 そのまま身体ごと持ってかれる形でバリバリと蝶番からドアが外れ、部屋の中に古い木のドアが横倒しになる。

「あちゃぁ……」

 やり過ぎたかも。

 大家さんには、ガス爆発でやられたことにしておこう……。

 気を取り直して立ち上がり、ドアを越えて、自分の狭いワンルームの屋根裏部屋に足を踏み出した。

 たった一つしかない小さな観音開きの窓は、しっかりよろい戸を閉めていたのにガラスが中に割れ落ちている。

 狭い空間にぎゅうぎゅうに家具を配置してたせいで、手前左の、キッチンとの間仕切り代わりにしていた本棚が、向かいのベッドに向かって斜めに倒れていた。正面の窓際に置いていた小さな勉強机は無事だけど、ガラスまみれだ。

 母さんの写真は机の上の写真立てに入れて置いてあったはずだけど、見当たらない。

 衝撃で床に落ちたのか……?

 奥に行きたいけど、倒れてる本棚が邪魔で無理だ。

 仕方なく、ベッドに引っかかっている本棚を持ち上げようと手を伸ばした時、低いうなり声が足元で上がった。

「……うぅ……」

「!?」

 死ぬほど驚いて、心臓が飛び出しそうになる。

 膝を突いて恐る恐る本棚の下を覗き込んで、俺は驚愕した。

 床に落ちた本が血みどろになっていて、しかもその下から誰かの脚が二本出ている。

「っ、だっ、だれ……!?」

 俺一人で住んでる部屋の筈なのに、誰かが本棚の下敷きになってる……!!

 もしかして、泥棒!?

 ……いやいや、俺はメチャクチャに貧乏だし、それはない。

 家、間違えちゃった人かな!?

 慎重にもう一度本棚の下を覗き込む。

 謎の侵入者は、本棚から落ちた重い参考書や辞書の下敷きになっているようだ。

 出血も酷い。このままじゃ死んじゃうかも……!?

「だっ、大丈夫ですか!?」

 事の重大さにおののき、俺は焦って本棚を掴んだ。

 渾身の力で持ち上げながら、知人からの貰い物の重厚な本棚は、中身が入ってなくても物凄く重くて、ここに運ぶ時も二人掛かりだったことを思い出した。

 これが倒れてきたのならかなりの重症だ。

 地震とか無い土地柄だから、大丈夫だと思ってた。

 今日、洗い場当番にされてなくてもっと早く帰ってたら、こうなってたのは俺だったかも……。

 ゾーッとしながらも、どうにか一人で本棚を元の位置に戻し、辞書や教科書を掴んで本棚の仕切り板の上に積んでいく。

 やがて、床に仰向けに倒れている人の姿がやっと見えるようになり、俺は愕然とした。

「誰だ、この人……」

 それは、見たこともない、長身でがっしりした体型の若い男の人だった。

 服は全身黒ずくめで、血で濡れたような感じになっている。

 黒のトレンチコートに、同じく真っ黒なハイネックのニットとパンツ。

 髪は、血に染まってはいるけど、殆ど白に近い、肩下くらいまでの長い金髪で、乱れて床に散っている。

 前髪が顔を隠していて顔立ちがよく分からないけど、肌の色は抜けるように白い。

 体型とか髪色の感じからして、ラテン系の多いフランス人とはちょっと違う感じがするけど、一体どういう人なんだろう。

 恐々と指を伸ばして、その人の腰のあたりに落ちている本を取った時、ごりっと硬い感触がした。

「……?」

 トレンチコートの裾を指先ではだけて中を覗く。

 ――黒々とした銃がパンツのウエストに無造作に突っ込まれているのが視界に入り、俺は心底驚いた。

「ひっ!」

 布をバッと戻して飛びのく。

 フランスは銃は一応持てる国ではあるけど、規制がちゃんとあるし、強盗だってそうそう拳銃なんか持ってない。

 もしかしたら警察関係の人……? と一瞬思ったけど、それならちゃんとしたホルスターを身につけてる筈だ。

 一瞬にして、俺の頭の中に母さんの今際の際の言葉が思い出された。

 ――『あなたが大人になったことを知ったら、あなたまで殺しに来るかもしれない……』

「こ、この人っ、まさか俺を殺しに来た……!?」

 目の前の光景と母さんの最期の言葉がカッチリと噛み合って、膝がガクガクと震えだした。

 だって、こんな貧乏人の住む屋根裏部屋に銃を持った男が入ってくる理由なんて、どう考えても無い。

 俺自身を待ち伏せていてこうなったとしか思えない……。

 あの時の母さんの言う通りにフランスは出れなかったけど、一応目立たないように、それまで住んでた郊外のサンカンタンから、このアジア人の多いベルヴィルに引っ越してきたのに。

 混乱する俺の目の前で、男がもう一度呻きを上げ、ピクピクと指先を動かした。

「ひっ……!」

 逃げなくちゃ!

 俺は男の足元の方に落ちていた写真立てを掴み、引き出しから母さんの形見の、指輪とエアメールの束を出してパーカーのお腹のポケットに入れた。

 背負ったままだったリュックを下ろし、ベッドの脇の小さなクローゼットを開け、わずかな衣服を突っ込む。

 ジッパーを閉めている時、また後ろの人がうめき声を上げて、俺はハッと背後を振り向いた。

 この人、このままここに置いてったらどうなるんだろう……。

 このアパルトマンはすっかり誰もいなくなってるから、多分このままじゃ誰も助けに来ない。出血が酷いから、放置してたらもしかして死んじゃうかも……。

 やっぱり、ちゃんと病院に連れてってあげたほうがいいのかな。

(いやいや、俺何考えてんだ! この人は俺を殺しに来た男かも知れないんだぞ……)

 でも、もしかしたらそうじゃないかもしれない。

 逆に俺を助けに来てくれた正義の味方とかだったりして。DGSE(対外治安総局)とか、アメリカのCIA(中央情報局)みたいな……

 って、そんな夢みたいなことは無いだろうけど……。

 俺は身体の震えを堪えながら、ゆっくりと倒れている男の人に近付いた。

 そっと額を撫で上げて、目を隠している髪をめくる。

 その顔立ちは、ハイブランドの広告に出てくるモデルさんみたいに整っていて、小さくて先の上向いた鼻の形が特に完璧だ。

 歳は、俺より一回りくらい上だろうか。

 血はたくさんでてるけど、髪の中にある傷は小さそうだ。

 外傷よりも、中身の方を強く打って気絶したのかもしれない。

 そうだ、とりあえず救急搬送で連れてってもらうのはどうだろう。この人は助かるし、俺も逃げられる、一石二鳥だ。

「ええと、救急サービスは、15……

 ジーンズの尻ポケットから旧型の携帯電話を出して、電話した。

 けど、みんなが一斉に回線を使ってしまっているのか、全然通じない。

「どうしよう……」

 絶望的な心境で電話を切る。

 本当は背負って逃げた方がいいんだろうけど、エレベーターもないこの建物で、頭を打ってるこの人をそんなに動かしていいんだろうか……!?

 うっかり落としてしまったら。

 やっぱり、ここに置いていくべき?

 かと言ってここで死なれてしまったら、絶対後悔する。

 ダメだ、結論が出ない。

 とにかくまずはベッドの上に寝かせよう、うん……!

 重い男の体の、分厚い背中を抱き起こそうとして、ゴトッと音を立てて何かが落ちる。

「ん……?」

 見れば、銃がウエストから外れて床に転がり落ちていた。

「うわぁー!」

 俺は無我夢中で銃を掴んで拾った。

 グリップの硬くザラザラした感触と、金属の冷たさ、それにずっしりした重みに頭が一瞬真っ白になる。

 これ、人が殺せちゃう道具なんだよな……っ。

 怪我人の腰に戻すのはどうかと思うし、かと言って俺がこんなもの持ってても暴発しそうで危ない……!

 そうだ、どっかに隠したらいいんじゃないかな!?

 思いつきのまま、俺は両手でベッドのシーツを剥がして、マットレスを掴んで引き上げた。

 粗大ゴミだったのを拾ってきたボロボロのマットレスは、裏に大きな穴が空いている。

 そこに拳銃を押し込み、ベッドを元に戻した。

「ふーっ、これでよしっと……さて、今度はこの人を……」

 額に浮かんだ汗を拭き、なるべく衝撃を与えないよう、そっと男の人の上半身を持ち上げた。

 くぅっ、重い……!

 綺麗な顔なのにゴリラみたいに凄くがっしりしていて、筋肉がビッシリついてる体だ。昼間おぶったおばあさんの倍以上ある!

「ふんぬぅ……っ!」

 それでも火事場の馬鹿力で、何とか床から男の人をベッドに移した。

 ハアハア息切れしながら、机の引き出しを開け、救急箱を取り出す。

 昔赤十字の応急救護講習を受けた時のことを必死に思い出した。

 あんまり思い出せないけどやるしかない。

「ええと、確か頭を打った時は、頭を高くして、冷やす……嘔吐しても大丈夫なように体位は横向きに……っ、それから血が出ていたら止血……?」

 枕を頭の下に入れ、横を向かせ、濡れたタオルでなるべく刺激しないよう血を拭った。

 それでも血の滲み出てくる傷口を押さえるように、頭のハチにきつく包帯を巻いてゆく。

「ああ、どうかまた爆発が起きませんように……っ」

 知らない男と心中なんてことになったら、流石に浮かばれない。

 ――神様に祈るような気持ちで、俺はその一晩、謎の男の看護に没頭した。

 

 

 

 血が止まった後も手当を頑張った甲斐があってか、男の人の寝息は少しずつ安らかになった。

 そして、俺は知らないうちに、ベッドの端っこに突っ伏すように座り込んで眠っていたらしい。

 気付いたら、鎧戸の隙間から夜明けの眩しい朝日が差し込んでいた。

 と言っても、フランスの12月の日の出はとことん遅いので、せいぜい朝の8時半てとこだ。

 仕事の疲れもあいまって、うっかり眠ってしまったんだな。

 そうだ、そういえば男の人は……!

 もしベッドで冷たくなっていたら……と不安になって、俺はそっと枕元の方に膝でにじり寄った。

 彫りの深い瞼が閉じていて、血で汚れた上半身の服を取り去った裸の胸が、穏やかな呼吸で上下している。

 ふーっと安堵のため息が漏れ、色素の薄い金髪を掻き上げるように額に触れた。

 うん、熱もない。

 今の所は傷が膿んだりもしてないみたいだ。

 布団を掛けなおし、改めて首をひねった。

 ――この男は、本当に俺を殺しに来たんだろうか。

 そうだとしたら、誰の命令で?

 それが父さんを殺した人と同じなら、もしかしたらこの人も父さんのことを知っているのかもしれない。

 若そうだから、まさか俺の父さんを殺した本人ではないだろうけど……。

 もし少しでも何か知っているなら、怖いけれど、訊いてみたい――俺の父親はどこのどんな人だったのか……。

 そもそも、眼を覚ますかも分からないけれど。

 男は一晩経った今も意識を取り戻す気配がなかった。

 もしずっとこのままだったらどうしたら良いんだろう。

 警察に通報すれば連れて行って貰えるだろうか。

 でも、何て言えばいい?

 この人、多分俺を殺しに来た人だと思うんです、って?

 銃を持った謎の人が倒れてます、と事実だけを言った方がいいだろうか。

 何しろ名前も顔も全く知らない人だからな。

 考え込んでいて、ふと気付いた。

 そうだ……この人、銃だけじゃなく身分証とか、何か身元のヒントになるものを持っているんじゃないだろうか?

 俺は慌てて、椅子に掛けていた男の黒いトレンチのポケットを探った。

 四角くて厚みのある硬いものと、革製品の感触がして、両方取り出す。

 一つはスマートホンで、画面にヒビが入り、壊れているのか電池が切れているのか真っ暗だ。

 革の方は分厚いカード入れだった。

 開くと蛇腹状になっていて、中には青い銀行カードと身分証、それに運転免許証が入っている。

 「レピュブリック・フランセーズ」の文字の入った政府発行の正式な身分証と免許証に書いてある名は、ミッシェル・マルタン。198×111日生まれ。

 ……至って普通のフランス人の名前だ。見た目は北欧やドイツ系の人っぽいけど、移民だろうか。

 住まいはパリ市内13区とあるけど、この国の身分証に書いてある住所はアテにならない。

 それにしても、銃以外の持物が普通のフランス人過ぎて拍子抜けした。トレンチコートは上等で身なりもいいし、ボロボロの着古したパーカーとチノパン姿で有色人種の俺の方が、よほど犯罪者に見えるかもしれない。

 こんな人を警察に通報して、果たして信じてくれるのか自信がなくなってきたなぁ……。銃には俺の指紋が付いちゃっただろうし、逆に俺が逮捕されるかも。

 ――悩みが深まっていた、まさにその時だった。

「エィ」

 静かな部屋に、低い男の声が響く。

 それが自分に掛けられた呼び声だと気付き、心臓が跳ね上がった。

「!?」

 びっくりし過ぎてカード入れを逆さにしてしまい、中のカードがばらばらと床に散る。

「あっ……」

 しまった、とパニックになりながら顔を上げると、例の男が目を覚まし、ベッドを起き上がる所だった。

 肉体美を誇示するような分厚い胸板の上半身が粗末な毛布を這い出て、声もなく俺が固まっていると、男の深いラピスラズリ色の瞳と目が合う。

 額の包帯の痛々しい、女の人みたいな綺麗な顔立ちに、肩に垂れる、血で汚れたホワイトブロンドの髪、広い肩幅と、脱がせた時にもびっくりした、普通にしててもバキバキの腹筋。

 一瞬まじまじと見つめあってしまった次の瞬間、ハッと我に返り、俺はズサーッと本棚に背中がつくまで後ずさった。

「ごご、ごめんなさい!! 殺さないでくださいっ、命だけは……っ!!」

「Кто ты?

 錯乱している俺を訝しげに見ながら、男が謎の言語を口にする。

「すみません、俺、あなたが何語で何を言ってるのか分からなくて……っ、あの、英語かフランス語は分かりますか!?」

 通じているかも分からないフランス語で尋ねると、青年は、思い出すようにしばらく頭をひねった後、辿々しい口調で話し始めた。

「お前、誰? ここが、どこか、分かるか?」

 思い出しながら喋ってるみたいにゆっくりだけど、確かにフランス語だ。

 良かった、言葉が通じる……。

 ホッとしたと同時に、男の言葉を奇妙に感じた。

 ここがどこか、俺が誰かも分からないって……俺を殺すために待ち伏せていたのなら、そんなこと普通あるか?

「あのう……? 貴方がわざわざ入ってきたんですよね、この、俺の部屋に」

 危険人物だということも忘れ、思わず突っ込む。

 すると相手は酷く落ち込んだような表情で俯いてしまった。

「覚えてない……」

「ええ……っ」

 どういうことなんだろう。

 まさか頭を酷く打って、脳がおかしくなってしまったんだろうか。

「あの、本当に何も覚えてないんですか……?」

 銃を持って、俺の部屋に入ってきたのに――。

 固唾を呑んで相手の反応を待っていると、男は大きな手で額を押さえたまま、ゆっくりと自分のことを語り出した。

「……名前は覚えてる。俺は、ミハイル・アンドーレエヴィチ・シロフ」

 うーん、早速身分証と食い違ってますね!?

 もしかしたら生年月日も全然違うのかもと思い、聞いた。

「あの、お歳は……?」

「歳は、12だけど」

「じゅう……に?」

 思わず、上から下まで彼の姿を眺めてしまった。

 顎には金色の無精髭が生えてるし、身体は筋肉隆々だし、胸には結構な胸毛。うん、どう見ても成人してる。

「いや、嘘ですよね……?」

 恐々否定すると、憮然とした顔をされた。

「嘘ついてどうすんだよ。お前、中国人?」

「いや、俺は日本人で……」

 答えながら俺は混乱していた。

 まるでこの人、あれみたいだ。

 昔テレビの再現ドラマでやっていた、頭を打って記憶を失い、子供に戻っちゃった……的なやつ。

 いやでも、そんな映画みたいなこと現実にあるか……?

 まさかそういう作戦で俺を殺そうとしてる!?

 俺は膝でにじり寄るようにベッドに近づき、慎重に彼に話しかけた。

「あの、シロフさん。その、どこからどうやって俺の家に来ましたか……?」

「……? ……気がついたら、ここに居ただけだ。俺はさっきまで、チェルタノヴォに居たはず、だから」

 チェルタノヴォ……?

 テレビでそういう名前のサッカーチームを見たことがある。

 確かあれはモスクワのチームだ。

 名前もロシア人で、住所もロシアということか……特におかしいことはないな。

 って、おかしいよ! それなら何でフランス人の身分証持ってるんだ。

 俺を殺しに来たのがフランス人の身分証を持つ自称ロシア人だなんて、複雑すぎて頭が混乱する。

「おい、お前。さっきから俺に質問するばかりで、俺の質問に答えてない。ここは、どこなんだ。住所は」

 男が、横柄な、でもどこか子供っぽい口調で俺を急かした。

 そういえば失礼なことをしてしまったなと、慌てて答える。

「ベルヴィルです。パリの」

 驚いたように青年が深い紺青の瞳を見開いた。

「モスクワじゃ、ないのか……?」

 その表情はどこかあどけなくて、嘘をついてるとか、演技をしているようには見えない。

「いや、パリです……フランスの首都の、パリ」

「パリ⁉︎ ここが⁉︎

 俺は頷いた。

「外、見ますか?」

 手を伸ばし、鎧戸と枠だけになった窓を大きく開け放つ。

 彼は冷たい風の吹き込む窓際に行き、両手で桟を掴んだままブルブルと震え出した。

 次に視線を落とし、自分の両手の平を天井に向けてまじまじとそれを見つめる。

「……Боже, мой……

 なにかを呆然と呟いてから、深い青い瞳が俺をすがるように見た。

「何だ、これ……手が、俺の手じゃない……ごついし、ガサガサして、誰か違う人間の、身体みたいだ」

 その表情と辿々しい口調が本当に気の毒すぎて、俺は思わず彼のそばに寄った。

「シロフさん……」

「今は、何年だ」

 息を呑みつつ答える。

201×年の12月です」

「……そんな……時間がぶっ飛んでる……今は199×年で、俺はチェルタノヴォに居たはずなのに――

 あまりにもショックを受けている相手の様子を見て、俺も確信した。

 嘘とか演技じゃなく、この人、本当に子供に戻ってしまっているんだ――と。

 恐る恐る彼の整った横顔を覗き込んだ。

「あの、外に凄くボロボロの建物が見えますか? あそこでガス管の爆発事故が起きて、その時、この部屋にいて、頭に酷い怪我をしてしまったんです。その、見ての通り、爆発の衝撃で地面が揺れて、本棚が倒れて、頭に……」

 未だに荒れ放題の部屋を指し示す。

「それであなたは多分、数年分の記憶を失ったんじゃないかな。今だけかもしれないけど……」

「きおく、失う……?」

「うん……。だって、あなたどう見たって俺より年上だから……。待ってて」

 立ち上がり、机の引き出しからかなり旧型のデジタルカメラを取り出した。

 未だスマホにしていないので、写真を撮りたい時に重宝している大昔の貰い物だ。

 俺はそのカメラの電源を入れ、シロフさんに向けた。

「はい、アン、ドゥ、トロワ」

 戸惑ったように肩を竦めた彼を写真に収め、裏面の画面にその映像を映し出し、ベッドの上の彼に渡す。

「見て」

 もつれた金髪をかき回しながら、青年が写真に見入った。

「……これ、俺だ……随分老けてオッサンになってる……ひどい……信じられない」

 綺麗な顔してるし、お、オッサンではないと思うけどなぁ!?

 いや、12歳からしたら俺だってオッサンか……

 緊張に身を強張らせながら、俺は彼に提案した。

「その……警察と、それから病院に行った方が良いと思います。そうしたら治るかもしれないし、案内くらいなら出来るので……」

 ところが、形のいい彼の唇から出たのは、「ノン」の一言だった。

「警察に、病院!? どっちもまっぴらだ……! 怪我なんて平気だし、そんなとこに行かされるくらいなら、出てく。俺は外でだって寝られるし、平気だ。大人の保護なんか必要ない」

 驚くとともに、本当に気の毒になってしまった。

 12歳のセリフとは思えないけど、この人、よっぽど辛い過去を持ってる人なんじゃないだろうか。

 そうだよな、そうじゃなきゃ拳銃をベルトに忍ばせるような職業にはならないよな……。

 無理強いすることは出来ないけど、このままじゃどこかで野垂れ死にしかねない。

「――外は寒いし、凍死しちゃいますから、ここにいてください。警察も病院も行きたくないなら行かなくていいけど、怪我は治しましょう? 暫くここに居て、いいですから」

 相手の態度が子供っぽいのもあり、つい、俺のお節介の虫が働いた。

 神秘的な色の瞳が、驚いたように俺の顔をじっと見下ろす。

「お前、俺とセックスしたいのか?」

 一瞬何を言われたのかわからず、きょとん、として暫く考えてしまった。

 セッ……?

「? 泊まらせてやる、なんて言う奴は、俺とそう言うことがしたいってことだろ」

 ようやく彼が何を言っているのかが分かり、俺は大きく首を横に振った。

「なっ、何言ってるんですか!? 俺はそんなつもりは全く……っ、ていうか、俺は男だし、あと誰かの家に泊まったって普通はそんなことしないからね!?」

 あっ、つい口調が子供を叱りつけるみたいになってしまった……!

 でも、いいのか。相手が精神年齢12歳だとしたら、俺より年下ってことだし。

 一方、シロフさん――改め、ミハイルはまだ納得していないみたいだった。

「そっか、俺、今オッサンだしな……もうそういう対象じゃないのか」

「いやいや、あなたが見た目も子供だったとしても、そんな見返り求めたりしないよ」

「……?」

 うぅ……なんだかこの人、相当酷い子供時代を送ってた人みたい……勝手に同情心が湧くなぁ……。

 ハラハラする俺の目の前で、ミハイルが静かに鎧戸を閉め、うつむく。

「……早く大人になりたいと思ってたけど、変な感じで夢が叶っちまった気分だ……。アンタがいいなら、居させてもらう。どっちにしろどこにも行くあて、ないから」

 諦めたようにそう言って、ミハイルはフワァと欠伸をした。

「俺、もうしばらくココで寝てていいか? 頭がズキズキ痛いから、もう少し寝たい」

 余りにも事態に動じてない彼に飲まれるように、俺は頷いた。

「どうぞ」

「メルシー……」

 バフっと音を立てて巨体が再び横たわり、やがてすぐに、安らかな寝息が聞こえてきた。

 俺の方はといえば、妙に目が覚めてしまって、心臓もドキドキして、苦しいほどだ。

(どうしよう……この人、俺を殺しにきた人だと思うのに、妙なことになってしまった……)

 流れる金髪がいく筋も落ちる無防備な横顔を眺めながら緊張が抜け、床にしゃがみこんだ。

 散らばったミハイルのカードを拾い集め、元の通りに革のケースに入れ直してゆく。

 ふと、その中の一枚に目が留まった。

 メゾン・ディアーヌの文字が書かれている茶色いプラスチックのカード。

 文字の背景には、ラフスケッチ風に、白線で建物の外観のようなものが描かれている。

 ホテルのカードキーだと気付いて、指が強張った。

 この人、記憶を失う前……このホテルに泊まってたんじゃないかな……?

 どこの部屋かまでは、分からないけれど――。

 

[newpage]

 

 

 ミハイルが眠っている間、俺は部屋の中を出来る限り片付けた。

 蝶番の壊れたドアは流石に部品がなくて直せなかったけど、窓ガラスがなくなった小さな窓には、釘打ちで応急措置の木の板を張った。

 いくら鎧戸を閉めていても、やっぱり暖房の空気が逃げてかなり寒かったので。

 狭い部屋の中がようやく元の状態に近くなったところで、買い物のために外へ出かけた。

 ガス爆発の現場は改めて見ても悲惨な光景で、黒焦げの建物の内部がむき出しになり、まるで市街戦があったかのようだ。

 野次馬やマスコミの車が詰め掛けて混雑している通りを離れ、いつもは使わない遠くのパン屋でバゲット(フランスパン)を2本買う。

 次いで、市場(マルシェ)に寄って野菜やハムを買い、急いで自分のアパルトマンに戻った。

 長い階段を無心に上り、少しビクビクしながら屋根裏部屋の、人がすれ違うのも難しいくらい狭い内廊下を歩く。

 いつもなら両隣の声が筒抜けで、廊下だってうるさいくらいなのに、今日はシンとしていた。

 昨日壊れてしまったドアが立て掛けてあるのを両手でずらして、そうっと部屋の中に入る。

 もしかしたらミハイルがもう目覚めていて、記憶も戻っているかもしれない――と思うと、ビクビクした。

 でもそれは取り越し苦労で、彼は相変わらず俺のベッドで、平和に眠っているだけだった。

「良かった……」

 安堵して、本棚の裏の狭苦しい流し台に板を渡し、二人分のサンドイッチの材料を並べた。

 二人分の食事を用意するなんて本当に久しぶりで、何だか変な感じだ。

 バゲットを縦に半分にして、切り口にしっかりとバターを塗る。片面にレタスに薄く切ったトマトとオリーブ、それに分厚いハムとチーズを乗せて、最後にもう片方のパンを乗せる。

 特に調味料はいらない、チーズとハムの塩気だけで十分においしいから……。

 キッチンでサンドイッチを作り終わり、相手を起こそうと本棚の向こうに戻ると、既にミハイルは起き上がり、ベッドから降りようとしているところだった。

「おはよう!」

 声を掛けると、彼はぶるっと身体を震わせ、俺の方を見た。

「なんだか寒いし、身体がベタつく……」

「ごめん、服は血が付いてたからいま洗濯してて……シャワー浴びてきたらどうかな? 今の時間ならちゃんと湯が出ると思うから……起きられる?」

 手を貸すと、彼はゆっくりと脚を床に下ろした。

「靴がない……」

「あぁ、スリッパを履いて。君の靴はドアの前に置いてあるよ」

 ミハイルが頷き、俺の前に立ち上がる。

 昨日は肉体美の方に目が行っていて気付かなかったけど、物凄く背が高いことに気付いた。

 俺も180あって全然低いほうではないけど、相手は190はありそうだ。

 しかも、腰の位置が高くて脚が長い。

 そういえば、ベッドから手足がはみ出そうだったもんな。

 裸足の足の前にスリッパを出すと、彼は素直に履いてくれた。

「こっちだよ」

 キッチンの隣の防水カーテン付きの狭いシャワーブースに案内する。

 DIYでシャンプーとボディーソープの入る棚を付けた、必要最低限の防水スペースだ。

「ごめんね、狭くて。トイレは共同だから外だよ。服とかバスタオルは外のタオル掛けに置いて。脱いだ服は、ちょっと遠いけどキッチンの向こうの洗濯機に」

 屋根裏部屋なのでちゃんとしたバスルームが無いのが申し訳ないなぁと思いながら、シンクの下からバスタオルを渡した。

「ん」

 ミハイルは素直に頷くと、俺の前でキッチンマット兼バスマットの上に立ち、躊躇なくパンツと下着を脱ぎ始めた。

「わっ、待って待って、本棚の向こうに行くから」

 服を脱ぐスペースすら無いのがこの部屋の辛いところだ。

 慌てて飛び出たけど、バッチリ目に入ってしまった。

 うーん、やっぱり白人男性に比べると俺のって……。

 浮かんでしまった悲しい考えを首を振って消し、俺はクローゼットから着替えを出した。

 水音がし始めた頃合いに、なるべく大きめの服を用意して、もう一度本棚の裏に入る。

「服、外に置いておくよ。傷の所はまだ濡らさないように気を付けて。後で拭いてあげるから……」

 言いながら、俺は冷たい水をかぶってびしょ濡れになっていた。

「わっぷ!」

「あ、悪い……」

 目の前ではなぜか、シャワーカーテンが全開のままミハイルがシャワーを浴びている。

「ちょっ、そんな冷たい水浴びて……凍えちゃうよ!?」

 慌てて彼からシャワーヘッドを奪い取り、横から手を伸ばして赤の表示のあるカランを回した。

「ほら、こうしたら温かくなるよ。湯を出す時はこっちなんだ……ごめんね、初めて使うところなのに俺の説明が雑だった。それと、シャワーを浴びる時は最初にこのカーテンを引いて」

「……分かった」

 頷く彼にじゃあね、とカーテンを閉めようとすると、ミハイルはこちらを向いて、不思議そうに声をかけてきた。

「……。怒らないのか?」

「……え?」

 聞き返すと目が合い、整った吊り気味の眉の下の、夜空色の瞳に意識が吸い込まれる。

「だって、俺が失敗してお前を濡らしたのに」

「怒ったりなんかしないよ」

 強面のハンサムが可愛いことを言っているから、思わず微笑んでしまった。

 あぁ、この人は今本当に、子供なんだ。

 家主の俺が機嫌を損ねて自分を追い出したりしないか、気にしてるんだな。

 ……なんか、やっぱり放っておけない。

 元がどんな人だったとしても……。

 使ったタオルを洗濯機から出して床を拭きながら、俺はそう思った。

 

 

 

 シャワーの後、俺のTシャツとスエットのズボンを穿いたミハイルが本棚の陰から出てきた。

「お前の服、足が短い」

 正直に言われてグサっとコンプレックスに刺さったけど、めげずに手招きする。

「ごめんね、そんなのしかなくて。ベッドに座って、包帯を替えよう」

 相手はスリッパでペタペタと寄ってきて、無言でベッドにドサリと腰掛け、素直に頭を差し出してきた。

 新しいタオルで出来る限り水気を拭き、血で固まっているところは少しだけハサミでカットさせてもらい、立って頭を胸に抱くようにしながら包帯を巻き直してゆく。

 とりあえず経過はいいみたいだけど、本当に病院に連れてってあげなくて良いのか、心が痛い。

「はい、これでおしまい。……髭も剃ろうか?」

 腕の内側に大分髭が当たるのに気付いて訊くと、相手は無言でうなずいた。

「なんでこんなに伸びるのか訳が分からない」

「あはっ、そうだよね」

 おもわず笑ってしまった。

 この間まで子供だったのに、急に毛むくじゃらになると戸惑うよなぁ……。

 金色だからそんなには目立たないけど、タライに水を入れ、安全剃刀とシェービングフォームを持ってきてあげた。

 自分でするときは台所に吊るした鏡の前でするけど、初めてだろうしなぁ。

「顔、少し上げて」

 顎を持ち上げ、少しずつ丁寧に剃っていく。

 全部綺麗に剃り落とすと、ちょっと凄みがあるくらい整った顔立ちになり、ドキッとした。

 宗教画の、綺麗だけど厳しい顔をした天使みたいな……。

「サンドイッチ、作ったけど食べる?」

 台所に道具を片付けながら訊くと、ミハイルは目を輝かせた。

 キッチンに置いたままの、少しパンの硬くなったサンドイッチを油紙に包んで持ってきて、どうぞと渡す。

 ベッドに座ったまま食べるのはお行儀的にはあまり良く無いけど、安静第一の怪我人だからいいよね。

 彼はサンドイッチを一口食べた時にハッとしたような顔をして、恐ろしい速さでバゲット一本分を端から端まで食べ終わってしまった。

 ……凄くお腹が空いていたんだろうか。

「お代わりいる?」

 俺の分を半分切って差し出すと、ミハイルは無表情で頷いて受け取り、大きな口で端っこから咀嚼していく。

 なんだか野生動物を餌付けしてる気分だ。

「これ、お前が作ったの」

 モグモグしながら聞かれて、うんと頷く。

「家、綺麗になってる」

 周りを見回しながら言われて、ふふっと笑顔になった。

「うん、凄い有様だったから」

「本当は、こんな綺麗な家だったんだな」

 言われてぶっと吹き出しそうになった。

 毎日掃除はしてるし、壁のペンキを塗り直したり多少の自助努力はしてるけど、ごく普通の古い屋根裏部屋だけどなぁ。

「あ、ありがとう……でも、普通だよ」

「そうか? 天国みたいだと思うけど」

 うーん、この人の昔住んでいた所って一体どんな……。

「お前、名前は」

 問われて、自己紹介をしてなかった事を思い出した。

「俺はね、岡野誠っていうんだ」

「マコト……」

 トマトの汁で口を汚したまま、ミハイルが怪訝な顔で繰り返す。

 聞いたことのない名前だろうから、不思議だろうなぁ。

「そう、マコトって呼んで。国籍は日本とフランス両方。生まれた時からずっとフランスで暮らしてるからね。母は日本人で、父は会ったことがないから、どんな人だかは分からない。今は休暇中だけど大学生で、生活費のために夜だけラーメン屋で働いてる」

「らーめん……?」

「あは、食べたことないよね。今度作ってあげるよ」

「……」

 ミハイルは深いブルーの瞳を丸くして、首を傾げた。

「マコトは何で俺にそんな親切にする? 俺の知り合いだったのか?」

 微妙なところを突かれて、ウッと喉が詰まった。

 知り合いも何も、本当に昨日俺の部屋で出会ったばかりなんだけど、どう説明すれば良いんだろう。

「あー……全然、そういう感じではない……」

 口ごもった俺を、相手はますます怪しんだ。

「……じゃあ、何で俺はお前の部屋に居たんだ」

「ごめん、それは俺にも分からない……帰ってきたら君がいて、頭怪我してて」

 俺を殺しに来た人かもしれない……なんて、とても言えない。

「ふぅん……。怪しいな。あんた、なんか知ってるんじゃないか」

「えっ、えぇっ!?」

 深い色の瞳でじいっと見られてドキッとした。

「なんてな。……あんた、嘘つけるタイプじゃなさそうだしなぁ……」

 悪戯っぽく言われて、ヒヤヒヤする。

 うう、心臓に悪い……。

 冷や汗を流していたら、パンツのポケットに入れていた携帯電話がブルッと震えた。

 友人からのメールだ。

 いけない、俺、今日は大学の図書館で友達と会う約束してたんだ……!

「ごめん、俺これから人と約束があって出掛ける予定なんだ。夜は仕事があるから、帰りは夜中になるかも」

 慌てて俺が立ち上がると、ミハイルは不服そうに肩を竦めた。

「えぇ……一人にされるのは嫌だ……」

 うう、そりゃ嫌だよな、一人で訳の分からない所に置いてかれるなんて……。

「本当にごめんっ。退屈だとは思うんだけど、怪我もしてるし、なるべく寝てて。夜には帰るから」

「本当に?」

 ミハイルが訝しげに視線を上げて俺をじっと見る。

 うっ、まるで世話する暇もないのに犬を飼ってしまった気分だ。

「必ず帰るよ。お金、少しは置いていくから、お腹が空いたら自分で買い物して。少し歩けば店もやってるから」

 毛先の絡んだ金髪頭が、ちょっと不貞腐れたみたいに無言で頷く。

 後ろ髪を引かれながら、俺は急いでダッフルコートを羽織り、相変わらずドアが閉まらない我が家を出た。

 

 

[newpage]

 

 ――図書館の背の高いアーチ窓から、午後の弱々しい光が落ちている。

 俺は古い歴史ある図書館の閲覧室の一角で、はっと目を覚ました。

 閲覧机の前に座り、本を読みながら友達を待っている内に、寝落ちしていたらしい。

 昨晩、満足に眠れなかったのが響いているのかも。

 イビキかいてなかったらいいけど……。

 身体を起こして周囲をキョロキョロ見る。

 部屋の中には長机がずらりと置かれ、その上に一定の間隔でモダンな傘付きランプが並んでいた。

 その明かりの下で、学生と思しき男女が本を読んだり、勉強したり、――俺みたいに居眠りしたりしている。

 ここは俺にとっては凄く安心できる馴染みの場所で、日常に帰ってきた安堵感でついウトウトしてしまった。

 こうして一人でここにいると、世の中は全部いつも通りだし、昨夜から自分の身に起こっている出来事は全部夢だったような気がする。

 でも、現実なんだよなぁ……ミハイルのことも。

 優雅な装飾の施された高い天井を仰いで、ふーっと大きなため息をついていると、急にポンポンと後ろから肩を叩かれた。

「!」

「ボンジュール、マコト!」

 スポーツ刈りの東洋人の若い男が人の良さそうな笑顔で俺を見下ろしている。

 チェックのシャツにデニムといった学生風のラフな服装に、手入れされた革靴、ニコッと屈託無く微笑んだ、一重の端正な顔立ち……。

「あっ、ヤンミン……!」

 大学が休みに入ってからは初めて会った友人に、俺は親しく微笑みかけた。

 陽明(ヤンミン)は、俺の通う大学につい数ヶ月前にやってきた、中国からの留学生だ。

 頭が良くて明るい性格で、きたばかりの時から、同じアジア人だからか、俺に積極的に話しかけてきてくれた。

 ヤンミンは学科編入前に語学学校に通ったとはいえ、流石に授業についていくのが大変で、俺が彼をサポートしたりしてるうちに仲良くなった。

 今日も、ノートを貸すために会う約束をしていたのだ。

 授業と仕事で友人を作る暇なんか全くなかった俺にとっては、大学で初めて出来た、唯一の友人だった。

「ヤンミン、ノート持ってきたよ」

 リュックからノートを出して渡すと、相手は受け取りながら大げさに両手を挙げた。

「ありがとう、マコト! そんなことより、お前無事だったんだなあ、良かったよ! テレビで見たけど、昨日、お前の家の近くでガス漏れ爆発があったんだって? 生きてて良かったなぁ!」

 ヤンミンの朗らかな声が静かな閲覧室に響く。

「ありがとう、ヤンミン。ごめんね、ここだと迷惑だから外に行って話してもいい?」

「あー、モチロン。行こうぜ」

 席を立ち、一緒に閲覧室を出た。

 鉄の手摺のついた広い螺旋階段を並んで下りてゆく。

 エントランスホールに出てから、俺は立ち話で昨日の出来事を彼に話した。

 ――ただし、どう説明したらいいのか分からない、ミハイルのことを除いて……。

「本当に凄い爆発で、酷かったよ。俺の部屋も窓ガラスが全部吹き飛んで、家の中もメチャクチャになるし」

「そりゃあ大変だ。よく無事だったな、マコト。でも、家がそんな事になると、流石に住みづらいんじゃないか?」

「あ……うーん、かろうじて暖房とか水とかのライフラインはあるから、なんとかなってはいるけど……」

「なぁ、俺んちに泊まりに来いよ。今ルームメイトが中国に帰ってて、ちょうど一部屋余ってるし」

「えっ……」

 俺は驚いてヤンミンの顔を見た。

 ドアも窓も壊れて、近くの店もみんな閉まっていて、確かに、誰かの家に避難できるものならしたい状況だ。

 でも、今あの家には――。

「ごめん、……荷物があるし、遠慮しとくよ」

 恐らく自分一人だったらすぐに首を縦に振ったであろう誘いだけど――。

 ヤンミンは屈託のない笑顔で俺の肩をポンと叩いた。

「そうか。でも、無理はするなよ。いつでも連絡してくれよな」

 さわやかな笑顔と親切が有り難くて、密かに感動した。

 友達って本当に心強いなぁ。

 親戚も家族もいないこの世界で、俺のことをこんなに心配してくれるのは多分、彼だけだ。

 ミハイルは……うーん、知り合ったばかりだからなぁ。

「ヤンミン、本当にありがとう……」

「何、困った時はお互い様だろう」

 すっかり上手くなったフランス語でそう言われ、俺は照れ笑いしながらうなずいた。

 ヤンミンが腕を戻した拍子に、手首の妙に高そうな時計の文字盤が目に入る。

 その針の示す数字にハッとして、俺は飛び上がった。

「……あ! ごめん、そろそろ仕事の時間……!」

「ああ、俺が来るのが遅くなったせいで……ごめんな。日本人の店で働いてるんだっけ? 頑張れよ。ノートありがとう」

 手を振られ、俺は頷いて手を振った。

「いや、こちらこそ。じゃあ、また!」

 友人と離れ、図書館の出口の方へ向かいながら、ふっと違和感が湧いた。

 俺、ラーメン屋で働いていること、彼に話したことあったっけ……。

(多分、何かで話したんだろうな)

 ――特に気に留めることもなく、俺の頭はすぐに、今日こそ遅刻せずラーメン屋に行くことに集中していた。

 

 

 その日の帰宅は、やっぱり真夜中になった。

 爆発現場を横目に見ながら誰もいない不気味な通りを歩く。

 積み重なる瓦礫や、横転したままの車を見て、昨日までの出来事が夢じゃなく現実なんだと思い知らされた。

「……ただいま」

 小さな声でそう言って屋根裏部屋に帰ると、中は電気もついていなくて、真っ暗だった。

 というか……そもそも人の気配が感じられなかった。

 不安な気持ちになって、シンとした深い闇の空間に向かって呼びかける。

「ミハイル?」

 何の反応もなかった。

「……」

 もしかしたら、こんな家に居るのが嫌になって居なくなったのかもしれない。

 そりゃあそうだ……こんなテレビすらない小さな部屋に一日中押し込められたら嫌になるだろう。

 でも、心配だ。見た目は大人だけど、彼はまだ子供なのに。

 こんなに寒いのに行き場が無くなって凍死、なんてことになったら……。

 探しに行った方がいいのかも……。

 悩みながらも一度リュックを下ろした時だった。

 突然、肩に圧迫するような力を感じた。

 背後の暗闇から、誰かが俺の肩を掴んでいる。

「!?」

 すぐに振り向こうとしたけど、それが敵わないほど凄い力で羽交い締めにされた。

「ひっ……っ!」

 恐怖の余り上手く抵抗も出来ず、叫び声も出ない。

 殺される、と絶望した瞬間、後ろからからかうような声音が上がった。

「びっくりした? お前、遅いんだもん」

 低く艶っぽい大人の声なのに、どこか幼いその口調には覚えがある。――ミハイルだ。

「はぁーっ……」

 一気に力が抜けて、彼の厚い胸に倒れこむような形になった。

「びっくりしたよ……」

「なぁ、すげえ腹減った」

 耳元すぐ近くで言われて、擽ったい。

 しかも、筋肉で張りと弾力のある胸が本当に、離れがたいくらいあったかい。

 やっぱり、でっかい犬を飼ってる気分になる……けど、犬ならこんな驚かすような悪戯はしない。

「なんで電気つけてないの……っ」

「下から誰か来る気配がしたから何となく消したんだ。泥棒だったらヤバいだろ? ドアないし。……抱きついたのは、悪戯だけどな。お前があんまり遅かったから」

 ううっ、子供っぽいことするなぁ!

 いや、子供なんだけど。

「遅くなってごめん。ちょっと待ってて、夕飯作るから」

 そう言うと、大きな身体がのっそり離れていって、壁際の電気をパチンとつけた。

 明るい部屋で改めてベッドの上を見ると、カラフルな表紙のペーパーバックの本が散乱している。

 ジュール・ベルヌの「80日間世界一周」とか、マーク・トゥエインの「王子と乞食」とか――俺が中学生の時に母さんに買ってもらった、懐かしい本のタイトルが目に飛び込んだ。

 本棚の一番奥にしまい込んでいた、少年少女向けの文学だ。

「……本、読んでたんだ……?」

 問うと、彼は頷き、ベッドに寝転がってまた、一冊を開いた。

「暇だったから」

 確かに、本以外何もないもんな。パソコンも、すごい旧型のがひとつあるきりで、しかもワイファイのある場所に行かないとネットにつながらないし……。

 本のタイトルを覗き込むと、今彼が読んでいるのは、CS・ルイスの「ライオンと魔女」だった。

 子供達が異世界へ出かける、ファンタジー冒険譚。

「変なんだ、俺。ロシア語しか読んだり書いたり出来なかったはずなのに、ちゃんとお前の本の字が読める」

「……大人になってからフランス語勉強したのかもしれないね」

 記憶は失ってても、勉強したことはちゃんと身体が覚えてるのかもしれない。

 でも、児童文学や冒険小説が好きなのは子供らしいな……。

 見た目がごつい男性がそんな本を読んでるのを密かに可愛く感じつつ、俺は本棚の裏にある狭いキッチンに入った。

 朝、部屋を片付けるついでに水に浸しておいた米を出し、水と一緒に鍋に移して電気コンロにかける。

 いつか日本製の炊飯器を買うのが夢なんだけど、お金が無いからコメはいつも鍋で炊いていた。

 鍋の蓋を閉じ、今度は冷凍庫から透明な袋入りの餃子を取り出して、となりのコンロでフライパンを熱し、上に餃子を並べてゆく。

 職場で貰った、賞味期限ギリギリの冷凍餃子だ。

「ミハイル、ベッドの頭側の隙間に折り畳みのテーブルと椅子が突っ込んであるから、出してもらえないかな」

 ベッドにいるはずの彼に声を掛けると、ギシッと木のフレームの軋む音がして、パタンパタンと折りたたみ式の小さなテーブルを組み立てる音がした。

 俺も、母さんといた頃よく夕飯の準備を手伝ったっけ。

 懐かしい気持ちになりながら、餃子を何回かに分けて焼き上げてゆく。

 最後に炊き上がったご飯を冷凍のミックスベジタブルと炒め、炒飯を作った。

「できた」

 本棚の向こうに戻ると、ミハイルが小さい椅子からはみ出ながらも何とか座っている。

 お待ちかねのハンサムな青年の前に、俺は急いで皿を並べた。

 ミハイルが片眉を上げ、立っている俺を見上げる。

「お前の椅子がない」

「俺は勉強机の椅子を兼用にしてるから大丈夫」

 そう言うと、彼は今度はテーブルに皿を並べた俺の手元をじっと覗き込んだ。

「嗅いだことのない匂いがする……何だそれ」

「餃子だよ。中華料理。この、酢と醤油で食べると凄く美味しいから」

 説明しながら小皿に調味料を注ぎ、食べやすいようにフォークとスプーンを渡した。

 やっぱり初めて見る食べ物だと抵抗あるよなぁ。

 母さんが生きてた頃はこのベルヴィル界隈で材料を調達して、よく作ってたから、俺は好きなんだけど……。

 ミハイルは長くうねった前髪を耳の後ろにかきあげて、綺麗な眉を寄せながらフォークで餃子をブスリと刺し、形のいい唇の中にそれを入れた。

 高い頬骨と細い顎がムグムグと動いて、群青色の切れ長の瞳が見開かれる。

「……!」

 不安になる俺の目の前で、彼は両手をスピードアップさせて山盛りの餃子を次々と口の中に放り込み始めた。

 昼間のサンドイッチの時と同じ感じなので、どうやら美味しかったらしい……。

 安心して席について、俺も自分の炒飯をスプーンで口にし始めた。

 その間も、ミハイルはヒョイヒョイと餃子を大きな口に入れていく。

「ご飯も食べて」

 平皿に盛った炒飯をスプーンと共に差し出すと、素直にそちらも食べてくれて、山のように焼いた餃子が俺の分まであっという間に無くなった。

「……あれ……? マコトのは……?」

 最後に気付いたみたいに問われて、思わず吹き出す。

「大丈夫、まだあるし、焼くから。気に入ってくれてよかった」

 席を立ちながら、可愛いなぁ、なんて思ってしまった。

 見た目は大人の男だけど、なんだか弟が出来たみたいだ。

 そういえば昔、弟か妹が欲しいと言って母さんを困らせたっけ。

 家族は母だけ、親戚も一人も居ない、そんな子供は学校でも俺だけで、寂しかったんだろうな。

 何だか胸のあたりが温かくなって……、でも、ミハイルの背後にあるベッドが目に入り、はっとした。

 あのマットレスの下には銃がある。

 俺と彼が全く違う世界の住人だという証拠が。

 彼の頭の怪我が治ったら、その後はどうすればいいんだろう。

 迷子として警察に連れていく、とか?

 でも、嫌がる彼を警察に預けるなんて、絶対にミハイルを傷付けてしまう。

 本棚の影に入り、餃子を焼きながら、彼をどうしてあげることも思いつかない自分に、密かに溜息をついた。

 

 

 その日の晩、俺は床に、ミハイルはベッドに寝ることになった。

 自分の方が床でいいって言い張られたけど、怪我人を床に寝かすのはダメな気がして。

 かと言って、一緒に狭いシングルベッドに眠るのはどう考えても無理だし。

 先々のことを考えなきゃなあと思うけど、この部屋は狭いし、頭が痛い。何より、ドアも窓も壊れてるし……。

 俺は古い毛布をベッドの脇に何枚も重ねてベッドの代わりにし、その隙間に入り込むようにして横たわった。

 ミハイルは眠くないのか、俺の勉強机のスタンドの明かりで本に夢中だ。

「……それ、面白い?」

 聞くと、うん、と包帯の巻かれた金髪頭が頷いた。

 自分の子供の頃に好きだった本を読んでくれるのは、嬉しくてこそばゆい。

 今彼が読んでいるのは、さっき読んでいた「ライオンと魔女」の続きのようだった。

「そのシリーズ、面白いよね。クローゼットを開けたら別世界の雪国に繋がっているとか……憧れたなぁ」

 ミハイルは本から目を上げて、ふうん、と頷いた。

「俺も、昨日まで雪の世界にいたと思ったのに、今は何故かマコトの家にいる」

「そうか、君はその話と逆なんだね……」

 大きな手がパタンと本を閉じる。

 彼は遠くを見るような視線で呟いた。

「この本の主人公たちの兄弟は、大人になるまで異世界から帰らなかったけど、きっと居心地が良かったからなんだろうな。――ここが別の世界で、魔法か何かでここに来たんだとしたら、俺も……もうあの寒くて寂しい場所に帰りたくない」

 199×年のチェルタノヴォで、彼に、一体何があったんだろう。

 訊いてみたいけど、迷う。

 彼のことを知れば知るほど、深みに入り込んでゆくような気がして……。

 その内にミハイルが再び本を開いて読み始めた。

 俺は時々ちらちらと彼の方を確認していたけれど、そのうち仕事の疲れもあってすぐに意識が遠くなった。

 深く引きずりこまれるような夢の中に漂い、揺らぐ無意識の世界に落ちてゆく。

 気付いたら、湿っぽい、暗い場所を歩いていた。

 古びた壁の色に浮かぶ蛍光灯の白々とした明かり。

 ここは病院だ。

 母さんが最後に入院していた……。

 俺は廊下を走りだし、何度も行った無機質な病室の扉をガチャリと開けた。

 白いシーツのベッドに、骨と皮だけに痩せ細った俺の母が横たわり、目だけを爛々とさせてこちらを見る。

 もうほとんど意識がないのに、俺の方を見て何かを言おうとしている――。

 

「逃 げ な さ い」

 

 唇の動きにハッとした。

 

 ――ここに居ては殺される。あなたも殺される……。

 

 周りの景色が歪み、血の不吉な赤と、黒の入り混じったような色で染まっていく。

「マコト、マコト!」

 大きな声で名前を呼ばれて、冷や汗でびっしょりになって目が覚めた。

 ミハイルの睫毛に縁取られた深い青の瞳が俺を心配そうに見下ろしている。

 緩やかにうねった金色の髪が俺の頬に落ちて、くすぐったい。

「すごくうなされてた……どうしたんだ?」

「あ……」

 気が抜けたようになって、俺は寝たまま首を振った。

「大丈夫、変な夢見ただけで」

 それを聞いたミハイルが、肩を竦めて俺の上から退き、隣に並ぶように毛布の上に寝転んだ。

 床もそんなに広くないので、二人並ぶと窮屈な感じだ。

「そうか……びっくりした、凄く苦しそうだったから」

「あは、起こしちゃってごめんね。……ベッド、戻っていいよ」

 申し訳ない気持ちでそう言うと、ミハイルはごろっとこっちを向いて、じっと俺の顔を見つめてきた。

「……なぁ、……」

「何……?」

 俺の耳に唇が触れるほど顔が近い。

「一つ提案」

「ん?」

 俺が聞き返した瞬間、ミハイルがむくりと起きて、肉食獣みたいなしなやかな動きで俺の身体の上に覆いかぶさってきた。

「ひっ!」

 悲鳴をあげた俺の目の前に、綺麗な顔が触れそうなほど近付く。

 金色の細い髪がサラサラ落ちてきて、俺の頬を擽った。

「俺もタダで飯食わせてもらって、泊めてもらうのは気持ち悪いし……」

 ごく至近距離で群青色の瞳に見つめられると、何も考えがまとまらなくなってドギマギする。

「え!? いや、俺は全然構わないけど……っ」

 首を振ったけど、相手は全然俺の言葉を聞いていなかった。

「だから、よく眠れるように抜いてやる。手と口、どっちがいい?」

「ぬ、抜いて……?」

 何のことかサッパリ思いつかない内に、甲に金色の毛の生えたでっかい手が強引に、俺のパジャマのウエストを掴んできた。

「うっ、わぁあ……!?」

 下着ごと引っ張りおろされ、チンチン丸見えにさせられて、何が起こっているのか全く分からず、頭が真っ白になる。

 アワアワしながら両手でウエストを掴み、全力で引き上げながら俺は叫んだ。

「そっ、そういうのはっ、好きな人とするから、俺はいいから!!」

 必死の訴えに、相手はキョトンとしてしまった。

 どうやら、断られるとは思っていなかったらしい。

 そして、矢継ぎ早な質問タイムが始まった。

「え……マコト、彼女いるのか。その顔で」

 その顔ってどういう意味だ!?

 何だか悲しくなりつつ、でも正直に首を振った。

「居ない……ていうか、居たことないけど!」

「居たことない、てことは童貞なのか?」

「そ、そうだよっ、でも別に俺そういうことは」

「……誰ともしたことない?」

 コクコクと頷く。

「……キスは? 触り合うのも?」

「ない」

「……そういう宗教にでも入ってるのか?」

「違うよ、相手がたまたま居なかっただけで……」

「……ヤバいな、アンタ……」

 謎の一言を残して、ミハイルが俺の上からどき、ゴロリンと横に転がる。

「???」

 バクバクする心臓に手を当てながら、取り敢えず去った危機に安堵していると、今度は更に謎の提案をされた。

「マコト。俺のこと、ミーシャって呼んでいいからな」

「ミーシャ……?」

 それが彼の愛称、ってことだろうか。

「そう。それで、おやすみ、ミーシャって言ってみろ」

「……いいけど……おやすみ、ミーシャ」

「……。おやすみ、マコト」

 えっ、ここで寝るの!?

 戸惑う俺の隣で、ミハイル改めミーシャが大欠伸をして目を閉じ、コテンと眠り始める。

 俺は心臓がドキドキしたままなかなか眠れなくて、明け方近くまで天井を眺めて過ごしてしまった。

 

 

[newpage]

 

 ミーシャの怪我は、一週間程で見た目は大分綺麗になり、包帯も取れた。

 そして俺と彼の奇妙な共同生活は、怪我が治っても、彼の記憶が戻らないせいで、未だ続いていた。

 愛称で呼ぶように強要された夜から、何故か毎晩寝床は二人とも床だ。

 隙間風があるせいで、気付いたらひっついて寝てしまってることも多くて、そんな時はちょっと恥ずかしい。

 ミーシャは、あの時カラダで恩返し出来なかったのが気持ち悪かったのか、最近、徐々に家のことを手伝ってくれるようになった。

 料理は一度挑戦して、電気コンロで指をヤケドしたから、専ら洗濯とか掃除を。

 ドラム式の温水洗濯機の使い方を教えたら、俺のいない間に必ずやってくれるようになった。

 パリは景観重視で洗濯物を外に干してはいけない決まりなので、部屋の中に干すんだよって教えたら、モスクワと同じだなぁ、なんて言っていた。ロシアで外に干さないのは、凍るからかも知れないけど……。

 掃除も、ぎこちないながら、掃除機をかけてくれたりして。

 ミーシャの家事は明らかに不慣れで、多分、普段そういうことを全くしない人だったんだろうなと思う。

 逆に得意なことや、習慣にしてたことも薄っすらと分かり始めた。読書と、それに、筋トレとランニングだ。

 

 

「ミーシャ、速いよ、待って……!」

「マコト、遅い」

 緑のアーチに囲まれた長い石の階段の一番上で、ピチピチの黒Tシャツと、丈の短いスウェットのズボンを穿いた金髪の青年が俺を待っている。

 ――早朝、家のすぐ近くの広大なベルヴィル公園の丘のてっぺん近くで、俺はすっかりへばっていた。

 この公園は昔はブドウ農園だったらしく、かなりアップダウンのある公園……というより、丘陵地を含んだ土地にさまざまな種類の植物が植えられ、美しく整備された大庭園になっている。

 珍しく天気がいいせいか、早朝にもかかわらず、階段の下に広がる芝生には日向ぼっこしている人がちらほら見えた。

 この公園のハードな散歩道を、ミーシャは何十周走っても全く息が上がらなくて、俺も頑張って途中までは追いすがったものの……1時間過ぎた今、かなりギブアップ気味だ。

 俺も昔はよく運動をしていたんだけれど、最近は勉強とパートで精一杯だったせいか、すっかり体力が無くなってたらしい。

「ごめん、無理……っ」

 情けなく懇願すると、ミーシャはちょっと物足りなさそうに涼しい顔で肩を竦めた。

「しょうがないな。降りよう」

 ようやくそう言ってくれたけど、彼の方はかなりのハイペースだったから、既にハーフマラソンに近いぐらいの距離は走っている筈だ。

 本当に、この人、どういう人なんだろう……。

 最近ミーシャは、じっとしていると気分が悪くなってくるのか、家の中でも腕立て伏せしたり、腹筋したりしていた。

 それでも体力が余るらしく、俺のいない間もよく走っていると言うから、一緒に過ごす朝に少しだけ付き合ってみたらこんな事になってしまったのだ。

 ミーシャは一人の時はちょっと尋常じゃないくらい自分を追い込んでるらしく、数時間出てたかと思うと、全身汗びっしょりになって帰って来ることもあるから、普段はもっと走ってるんだろうと思う。

 ――多分彼は、元々鍛錬することが身体に染み付いた人間なのかもしれない。

 毎日薄皮を剥ぐように、ミーシャは「自分」の細々とした習慣や能力を思い出し、そして俺もほんの僅かずつ、大人の彼のことを知ってゆく。

 それが少し、恐ろしい気もするけど……。

「大丈夫か? 水飲んだ方がいい。何か買うか?」

 ミーシャが長い脚で階段を下りてきて、ゼイハアしている俺のそばに立つ。

「うん……、というか、朝ごはんの買い物に行こう。果物とパン、好きなのを選んでいいよ」

 俺がまだ息を切らしながらそう言うと、彼は美貌に無邪気な笑みを浮かべてうなずいた。

 最近、彼はよく笑顔を見せてくれるようになった。

 会ったばかりの時は殆ど見ることができなかった表情だ。

 なんだか特別な感じがして、嬉しい。

 疲れているし苦しいけど、一緒に並んで歩きながら、胸が弾んでいる自分に気付く。

 誰かと一緒に運動するの、久々だったからかな。

 ――豊かな緑の中を歩き、朝靄にかすんだ街に視線を馳せるミーシャの横顔は、まるで印象派の美しい絵画の登場人物みたいでつい、視線を奪われる。

「ここ、パリの景色がよく見渡せるんだな……エッフェル塔が見える」

 見ていた顔が急にこっちを向いて話しかけてきて、びっくりした。

「うっ、うん、そうだね……!」

 うっ、俺、おかしいな、男の顔に見惚れるなんて。

 どうしちゃったんだ……。

「さ、先行くね!」

「……うん?」

 誤魔化すみたいにミーシャよりも少し早足になり、俺は庭園の丘を下りていった。

 

 

 俺たちは公園を出てしばらく歩き、街中にある屋内マルシェへと向かった。

 最近行きつけの、家からは少し遠いそのマルシェは、天井の高い広い建物内に、魚屋とか肉屋とか、八百屋とか、個人商店があつまっている、商店街のような場所で、買い物に便利な一般市民向けの市場だ。

「……あ、ごめん。入る前に俺、そこのATMで少しお金下ろしていいかな」

 道を歩きながらミーシャに声を掛け、俺は屋外設置の自動機の方へ走った。

 機械の前に立ち、カルトブルーという、決済機能も付加された銀行のキャッシュカードを財布から取り出して、画面を操作する。

 カードを挿入し、なけなしの貯金から現金を引き出していると、ミーシャがぬっと横から画面を覗き込んできた。

「……そのカードなら、俺も持ってる。俺もやってみてもいいか?」

「えっ、暗証番号わかるの……!?」

「……多分」

 暗証番号を何度か間違えると、カードが吸い込まれちゃうから、ちょっとドキドキするけど……。

「分かった、やってみる?」

 引き出した現金とカードを取り、俺は横にズレた。

 ミーシャが頷き、ポケットから自分の革のカード入れを取り出す。

 俺のものよりも真新しい感じのカルトブルーが挿入され、長い指が無言で機械を操作し始めた。

 50ユーロの引き出しを指定した後、暗証番号の入力画面になる。

 手元のキーパッドを押して、ミーシャが何かの番号を打ち込んでゆく。

 人の操作画面を見るのは良くないとは思いつつ、固唾を飲んで見守っていると、現金の吐き出し口から無事に50ユーロ札が出てきた。

「凄い……! よく思い出せたね」

 感心する俺の隣で、ミーシャは無言のまま50ユーロ札を俺の胸に押し付け、更に機械の操作を続けた。

「ミーシャ……?」

 手でお札を押さえ、お金を預かったまま固まっている俺の前で、ミーシャは口座の残高照会を指定し、もう一度暗証番号を入力した。

 ハッと気づき、俺はその画面を見ないように目を背けて遠ざかろうとしたけど、ミーシャの腕が無理やり俺の肩を掴んで引き寄せる。

 否応無く画面を見せられて、俺は驚愕のあまりに目を見開いた。

 今まで生きてて、見たこともない桁数のユーロが、その口座には入っていたからだ。

 その額は、ホワイトカラーのサラリーマンが貰う、一生分の給料くらい……だろうか。

「……これから、マコトにちゃんと色々返せるな」

 無邪気にそう言われて、俺は真っ青になった。

 このお金が普通に手に入れたものとは、俺には思えない。

 ミーシャが普通の人間じゃないのだと思い知らされたような気がして――俺はしばらくの間、身体の震えが止まらなかった。

 

 

[newpage]

 

 少しずつ、寒さが厳しさを増してゆく。

 石畳の道は冷え切って、雨が降ると朝にはツルツルに凍るほどだ。

 気が付けば、クリスマスまであと一週間を切っていた。

 観光客の数もぐっと増えて、街は日に日に賑やかになっていく。

 並木道を金色に光り輝かせるイルミネーション、店々のショーウィンドウを彩る真っ赤なキャンドルや白銀のクリスマスリース、雑貨屋に並ぶ沢山のクリスマスカード……。

 去年はただ眺めて通り過ぎるだけだったけど、そんなものを見てると、何か一つ、買って帰ったらミーシャが喜ぶかも、なんて思ったりして。

 でも、仕事が終わる頃には全部店が閉まっていて、いつも何も買えなかった。

 ――仕事帰りの夜中のメトロの中で、ドアの近くに立ったまま、ぼんやりと考え事に耽る。

 ……クリスマスを誰かと過ごすことを考えるなんて……少し前まで思いもしなかった。

 ――ミーシャはまだ、記憶を取り戻さない。

 だけど彼は、最近とても、大人の自分のことを知りたがっている。

 あの銀行口座の事があってからは尚更だ。

 俺にも協力してほしいと言うから、勿論承諾したけど――ホテルのキーカードのことを言うべきか、拳銃を渡すべきか……ずっと悩んでいた。

 俺はミーシャに嘘をついている事になるのかも知れない。

 積極的ではないけれど、決定的な嘘を……。

 

 

「ただいま……」

 屋根裏部屋のドアを二回ノックして、スタンドの明かりがぼんやりと灯る暗い部屋に入る。

 いつもなら同居人が悪戯して抱きついてきたり、本を読んだまま『お帰り』って言ってくれたりするのに、この日は違った。

 ミーシャはベッドに腰掛けたまま沈鬱な表情で俯いている。

 俺が目の前まで行っても、黙ったまま何も喋ろうとしない。

 嫌な予感がしてリュックをベッドに下ろし、俺は控えめに尋ねた。

「どうしたの、ミーシャ……何かあった?」

 すると、彼は青白い整った顔を上げて、話し始めた。

「……今日、身分証に書いてある住所まで、行ってみた」

「そっ……そんな所まで、一人でメトロに乗って行ったの……」

 正直、死ぬほど動揺した。

 いや、ミーシャにとっては自然な行動だし、もっと早くそうするべきではあったのだけど……。

「でも、そこには俺の事なんて全く知らない、どこかの家族が住んでいただけだった。凄く警戒されて、目の前でドアを閉められて」

 暗い声で話すミーシャは、どう見ても強いショックを受けているようだった。

「大人の俺にも、家も家族も何も無いのかもな……」

 そんな彼を見てしまうと、胸が痛くて張り裂けそうだった。

 まるで、母が死んで突然一人になった時の自分を見るようで。

 いや、ミーシャは突然大人になって、しかも知らない国に来て、あの時の俺以上に孤独なのかもしれない。

「チェルタノヴォには家族や友達はいなかったの……?」

「……家族はもう、誰も……友人はいたけど、多分今はもうみんな死んでる」

「どうして」

「……俺、路上暮らししてた時期があって……その時の仲間は、病気やヤク中で誰も長くは生きられなかったから……」

 ――ああ。

 小さいミーシャは、本当に大変な人生を生き抜いてきたんだ……。

「ミーシャ……。俺が居るから」

 俺は涙ぐみながら、思わずそう言っていた。

 ベッドの隣に座って、彼の大きな背中を撫でながら。

「俺が、そばに居るよ」

 そんな資格、俺にはないかもしれない。でもそうやって慰めずにはいられなかった。

 力になると言いながら、拳銃や、ホテルのカードの事を言い出す勇気がないのに。

 ミーシャが記憶を取り戻すのが怖い、と何処かで思ってる俺は、酷い人間だ……。

 黙っている俺の肩に、サラサラと金髪が流れて、小さな頭がトンと乗る。

「……マコト、有難うな。あのさ、俺……何でマコトの部屋にいたのか、最近分かった気がするんだ」

「う、うん……?」

 身体がビリっと緊張するのを悟られないように、なるべく穏やかに相槌を打つ。

 ミーシャはぽつりぽつりと言葉を続けた。

「俺、どうしてかマコトの顔と名前を以前から、知ってた気がして……。でも、マコトは俺のこと何も知らなかっただろ。――ていうことはもしかしたら」

 心臓が止まるかと思った。

「あ――……もしかしたら、何……?」

「……。やっぱり、何でもない」

 濁されて、内心恐ろしくなる。

 もしかしたら、俺のこと殺さなくちゃいけないこと思い出したんじゃないかと思って。

 そうだとしたら、俺……。

 Tシャツが濡れるほど冷や汗をダラダラさせていると、何故か、横から頰にちゅっとされた。

「な、何!」

 ビックリして隣からとびのく。

 恐る恐る顔を上げると、なぜかミーシャは、泣きそうな微笑みを浮かべていた。

「……一緒にいてくれてありがとうな。マコトがいてくれて良かった」

 その表情に、俺の心配が勘違いだったことを知ると同時に、――胸が締め付けられ、甘く痛んだ。

 

 

 ――翌日、ひさびさに一日中俺のスケジュールが空いたので、二人で買い物に行くことにした。

 服とか下着とか、ずっと俺のを貸していたから、ちゃんとミーシャの服を買いに。

 一緒に洋服屋の店先を回りながら、いろんな服を見たけど、ミーシャが買ったのは黒い服ばかりだった。

 スタイルが凄くいいし、何を着ても似合いそうなのに、黒ばかりなのはすこし勿体無い。

 ……そういえば、俺の家の床で倒れていた時も真っ黒の服だったっけ。

 もしかして、返り血がついても目立たないように……?

 賑やかな昼の街中を一緒に歩きながら怖いことを考えてしまっていると、突然ミーシャが足を止めた。

「? ど、どうしたの」

 訊くと、ミーシャが雑踏の中に立つ、てっぺんが玉ねぎの形になった深緑色の背の高い広告塔を指差した。

「なぁ、マコト。俺、これ行きたい」

 見ると、円筒状の広告面にネズミーランド・パリのポスターが貼られていて、ピンク色のお城を背景にネズミの着ぐるみキャラクターが描かれている。

 ああ、遊園地に心を惹かれちゃったのかあ……。

 子供らしい一面にホッとしつつ、情けない気持ちで俺は首を振った。

「……ごめん、俺、あんまりお金なくて無理かも……ラーメン屋もあるし……」

「金なら俺が出す。仕事なんか辞めちゃえばいいだろ」

「そんな訳にはいかないよ。あれは君のお金で、俺のじゃない」

 俯くとサラサラ顔に落ちる金色の前髪の下で、ミーシャがすごく悲しそうな顔をした。

「でも、俺、マコトと行きたい……」

 ううっ、そんな顔されるとすごく弱い……。

「じゃあ、ネズミーランドじゃなくて、チュイルリー公園に行かない? クリスマスマーケットと、あと移動遊園地の観覧車が来てる」

「……カンランシャ?」

「楽しいよ、夜になるとキラキラしてるし。きっと気にいるから」

 そう言った俺の言葉に、ミーシャの表情が輝くような笑顔になった。

 

 

 チュイルリー公園は、オペラ座から南西にある、東西700メートル、南北300メートルの細長い形をした庭園だ。

 昔、革命の時にマリーアントワネットや王様の一家がベルサイユ宮殿を追い出されて、パリの「チュイルリー宮殿」に住んだ、というのが有名だけど、今はその宮殿がなくなり、単に庭だけが残ってるらしい。

 クリスマス前の今は、その広大な庭に、可愛い家の形をした沢山の出店が立ち並び、クリスマスの靴下やオーナメントはもちろん、焼き栗やマカロン、ワイン、クレープが売られている。

 他にも、移動遊園地の回転する空中ブランコや、巨大な観覧車が立って、子供でなくても何となくワクワクしてしまう雰囲気だ。

 買い物を済ませ、一旦家に荷物を置いた俺とミーシャがチュイルリーの駅に着いた時には、既に日没過ぎだった。

 出店やアトラクションが、電飾のピンクや青や紫の光に包まれているのが外からも見える。

 庭園自体の美しさもあり、まるでレトロな夢の世界に入り込んだように思える幻想的な景色は、クリスマスだけの魔法の世界で、テーマパークみたいにいつ行っても同じ場所にあるものじゃない。

 儚い、クリスマスが終わるまでの夢だ。

(昔、母さんと来た時はどんなだったかなぁ……)

 以前の、一人じゃなかったクリスマスを思い出す。

 RER(郊外列車)に乗って、母さんと手を繋いでパリに遊びに来た時の楽しい思い出を。

 急に切なくなり、公園の入り口を潜るのを躊躇していると、ミーシャの大きな手が俺の肩をぐっと抱いて押した。

「行かないのか?」

 キラキラした星の渦のような背景に、まるで御伽噺の王子様が居るみたいで、思わず微笑んだ。

 俺、今、夢みてるのかもしれないな。

 あんまり寂し過ぎたから。

 出てくるのがお姫様じゃなく、金髪碧眼の王子様。

 ミーシャは元々着ていたトレンチに、カルトブルーで買ったカシミアの黒いセーター、ブラックデニムを穿いている。

 黒ずくめに繊細な色の金髪が余りにも美しく映えて、まるで危ない世界に人を誘う悪魔みたいな魅力があった。

 実際のところは、遊園地にただワクワクしている子供だけど。

「あ、なあ、俺あれ食べたい……」

 ミーシャが指差したのは、ソーセージホットドッグを売っている混み合った店だった。

「いいよ、俺が二人分買ってくるから待ってて」

 そう言って、列に並ぶために彼から離れる。

 人混みの中に一人にするのはちょっと心配だけど、大の男二人で列に並ぶのは気が引けた。

 昼間に服を買っていた時も、女性の店員さんから「デートですか?」って言われたし。

 服屋がゲイタウンのあるマレ地区の店だったからかもしれないけど、全く容姿の違う男が二人で親密そうに歩いていたらそう見えるよね……。

 思い出してちょっと恥ずかしくなっていたら、

「マコト!」

 無邪気な笑顔をして、白い息を吐き、ミーシャが走り寄ってきた。

「なに、どうかした?」

 ちょっと驚いていると、黒い革手袋をした彼の手が、俺に紙コップに入った赤ワインを渡してくる。

「ホットワインの店で買った。温まるってさ。二人分買ったから、やる」

 受け取ると熱いくらいで、冷たい空気でかじかんだ両手がよく温まった。

「ありがとう……」

 真っ赤な液体を喉に流し込むと、胃に沁みて、身体の芯からポカポカと温まる。

 結局二人でひっついて並びながら、恋人かと思われても、まあいいかって気分になってきた。

 俺ちょっとの量ですぐ酔うから普段あんまり飲まないけど、寒い外で飲むあったかいワインは凄く、美味しいなぁ……。

 ホンワリしているうちに順番が来ていて、慌てて店の軒下に入り、店員の女性に注文した。

「ボンソワール、マダム。あの、ホットドッグ二つ下さい」

12ユーロですよ」

 小銭と引き換えに紙皿からはみ出そうなホットドッグを二つ受け取り、すぐ後ろでワクワク待っていたミーシャに差し出した。

「ほら、どうぞ」

「メルシー、マコト」

 お礼を言ったが早いか、ホットドッグはふた口ぐらいでミーシャの大きな口の中に消えてしまった。

「ちょ、早いから……!」

「次はあれ行こう、アレ」

 急かされながらワインを一気飲みして、ホットドッグを口にくわえ、ゴミを集積所の巨大なゴミ箱に捨てて後を追う。

 一気にアルコールを摂取してしまい、ちょっと頭がクラっとした。

 でも、気持ちは弾むみたいに楽しくなってゆく。

「ちょ、まって、」

 思わず笑みが溢れる俺の目の前で、突然ミーシャが立ち止まって、広い背中にドスンとぶつかった。

「うわっと! ごめん……!」

 革手袋をした彼の長い指が、極彩色の電飾で輝く大きな観覧車を差す。

「マコト、あれ乗ろう。きっとパリの夜景が全部見える」

 一瞬、母と一緒に昼間のパリの観覧車に乗った時の記憶が蘇って、心がチクンと痛んだ。

『誠、見て! モンマルトルの丘の方まで、よく見える』

 生きていた時の、母の笑顔が脳裏に蘇る。

 ――あれから、一度も誰かと観覧車に乗ったことがない。

 でも今日は……。

「いいよ、ミーシャ」

 俺は大きく頷き、光をキラキラ映す夜空色の瞳に微笑みかけた。

 

 

 

「凄い、マコト、外が凄く綺麗だ……!」

 オレンジの灯火の洪水のような街を眼下に、ミーシャがガラス窓にへばりついている。

 裾広がりの光のドレスを着た貴婦人のようなエッフェル塔、セーヌ川沿いの道を連なって走る車のライトの瞬き。

 ルーブル美術館の前にそびえるガラスのピラミッド、そして、荘厳なオペラ座のライトアップ……。

 働いた後、疲れ切って家に帰る時にひとり横目で見る夜景より、ずっと美しくて温かく感じるのは何故なんだろう。

 まるで、この街に住むのを許されているように。

 となりにミーシャが居るからなんだろうか。

 彼だって、この場所では異邦人なのに。

 不思議な満ち足りた気分で下を眺めていると、同じ側の座席にミーシャがグイッと身体をねじ込んできた。

 小さなカゴの中で、男同士で隣り合って座ると流石に狭い。

「傾くから、そっちに座って」

 向かい側を指差したけれど、彼は聞かなかった。

「この中、寒いから、くっつこう」

 確かに、観覧車の中は暖房なんて付いてないから、底冷えのするような寒さだ。

「でも……」

 戸惑っている俺の肩を、長い腕がギュッと抱きしめてきた。

「……!」

 体温と一緒に、背筋が痺れるような幸福感が喉にせり上がる。

 何故か涙がこみ上げそうになった。

 この人は絶対に、これからもずっと俺のそばにいるような人じゃないのに、それでも彼の遠慮のないその行為が、たまらなく嬉しかったんだ。

 本当はずっと、誰かに親しく、こんな風にされたかった。

 ハグしながら両方の頬を合わせて、親しげに挨拶のキスを交わすフランス人達のように。

「ミーシャ、近い……」

「でも、あったかい」

 心臓がバクバクする。

 さっきワインを急ピッチで飲んだせいだろうか。

 戸惑いながら相手の胸を押したけど、ビクともしない。

 大人になってからこんな風に誰かにしっかりと抱き締めて貰ったのは初めてかも知れなかった。

 今までずっと、勉強と生活の維持で精一杯で、大学に入ってからはとにかく授業が厳しくて……友達を作る暇すらなかった。

 教授だって、要領の悪い俺がヘマをすると、アジア系だってことを引き合いに出して皮肉を言ってくるし、それを聞いた周りの学生達も冷笑するばかりで……。

 俺の友達はヤンミンくらいしか出来なくて、その彼とだって、こんな風にハグし合ったことなんて一度もない。

 そうっと、ミーシャの分厚い背中に腕を回して抱き返す。

「マコト、体温高いな」

 耳元で囁かれて、だんだん恥ずかしくなってきた。

「……は、離れてもいい……?」

 遠慮がちに訊くと、首を振られた。

「何でそんな照れてるんだ? 俺達もう、遠慮するような仲じゃないだろ」

 横髪に指先を入れられて、親指の腹で頬を撫でられる。

 親しげな仕草にドギマギしながら、じゃあ、どんな仲なんだろうと考えた。

 友達、ってことかな。

 そんな風に思ってもらえるのは凄く嬉しいけど、俺一人の勘違いだったら恥ずかしい。

「あ、あの……」

 それって、どういう意味――。

 訊こうとして視線を上げたら、吸い込まれるようなラピスラズリブルーの瞳とばっちり目が合ってしまって、うっとりと意識が蕩けた。

 俺、どうしちゃったんだろう。

 ワインのせいだろうか。

 顔が燃えてるみたいに熱いし、息苦しい。

 ミーシャの熱い息が耳に触れている。

 彼も顔には出ていないけど、多少は酔っ払ってるのかもしれない。

 身体中の血の巡りが、触れられた皮膚に集まるような感覚がする。

 彼の手が俺の頬を包み込んで、完璧な造形の顔が瞼を伏せて斜めに傾いた。

 その光景はまるで接吻の予兆のようで、ぞくっと身体の奥が疼く。

 靄のかかった意識の内側で、今まで誰にも感じたことのなかった感覚が開いて、俺を支配する。

 何だこれ、一体何が起こって……。

「――マコト、あれ見て」

 急にミーシャが横を向き、身体を離して背後の窓を指差した。

 俺は口から心臓が飛び出そうな状態のまま、まだクラクラして、中々反応できない。

「っ……、え……?」

 やっと外に視線を移し、彼の指差す方向を見た。

 観覧車は頂上を過ぎて、地上に向かうところだった。

 ガラスの向こうに見える、どこか見覚えのある美しい建物……。

「あれが何……」

 問いかけて、ハッとした。

 一気に酔いが覚めて、無言で相手の顔を見つめる。

「見て、俺のカード入れに入っていたカードに描かれてる絵とソックリだ……。あれだよな?」

 ミーシャがポケットを漁り、革のカード入れを取り出す。

 ホテル「メゾン・ディアーヌ」のカードキー……。

 俺は血の気がひくような気持ちで、ただ無言で頷いた。

 そうだった。最初から、俺たちは友達なんかじゃない。

 ミーシャは多分、俺を殺しにきた男なのに、それなのに俺は……。

「なぁ、――これから行ってみよう、あそこへ。マコト、付いてきてくれるよな?――」

 有無を言わさぬその問いかけに、俺は頷くほか無かった。

 

 

[newpage]

 

 ホテル・メゾン・ディアーヌは、クリスマスの装飾で華やかに彩られた黒鉄の門の奥にあった。

 出来れば自分は入らず外で待っていたい。

 ミーシャの背中を見送るような感じで門の横に居たら、振り向かれて急かされた。

「マコト、来い」

 やっぱり俺も行かなきゃダメなのか。

 多分中に入ったら、どうしたって彼の素性と向き合うことになる。

 あの拳銃の裏側の世界に。

 そして、もしかしたらミーシャはすべての記憶を取り戻すかも知れない。

 そうなったら俺は……。

 唇を一瞬強く噛み、意を決して俺は口を開いた。

「行ってきて。俺はここで待ってる」

 彼が何かを思い出した時、戻ってくるだろうか。

 来たとしてももう、その時の彼は「友達」ではなくなってるだろう。

 そして彼の正体が、最初俺が思った通りの人間だったのだとしたら……俺は一瞬で殺される、可能性だってある。

 俺は彼に背中を向け、なるべく営業妨害にならないように門扉から離れた。

 それなのに――。

「ダメだ。マコトも一緒に来て」

 背後から腕を掴まれて振り向くと、そこにミーシャが居た。

 濃いブルーの瞳が不安に揺れていて、今にも泣きそうなその表情に胸が苦しくなった。

 そうか、怖いのは、彼自身も同じなんだ。

 自分が何者なのか、分からなくて……。

「分かった……」

 拒絶、出来ない。

 もう、どうにでもなれと、半ば捨て鉢な気分でミーシャの後に続き、俺は足を踏み出した。

 彼の横に追いつき、19世紀の匂いのするアール・ヌーボー調のガラスの雨よけの下に一緒に入ると、ドアマンによって扉が開かれる。

 心臓が不穏な予感にどくどくと跳ねた。

 横を見ると、ミーシャの青白い肌が一層、紙のように白くなっている。

 やっぱり明日にしよう、と言いたいのを必死で呑み込んだ。

 両側の壁が緑と赤を基調としたウォールアートで飾られた、赤絨毯の細長いエントランスを一緒に歩く。

 高級感溢れる雰囲気に、ミーシャはともかく、擦り切れたデニムと古びたダッフルコートの俺が凄く浮いているのをヒシヒシと感じた。

 通りすがる客の目も、気のせいかもしれないけど、痛い。

 と、突然、俺の手がぐっと掴まれた。

「どうしたらいい? あのカウンターの所で、あのカードを渡してみたらいいんだろうか」

 ミーシャが俺の手を握りながら不安げに囁く。

 その様子は余りにも頼りなげで、俺は彼の手をギュッと握り返した。

 そうだ、この子は子供だ……。

 俺がしっかりしなくちゃ。

「――大丈夫、俺のいう通りにして……。カードを見せながら、忘れ物を取りに来たって言えばいいんだ。君が事故に遭うまでここに泊まってたなら、何か手掛かりがあるはずだから」

「分かった……ありがとう、マコト」

 手が離れ、意を決したようにミーシャがフロントに向かう。

 カウンターに近付くと、シックな制服を着た金髪の女性が彼に話し掛けた。

「マルタン様でいらっしゃいますね?」

 ――マルタン。彼の身分証明書にあった名だ。

 女性は以前宿泊した彼のことを覚えていたのか、ミーシャのことを知っているようだった。

「あ、ああ。その――忘れ物をしたんだ。残っていないかと思って」

 すると、彼女は笑顔でうなずいた。

「……お鞄とノート型端末でございますね? こちらで保管しております」

「そう、か……いつからここに?」

「今月の初め頃にお泊まりになった際から……チェックアウトのお手続きも頂きませんでしたので、お電話もしたのですが」

「……ごめん、頭を怪我して治療してもらってたんだ。電話も壊れてしまって」

「それは誠に大変でございましたね……! ご宿泊料金は申し訳ございませんがデポジットから頂きましたので、お手荷物のほうは如何致しましょうか」

「……荷物は貰いたいんだけど、その、今夜泊まれないか。前と同じ部屋に」

 ミーシャが突然言い出したことにギョッとして、俺は思わず彼の後ろに近付き、囁いた。

「ミーシャ……!?」

「部屋を見たら、もしかしたら思い出せるかもしれないから。マコトも付き合って欲しい」

 そんなっ、俺もこんな高そうなホテルに!?

「困るよ、俺はお金払えないのに……っ」

「一人で泊まっても二人で泊まっても、同じだろ」

 そう言うミーシャを援護射撃するように、カウンターの中から女性が頷いた。

「当ホテルは全てダブルのお部屋になっておりますのでお一人様でお泊りになる場合はお二人様分の料金を頂いております。丁度以前お泊りになったお部屋も空いております」

 うぅ……っ。

 ミーシャに腕を掴んで引っ張られ、俺は観念して頷いた。

「分かった、――でも一日だけだ、明日の夜は仕事があるから」

 

 

 俺とミーシャがホテルの案内係に通された部屋は、低層階かつ角の、一番目立たない部屋だった。

 フロントスタッフにそれとなく訊いた所では、そこがかつてのミーシャの指定した部屋だったらしい。

 宿帳も見せて貰ったけれど、住所はパリの16区になっていた。

 身分証とはまた違う住所で、もしかしたら今回も出鱈目かもしれないけれど、ミーシャにとっては大きな手掛かりだ。

 部屋に入ると、中はベッドルームとリビングのような空間に分かれていた。

 ベッドルームは俺の部屋よりもずっと広くて、一つあたり二人は眠れそうな、ゆったりとした大きさのベッドが二台。

 間接照明の柔らかいオレンジの光に照らされた細い木板が細かく組まれた優雅なヘリンボーンの床、リースと陶器のサンタクロースの置かれた壁の飾り暖炉。

 リビングには大きな窓があり、庭に飾られた色取り取りの電飾が白いカーテンに反射している。

 ……記憶を失う前のミーシャにとっては普通のホテルなのかもしれないけれど、俺にとっては足を踏み入れ難い世界。

「着替えが少しと、パスポートと、何だかよく分からない黒いものが入ってる」

 ソファの前の低いテーブルにアタッシュケースの中身を空け、パスポートを開いてミーシャがため息をついた。

 そこに書いてあるのはやっぱり、フランス国籍のミッシェル・マルタンの名だ。

「……俺は何で、この国じゃフランス人って事になってるんだろうな。名前はミハイルのフランス語読みだから……途中でフランス人の養子にでもなったのかな……」

 何気ないその言葉に心臓が痛くなった。

 本当に、それだけの話ならどれ程良いだろう。

 長いソファの隣に座り、緊張に冷たくなる指で一緒にミーシャの荷物の中身を見る。

 銃とか物騒なものが入っていなかったことに密かにほっとした。

 一つ一つをつぶさに見ても、パスポートの他に彼の素性に触れられそうなものは無かった。

 黒いものとミーシャが言っていたのはパソコンのアダプターみたいだけど……。

「……これ、どうやって電源入れるんだ……?」

 薄い、黒いノートPCを指差され、アダプターを渡した。

「これをベッドの頭にある電源に繋げて」

「分かった」

 ミーシャがコンセントにプラグを挿し、しばらくしてスイッチをオンにすると、低く唸りながらラップトップが動き始めた。

 画面が立ち上がり、案の定ログインパスを要求されて、ミーシャの横顔を見る。

「入るためのパス、思い出せる? アルファベットと、数字の組み合わせだ」

「アルファベット……分からない。何も思い浮かばない……」

「暗証番号は思い出せたのに?」

「あれは、数字だけだろ……俺の母さんの命日を入れたんだ。忘れないように俺ならそうすると思って……」

「そう、だったのか……」

「でも、試してみる。仲間の名前とか、住んでた場所とか、母さんの名前とか……そういうのかも」

 単語を変えてキーを打つミーシャを、固唾を呑んで見守る。

 ――けれど、何度試しても結局、パソコンの中の情報が開くことは無かった。

 そして、試し始めて10回目――

「あっ……!」

 ミーシャが驚きの声を上げたので横から覗き込むと、謎のメッセージが画面に現れ、そしてそれきり、一切の操作が受け付けられなくなってしまった。

 再起動しようとしても立ち上がらず、まるで壊れてしまったように電源がつかない。

 恐らく、他人に触られた時にそうなるように仕掛けていたに違いない――「彼」自身が。

 

 

 パソコンを壊してしまい、落ち込むミーシャが痛々しくて、見ていられずに俺はバスルームに入った。

 バスタブにお湯を張りながら、大きな溜息をつく。

 今以上に、何か俺が彼に協力してあげられることがあればいいんだけど……。

 あと一つできることがあるとすれば……銃を返すことだけだよな……。

 でも、そんな事をしたら、多分ミーシャも何かを悟ると思う。そしたら俺たちはもう、友達みたいに親しい関係ではいられなくなるんだろうか。

 湯面をぼーっと見つめていたら、突然後ろから長い腕が俺に抱き付いてきた。

「ミーシャ……?」

 びっくりして、名前を呼んだまま絶句する。

「ごめん。マコトが居なくなったのかと思った……」

「一緒に泊まるって言ったのに、そんな事」

「ある。マコトが俺の扱いに困ってることぐらい、最初から分かってる。出来るなら警察とか病院とかに、俺のことを渡したいくらいなんだろ」

 胸が痛くなった。

 確かに、そういうことを全く考えていなかったかと言ったら嘘になるけど……。

「……俺はお前と居ない方がいいのか……? お前が嫌なら、出て行った方が……」

 そう言ったミーシャの口調が震えていて、余りにも悲しそうで、可哀想で。

「そっ、そんなことないよ……!」

 俺は彼の腕の中でくるっと向き直り、ギュッと肩を抱き締めていた。

「……だって、君は俺の大事な、その……友達だから……一人になんかしないよ、しないからっ……」

「……っ」

 俺よりも大きな肩がひくんと動揺した。

 泣いているのかな……。

 来たこともない外国で、家族も家もなくて一人で、記憶もなくて、突然大人になっていて……それでも強がって、ずっと我慢してたんだよな、きっと。

 そう思うと何だか、彼が愛おしくて……。

 厚い背中を一生懸命に撫でて慰めながら、俺は自分の心がどうしようもない深みにハマり始めていることに気付いた。

 

 

 ――その後、俺たちは交代で、普段味わえない広いお風呂を堪能した。

 何も泊まる用意をしてこなかったので、風呂上がりにはホテルのバスローブを着て、そのあとは並んでフカフカの大きなソファに座り、一緒にテレビを見て……さっきまでのことを忘れたように、出来るだけ明るくおしゃべりした。

 ロシアの大統領が昔も今も相変わらず同じなこととか、読みかけの本の感想とか、俺が母と一回だけ行ったことのある、ネズミーランドパリの話とかを。

 いつか行こうねって約束して、やっとミーシャが笑ってくれたから……夜も更けたので、寝ることにした。

「俺、こっちに寝るね」

 読書用の灯りだけがついている薄暗いベッドルームに入り、窓側にある寝台に入って横たわる。

 ベッドヘッドについている、電灯のスイッチを消そうとした瞬間だった。

「……マコトと一緒に寝る」

「!?」

 何故か、ミーシャまで同じベッドに入ってきて、本当に驚いた。

 だって、折角柔らかくて大きなベッドが二つもあるのに、何でわざわざ!?

「ちょっ……折角床じゃなくてベッドに寝れるのに、どうしたの……!?」

 思わず訊くと、ミーシャは片膝だけシーツの上にのせたまま綺麗な眉を下げて俯いた。

「……嫌なのか?」

「嫌じゃないけど……」

 もしかして、不安がっているんだろうか。

 だとしたら、拒否するのは酷かもしれない。

「いいよ、一緒に寝よう」

 微笑んで見せると、ミーシャはやっと、ホッとしたような顔をした。

 不思議な気分で一緒に柔らかな羽根布団に入り、電気を消す。

「おやすみ、ミーシャ……」

 最近習慣になっている通りにそんな風に声をかけると、ミーシャがこちらに背中を向けたまま頷いた。

 明かりを消しても部屋は真っ暗にならず、外のイルミネーションの灯りが、布団の上にチラチラと落ちる。

 ……大人のミーシャもここで、こんな風に眠っていたんだろうか。

 一体、何を思って……。

 しばらく黙って目を閉じていたけど、色んな考えが浮かんで眠れない。

 ミーシャがもし、ずっとこのままだったら……。

 取り留めのないことをずっと喋って、笑い合って、こんな楽しい毎日が、ずっと続けば……。

 それじゃ、ダメなのかな。

 銃を渡して俺たちのこの関係が壊れてしまうくらいなら、いっそ……。

 答えのない悩みと、快適過ぎるベッドでかえって目が冴えてしまう。

 それはミーシャも同じだったのか、彼は壁側を向いたまま、俺に話しかけてきた。

「……マコト、俺……」

「うん……?」

 相槌を打つと、すごく小さな声でミーシャがつぶやいた。

8歳の時、母さんが死んだんだ……

「……うん」

 手を伸ばして、シーツの上に流れる金髪を、彼に悟られないようにそっと撫でる。

「それで、マフィアの下っ端だった親父と、狭くて汚れきった、ボロボロのアパートに、二人きりで暮らすようになって……親父はアル中で、酔うとすぐに俺を殴ったり蹴ったりした……」

 黙って聞きながら、胸がドキドキして苦しくなった。こんなこと聞く権利、俺にあるのか……。

「……俺は学校にも行かなくなって、そのうち、いつも外を出歩いて、なるべく家に帰らないようにし始めた……下水道とか、廃墟ビルとか……。そういうとこには似たような境遇の仲間がいて、……みんな、俺よりもっと悲惨だった。裸の上に、ゴミから拾ったサイズの合わないコートだけを着て、観光客に物乞いしたり、盗みをしたりして生きるんだ……身体は皮膚病と鼠の噛み跡だらけで、頭もシラミだらけ、ヤク中も、病気もちもいて……。でも、基本的にいい奴らばかりで、みんな助け合って暮らしてた。――特に女は、俺の見た目が好きだったのか、優しくしてくれて、食べ物をくれたり、色んなこと教えてくれたりしたし」

 想像以上のミーシャの過去に、俺は気が付いたら唇を強く噛んでいた。

 確かに、そんな風に暮らしていた仲間なら、今は生きている方が稀と言えるかもしれない。

「……ある時に、ひさびさに家に帰ったんだ、何となく、母親の事を思い出して……。そうしたら、ドアを開けた玄関先に、親父が血まみれで倒れてた。銃で撃たれた痕があって、――後から聞いた話じゃ、売り物のクスリに手を出して、報復で殺されたんだと」

「う、うん……」

 余りにも悲惨な話に、手足の先が冷たくなっていく。

 なんだか、話の続きを聞くのが怖い――。

 ぶるっと震えた俺の方へ、ミーシャが身体の向きを変えた。

 俺の指先から髪がするりと離れて、こちらを向いた美貌が真剣な表情で俺を見つめ、また口を開いた。

「……俺が家の中に入ると、親父を殺した男は、まだそこにいた。俺に気付かずに、キッチンを荒らしてたんだ。多分、くすねられたクスリを捜してたんだろうな……。男は俺に気付いて、銃を向けてきた」

「……っ、それで、……?」

 痛ましい記憶を思い出すように、綺麗な眉を寄せ、彼は低い声を絞り出すように続きを話した。

「……その時、床に放り投げられた包丁が目に入って……とっさに拾って、その男の懐に飛び込んで、腹を刺した。……親父のカタキとかじゃなく、やらなきゃ自分が殺されると思って刺したんだ」

 耳を塞ぎたくなるような話に、歯を食いしばりながら頷く。

 ミーシャ……。

「近所の奴らが通報したのか、俺はその後すぐにやってきた警察に見つかって、捕まった。男を殺したことは、何も言われなかったけど、そのあとはチェルタノヴォの孤児院に入れられて、悲惨な生活だったよ。……でもそれも、長くは続かなかった。しばらくして、父親の兄さんだと言って、知らない男が俺を引き取りに来た。父親には兄弟なんて居なかったはずなのに……。車に乗せられた後も、なんだか嫌な予感がして、俺はそいつに連れてかれる途中で、走ってる車のドアを開けて、外に飛び出した。……」

「それで……?」

「そっから先は、何も思い出せない。気付いたら、マコトの部屋にいたってことしか……」

「そう、か……」

 まさか、そんなタイミングで記憶が途切れてるなんて――。

「すごく大事なこと、話してくれて、有難う……」

 それだけをやっと言って、俺は自分が泣いてしまうのを堪えた。

 でも、ミーシャの暗い色の瞳を見てると、やっぱり我慢できずに涙が出てしまいそうで……。

 だって、今は忘れているかもしれないけど、彼がこうして大人になるまでにも沢山、色んなことがあったに違いなくて……。

 涙目になってる俺に、ミーシャは柔らかく微笑んで、布団の中で少し遠慮がちな感じで腕を伸ばしてきた。

 俺は、肘をついて少しずつ彼の方に近寄っていって、……生まれて初めて、自分から、血の繋がらない人の身体をギュウッと強く抱きしめた。

 言葉じゃ伝えきれない思いを、体温の触れた部分から流し込むように。

 一つのベッドで男と抱き合うのは、もしかしたらおかしいことかもしれないけど……でも、友達を慰めたかった……。

 胸のあたりに響くような感じで、ミーシャがまた喋り始める。

「……マコトは俺を殴らないし、何も無理強いしない……優しくて、部屋もあったかくて、美味しい食事と面白い本があって、いつも清潔で。街もモスクワより暖かいし、……もしかしたら俺は、あの時車から落ちて死んで、天国に来たのかもな。別の俺に生まれ変わって……」

 そんなことあるわけがない、現に壊れてしまったパソコンが大人のミハイルの存在を示しているのに。

 でも、そんな突拍子も無い事を言い出す彼が、凄く可愛く思えて、俺はくすくす笑った。

「いやいや、俺の家は屋根裏だし、パリもパリで色々あるから、全然天国なんかじゃないと思うよ……」

 柔らかく回した俺の腕の中で、濡れたような夜空の色の瞳が瞬き、小さく首を振る。

「マコトは俺の守護天使だ」

 大真面目に言われて、面食らった。

「お、俺は全然そんなんじゃ……!」

「……そう思ってたいんだ、俺が。だって、それならずっと一緒に居られる」

 俺の腰が、がっしりとした両腕で強く抱き寄せられる。

「ミーシャ……!?」

「――もっと、分かりやすい言い方するか? 俺はマコトが好きだから一緒に居たい」

 のしかかるようにミーシャが俺の身体の上に乗ってきて、背中がマットレスに押し付けられた。

 ごく至近距離で見つめられながら、相手の身体の熱さと重みに言葉を失う。

「す、すき……?」

 好き。

 好きって、俺を……?

 頭の中で言葉を繰り返しても、思考がフリーズしたまま動かない。

 何を言われてるのか理解できていない状態で、ミーシャの怖いほど整った顔立ちが近付き、その唇が俺の右の頰にそっと口付けた。

 柔らかい髪が触れるのが擽ったくてゾクリと何かが腹の方へ走り、相手の肩をぐっと掴む。

「ミーシャ……っ?」

 遠ざけるように力を込めてもビクともせず、今度は左の頬にキスされた。

 女の子の友だち同士みたいに、チュッ、チュッと。

「ちよっ、まって、は、恥ずかしいからそんなにキスしないで……く、くすぐったい……」

 好き、という言葉とキスがやっと繋がって、頰が熱くなる。

 でも、それって友達としてってことだよな……!?

 そうでなければ、兄弟とか……。

 でも、最後に俺の口がミーシャの形のいい唇にすっぽりと塞がれて、さすがの俺も異変に気が付いた。

「んん……!?」

 生まれて初めてだった――唇にキスされたのは。

 やめてと訴えるべきなのに、驚き過ぎて身体が動かない。

 それどころか、閉じられたまぶたの長く密生した睫毛に見とれ、気が付いたら流されるままになっていた。

 頭がぼーっとするうちに、敏感な表面をチュッ、チュッと吸うように啄ばまれ始める。

「ぅ、ン……っ」

 そこからジンとした熱が生まれてくるのを感じて、意識がとろんとしてしまう。

 唇の感触って、こんな、柔らかくて気持ちいいんだ……。

 すりっと擦れては離れるキスの合間に、ハフ、と息をつくと、今度は上唇と下唇を器用にめくりあげるみたいに内側の粘膜にも口づけられて、強く吸われた。

「ンふぁっ……」

 口を大きく開けて、乾いた表面だけでなく、濡れてヌルヌルした部分まで擦り付けられて、無防備に上下の歯を開けたまま、いやらしい音と感触で頭がいっぱいになる。

 だめ、だ。これ以上したら大人のキスになる。

 いや、もうなってる……?

 分からない、でも気持ちいい……。

「凄い、やらしい顔……マコト、唇が厚めだから、キスすると気持ちいいな……」

「……?」

 気がつくと、力が抜けてベッドに投げ出した両手の指に長い指が絡められていて。

 深く重ねた唇の奥には厚い男の舌がねじ込まれて、今度は俺の前歯の内側が探られ始めていた。

「んあっ、はア……」

 上顎、擽ったい、ゾクゾクする……っ。

 密着しながら悶えるうちにお互いのバスローブがはだけて、胸全体に押し付けられる分厚い筋肉が熱くて、心臓がドキドキするし、頭はぼうっとして……。

 舌同士が大きく擦れるとゾワゾワっと快感が駆け巡って、もっと別の所も擦って欲しくなる。

 まるで違う自分を目覚めさせられてるように、触れてる場所全部が敏感になり過ぎて辛い。

 ああ、ダメだ、これ、ダメになる。何も考えられなく……。

 うっとりと目を閉じて、されるがまま受け入れる悦びに身を投げ出す。

 高い鼻筋が角度を変え、より深く喉奥に侵入されて、ムズムズとした熱感と息苦しさが高まった。

「ング……っ」

 下腹から何か迫り上がるようなものを感じて、ビクンと腰を引いた。

 あぁ、いつのまにか俺の、出る寸前くらいガチガチになってる……っ。

 痛いぐらい勃起してるのを、ミーシャの下半身に擦り付けないように太腿をギュッと閉じて膝を上げる。

 それでも舌をネロネロ弄ばれてると、ちんぽが触られてるみたいにムズムズするので、無理やり濡れた唇をもぎ離し、顔を横にずらした。

 透明な糸がずぶ濡れの粘膜同士を繋いで、ぷはあっと息が漏れる。

 すると熱い唇は名残惜しげに俺の耳たぶに吸い付いてきて、ねっとりとしゃぶり始めた。

「はあっ、ミーシャ、だめだ……待って、」

 そこもおかしいほどドクドク鼓動が高鳴り、耳たぶを包む濡れた熱感で怖いほど考えがまとまらない。

 一体、何が起きてる――。

 どうにか手をもぎ離し、相手の体の下から逃げ出そうとすると、バスローブの肩が乱暴に掴まれた。

「……アッ……」

 白いローブが無理やり剥がれて、殆ど上半身を裸にされながら、耳穴に奥まで舌をねじ込まれてゆく。

 そのままハァハァと荒い息をかけながらグチャグチャ舌先を出し入れされて、思わず悲鳴が漏れた。

「あはぁあっ……!」

 その卑猥な音と、擽ったいのにぞわぞわした堪らない快感は、俺が今まで生きてきて感じたことのないもので――。

「い、やだァ……っ!」

 も、無理だ、それ以上されたら、何かが……っ、出ちゃいそうになる……っ。

 ようやく抵抗らしいものを始め、揉み合っていると、相手の股間の凶器のようなモノも、硬く熱くなって俺に押し付けられていることに気付いた。

 ――信じられないけど、ミーシャは俺に欲情してる――ということに、否応なく気付かされる。

 って、なんで俺に……まさか、ミーシャはゲイだったのか……!?

 いや、でも触られて反応してる俺も同じ……!?

 頭の中がキャパオーバーになって、何かが心の中でぶちんと切れる。

 俺は無我夢中で彼の着ているバスローブの前身頃をガッとつかんだ。

「っ、駄目だ、って言ってるだろっ、……ミーシャ!」

 俺は相手の重心をできる限り自分に引き寄せて、腹筋を使って相手を巻き込みながら素早く回転し、上を取った。

 同時に俺のバスローブを掴んでいた片腕を取り押さえ、袈裟固めを決める。

「……うっ……!?」

「ごめん……! 言ってなかったけど、俺柔道やってたんだ……っ」

 ちなみにフランスは柔道が学校で体育の選択科目になるくらいはポピュラーで、オリンピックでも金メダリストが出てるんだよ……って、教えてあげたいけど、今はそれどころじゃない!

「くそっ、マコト……っ、腕放せ……っ」

 ミーシャが抵抗して、身体を回転させながら全力で寝技を返そうとしてくる。

 その動きはどう見ても素人じゃない。

 驚く間も無くミーシャは凄まじい力で易々と身体の位置を逆転させ、次の瞬間には反対に俺が袈裟固めを仕返されていた。

 筋肉量だけじゃなく、柔軟性も瞬発力も、研ぎ澄まされた肉体のそれだと悟る。

 複数の格闘技で、相当鍛錬している人間の身体だ。

「うっ……!」

 腕を取られ、バフっと背中がベッドに押し返されて呻く。

 その時相手の表情を一瞬見てしまい、俺は凍りついた。

 まるで、冷たい蒼い血の通う、無慈悲な悪魔のような――。

「ミーシャ……!」

 名前を呼ぶと、彼は一瞬で我に返り、ハッとしたようにいつもの彼の表情に戻った。

「あ……っ、ごめん……」

 大きな身体がパッと俺の上から離れ、ギリギリと締め上げられていた腕が解放される。

 でも、ひどい痛みは中々消えず、身体の震えが止まらなかった。

 キスされたことよりも、予期せぬ格闘と、見たことのないミーシャの表情がショックで、起き上がることが出来ない。

「……マコト、怒ってるのか……?」

 ミーシャが不安がって俺の顔を覗き込んだ。

 それを気遣ってあげる余裕もなくて俺がボンヤリしていたら、泣きそうな声でもう一度名前を呼ばれた。

「マコト!?」

 ハッとしてミーシャと目線を合わせる。

「……ご、ごめん……びっくりしただけだから……っ」

 動揺しながら上半身を起こすと、ベッドの上でがばりと身体を抱き締められた。

「っ、ご、ごめん、骨、折れなかったか」

 俺以上に相手が動揺しているのが身体の震えで伝わる。

「大丈夫だよ、折れたりなんかしてない。先に乱暴した俺が悪かったんだ――」

「良かっ……」

 絶句したままなので、少し身体を離してミーシャの顔を見つめた。

 頬に涙が溢れている。

 泣いてる……。

 本当にいつもの彼なんだと確信して、俺はなるべく優しく言い含めた。

「でもね、ミーシャ……友達には唇にキスはしない……そうだろ……」

 ミーシャが濡れた睫毛を伏せ、小さく首を振る。

「俺は……友達にならなくちゃ、一緒にいられないのか……」

 背中に回る彼の腕が、逃さないようにするみたいに強くなった。

 驚いて、訊き返す。

「……それって、どういう意味……」

 すると、ミーシャは俺の腕の中で俯き、吐き出すように話し始めた。

「……マコトに会ってから、胸のあたりがずっと変なんだよ……一緒にいると凄く安心するのに、マコトの顔を見てると……なぜか凄く、変な気持ちになる……ずっと前からマコトを知っていて、そばにいて、何かをしなくちゃいけないような……変な気持ちに。――それって、俺が前からマコトを好きだったってことだと思うんだ」

 俺の中で、絶望が降り積もってゆく。

 ……ミーシャ、それは、君が思うような、好意じゃない。

 だって、俺と大人の君は会ったことすらないのだから。

 その気持ちの正体は、殺意だ……。

「観覧車の中でマコトをハグして、確信した。俺がこうなる前からも……俺はきっと、マコトのことが、好……」

「……それ以上言わないで……聞きたくない」

 ミーシャの言葉を遮って、俺はベッドを降り、窓を向いて床に座り込んだ。

 ――胸がぐちゃぐちゃに潰されたみたいに苦しい。

 ……もしも、本当にミーシャが俺の友達で、好きだと言われたら……俺は嬉しかったと思う。

 男同士だけど、でも、きっと凄く嬉しかった……そんな風に言われるのが初めてだったから。

 だからかもしれない、こんなに悲しいのは……。

「……もしかして、マコトも俺のことを好きなんじゃないかと思ってた。だから、キスしたんだ、俺は」

 震えるような声が背後で呻く。

「……でも、違ったんだな……マコトは好きな人としかこういうことはしたくないって言ってたのに……悪かった……ごめん」

 その言葉が、あまりに純粋で、幼くて哀れで……。

 今すぐ立ち上がって振り向いて、そうじゃないんだと否定して叫びたかった。

 ミーシャが嫌いな訳じゃない。

 むしろ、好きだから辛いんだと。

 好きだから……。

 一緒に過ごす内に、俺もミーシャのことを、とても好きになってしまってたんだ。

 恋とか友情とか、家族愛とか、名前を付けられるような感じではとても無いけれど……このままで、ずっと一緒にいたいと心のどこかで願う程には。

 だからさっき、キスされても嫌じゃなかった。

 むしろ……。

(こんなことになったらもう、一緒にいるのはダメだ……)

 俺は初めて本気で、ミーシャと離れなければいけないと思った。

 一緒にいるのは、彼にとっても俺にとっても良くない事なんだと、ようやく自覚した。

 だって、もしミーシャが記憶を取り戻したら……あの冷たい目をした彼が本当の彼だったとしたら、俺なんかに好きだって言ったり、キスしたりした自分の失態を許せるだろうか?

 殺意を好意と勘違いして、殺そうと思った男なんかにキスをしたなんて知ったら。

 気分が悪いどころか、俺を殺しても足りないと思うだろう。

「もう、寝よう、ミーシャ。俺、明日忙しいから、家に帰らずに出かけるから」

 それだけ言って立ち上がり、俺は黙って歩いて反対側のベッドに移った。

 豪華な羽毛の布団をめくり、柔らかいベッドに横たわる。

 家の床に男二人で転がるよりもずっと快適なはずなのに……その夜は悪夢ばかり見て、何度も目が覚めてしまった。

(続)


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