俺を殺しにきた男2

 次の朝、俺達は殆ど会話もないまま、気まずい感じでホテルをチェックアウトした。

 ミーシャは先に地下鉄(メトロ)に乗り、宿帳にあった住所へ行った。

 俺は、街中で彼と別れてすぐ、携帯電話を出し、唯一頼れる友人――中国人のヤンミンに電話をした。

『……アロー、マコト。どうしたんだ』

 電話越しの明るい声に救われたような気持ちになりながら、沈みがちな心を鼓舞して送話口に話しかける。

「……ごめん、ヤンミン。この前言ってた話なんだけど、本当に頼ってもいいかな。その……」

『ああ、俺の家に泊まりに来るって話か? 勿論、いつでも大歓迎だぜ』

 善意に溢れた返答に、有り難くて涙が出そうになる。

「ありがとう。実は、今夜からちょっと、泊まらせてもらいたいんだ……」

『マジで? 楽しみにしてるよ。いつ来る?』

「これから家に帰って荷造りして、それからすぐ行ってもいいかな。――そういえばヤンミンは、住所どこだっけ?」

『いやいや、車で迎えに行くよ。準備が出来たら電話してくれ。マコトは確かベルヴィルだよな?』

「うん。住所は後でメールする」

『オーケー、連絡待ってる』

 携帯電話を切ると、バッテリーの表示が5パーセントになっていることに気付いた。

 旧型なので電池の減りが早い上、泊まるなんて思ってなかったから、充電器も用意してなかったしな……。

 ポケットに電話を突っ込みながら、深いため息が漏れる。

 別れ際、地下鉄の入り口に入る時の悲しそうなミーシャの顔が眼に浮かんだ。

 家に帰って、俺が居なかったら寂しがるだろうな……。

 こんなこと、裏切るみたいですごく心が痛い。

 けど……このままずっとそばに居たら俺の方がおかしくなる。

 どんどん深入りして、溺れて……昨日までだってもうどうしようもないくらいだった。

 あんな風に熱烈に好き、みたいな感じで迫られて――これ以上一緒にいたら、俺自身が勘違いしないでいられる自信がないし……。

(ヤンミンに会えたら、ミーシャのこと相談してみよう、かな……)

 心の中で思案しながら、ベルヴィルに帰るため、地下鉄の階段を降り始めた。

 

 

 今も全く復旧工事が進まない地元の光景は、改めて見るとさすがに悲惨だった。

 パリの中心部の綺麗なホテルで一夜を過ごして帰ってきたせいで、余計に俺の目に惨状が際立つのかもしれない。

 平日は瓦礫の運搬用のトラックや、作業員が出入りしてはいるから、日曜日の今日はたまたま作業が止まってるだけかもしれないけど……。

 人が見当たらな過ぎて、まるで内戦跡だ。

 立ち入り禁止テープがあちこちに張り込んであるのを横目に、俺はドアの壊れたままの自分のアパルトマンに入った。

 この建物も、殆どの住人が公的な施設に避難してしまったせいか、すっかり廃墟のような状態で、ちゃんと住めてるのが奇跡みたいだ。

 夜になるとどこの窓も真っ暗だし、階段を上っていても誰ともすれ違わないし……かなり物騒な状態だよな、考えてみると。

 今まで、ミーシャと一緒にいると何故だか心強くて、安心して寝たり起きたりしていた。

 でも、今は俺一人で、昼間なのに堪らなく不安になる。

 俺が彼を助けたと思っていたけど、逆に助けられていたんだと思い知った。

 普通に考えて、ドアがちゃんと閉まらない家に一人で住むなんて怖すぎるしな……。

 窓に板を打ち付けたままの部屋は真っ暗で、電気を点けてからクローゼットの下着や服を漁った。

 取り敢えず一晩分……いや、もう少し持って行こうか。

 悩んでいると、ずらしたまま立てかけていた壊れたドアの向こうで、ギシッという音がした。

(ミーシャ……?)

 いや、違う。彼は地下鉄で俺とは別の路線に乗ったから、こんなにすぐ帰ってくるはずない。

 今頃は、セーヌ川を挟んで反対側にいるはずだ。

 ヤンミンには住所はまだメールしていないから、来るはずがない。

 隣人達もみんな退去してるし、だとしたら、この屋根裏部屋まで上がってくるような人間は……。

 洋服を掴んでいた手が止まり、指先が冷たくなって震えだす。

 恐怖で固まっていると、木で出来た踏面を蹴って上がってくる乾いた音がしだいに近付いてきた。

 この部屋から出るには、階段を下りるしか方法がない。

 それか、窓から飛び降りるかだけど、そんなことしたら死ぬ。

 俺は服がはみ出たままクローゼットを閉め、電気も消して、暗い部屋を必死で見回した。

 隠れなくちゃ、どこかに……っ。

 シャワーブース……いや、すぐ見つかる。いないふりをしなくちゃいけない……、どこなら……!

 本棚の陰、机の下、そして最後に寝床を見て――凍りつく手足に鞭打って四つん這いになり、ベッドの下の狭い空間に潜り込んだ。

「はあっ……、はあっ……っ」

 息を殺したいのに、極限まで高まった緊張と心臓の高鳴りでそれが難しい。

 唇を手のひらで覆い、フーッ、フーッと音を抑えていると、ついに足音は俺の部屋の前まで来てしまった。

「……!」

 ズズ、と扉がずらされ、ゆっくりとした足取りで誰かが入ってくる。

 ベッドと床の隙間から、その男の脚が見えた。

 学生っぽい擦り切れたようなデニムに不似合いな、妙に仕立てのいい革靴……。

 そのアンバランスさをどこかで見たことがある。

 ――ああ、ヤンミンだ……彼がそんな靴を履いていた。

 一瞬安堵しかけて、いや、と息が止まった。

 住所を教えても居ない、ましてや家の階数だって伝えてないのに、何故ここに……?

 大学が俺の住所を教えてくれるほど親切だとは思えない。

 もし、彼がそれを知っているとしたら……。

 やがて脚は、無言のまま勝手に俺の部屋を歩き回り始めた。

 もっと相手がよく見えるように、俺は震えながらズルッと身体を引きずり、ベッドの端ギリギリまで顔を近づけ、見上げた。

「……っ」

 ――俺の目に映ったのは、下ろした手に、奇妙な形の銃を持っているヤンミンの姿だった。

 その銃が、テレビのスパイもので見るような……先端に黒い筒のような消音装置を装着したものだと気付いて、息が止まる。

 モデルガンとか、ふざけて持っているようなものじゃない。

 俺がかつて、このベッドのマットレスの中に隠したような――黒光りする本物。

 まさか、ヤンミンが、そんな……。

 受け入れがたい現実は、間も無く決定的なものになった。

 ガシュッ、ガシュッ、というくぐもった発射音の後、クローゼットの扉が開けられたのか、軋むような音が続いた。

 目を凝らす俺のすぐ数メートル先で、クローゼットの扉がバンと乱暴に閉められる。

「……チッ」

 舌打ちしている男の後ろ姿は、あの快活で人当たりのいい彼とは思えない。

(あの中に、隠れてると思って、撃ったのか……)

 俺は絶望と混乱に震えながらベッドの陰の奥へズリズリと下がった。

 ヤンミンが、俺を殺しに来た……。

 余りにショックなその事実を現実に受け入れることが出来ず、呆然と涙だけが流れ、毛羽立った床の絨毯に染み込む。

 これでもう分かった。

 誰かが本気で俺を殺したがってるんだってこと。

 そしてミーシャもヤンミンも、その誰かが送ってきたんだということ。

 つまり俺には、最初から友達なんて一人も居なかったんだって事実が――。

 俺のそばに居たのは、俺を殺しに来た男達、だけ。

 ――父さんも母さんも死んで、俺もひとりぼっちでこんなところで殺されるなんて。

 何のためにこの世に生まれてきたんだろう。

 もうすぐ殺されるかもしれないっていうのに、そんなことを考えると涙が溢れて仕方ない。

 それでも、まだ自分から死を求めるには早いと思った。

(そうだ、携帯電話で警察を呼べば……っ)

 ――何も話せなくても、逆探知で来てくれるかもしれない。

 デニムのポケットに手を伸ばして携帯を取り出す。

 ところが、すでに電池が切れていたのか、画面は真っ暗だった。

 ああ、何で帰ってきてすぐに充電しなかったんだっ。

 不幸な偶然の重なりに絶望しながら、必死に次の可能性を考える。

 ヤンミンが俺に気づかずに去ってくれないだろうか。

 彼の足は、本棚の向こうの方へ行っている。

 俺の部屋は狭い、すぐに戻ってくるだろう。

 その前に、走って逃げるとか……。

 いや、ダメだ、音を立てずに階段を下り切れる自信がないし、階段の上から撃たれたらおしまいだ。

 こうなったら、捨て身の作戦しかない。

 後ろから襲って相手を寝技で取り押さえて、銃を奪う。

 彼は俺よりも背が高い、出来るだろうか?

 昨日、あのミーシャのことだって一瞬押さえ込めたんだから、きっとできる――生きるならやるしかない。

 大きく深呼吸をして、ガチガチの身体の筋肉を少しでも和らげようと努力した。

 そして、よし行くぞと絨毯の床を手のひらで掴んだ瞬間――。

 何一つ音がしなかったのに、ヤンミンのそれではない二本の脚が何故か、目の前に見えていた。

(え……。もう一人、いる……?)

 頭が混乱して心臓が止まりそうになる。

 そして、驚いたのは俺だけではなかった。

 シャワーブースを点検して戻ってきたヤンミンが、驚き叫び始めたのだ。

「うわぁっ! なんだてめえ、何もんだ!? いつ入ってきやがった!?」

 聞いたことのないような乱暴な口調で叫ぶヤンミンに答えたのは、低く艶やかな声だった。

「お前、マコトの部屋で何してるんだ……? そんな物持って」

 冷静な、だけどどこかに幼さの滲む口調。

 ――ミーシャ!

 どうしてミーシャがここにいるんだ!?

 もう帰ってきたのか!?

 叫びそうになって口を押さえ、ベッドの端ギリギリまで移動する。

 目の前に立っている黒いブーツの長い脚は、やはりミーシャだ。

「分かったぞ……てめえ、兄貴が依頼したプロだろう」

「……?」

「てめえがしくじりやがったから、監視役の俺が手を汚す羽目になったんだ。今更ノコノコマヌケ面現しやがって……邪魔すんならてめえもぶっ殺すぞ」

 銃のスライドが引かれ、銃弾を装填する音がジャキンと上がったのを聴き、俺は咄嗟にベッドの下から這い出た。

「ミーシャ……! 危ない!」

 俺のあげた叫びに、銃をミーシャに突きつけていたヤンミンの気がそれ、短髪の頭が凄い形相でこちらを振り向く。

「マコトてめぇそんなとこに……っ」

 その瞬間、ミーシャが両手でヤンミンの銃の銃身を掴み、軽々と天井に持ち上げた。

「!?」

 銃身を握る手が、更に目にも留まらぬ速さで銃口を反対に回転させる。

 関節を無理やり捻りあげられる形になったヤンミンの手が堪らずに銃から離れた。

 ミーシャは恐ろしいほどの正確な動きでその銃を奪って構えなおし、丸腰になったヤンミンの頭に銃口を向けた。

 その間、わずか1秒にも満たない。

 目の前で銃口を向けられながら、顔色一つ変えずにそんなことをやってのけた男を、俺は床に膝立ちになったまま呆然と見つめていた。

「み、ミーシャ……」

「マコト、……こいつ、撃つ?」

 淡々とそう訊かれて、ウイ、ともノン、とも反応できない。

 本棚の横でヤンミンが情けない悲鳴を上げ、震えながら首を横に振った。

「まっ、待て、お前銃を向ける相手が違うだろうが……!? 俺たちはお前の雇――」

「……お前、何でマコトを撃とうとした? どうしてここに来た。俺の質問に答えろ」

「何でって、そんなの当たり前だろうが! 命令だからだよ!」

「命令? 誰のだ」

「てめえ、四龍会を怒らせたら、どうなると思う。パリにゃ住めなくなるぞ……っ」

「話にならないみたいだな。……話す気が無いなら撃つ」

「まっ待て、やめろ……! お前、何でそんな……まさか、そいつが何もんだか、知ってて寝返ったのか……?」

「さっきから、一体なんの話をしてる? ――マコトが誰だろうが俺は最初からマコトの味方だ」

 躊躇なく引き金を引こうとしたミーシャを、俺は大声で止めた。

「だめだ、ミーシャ、それは……っ!」

 叫びながら俺が後ろからミーシャの腕に飛びつくのと、発砲音が上がるのとが同時だった。

 壁に弾丸の撃ち込まれる鈍い音と共に、間一髪で額に穴を開けずに済んだヤンミンが真っ青になって縮み上がる。

「ひいっ!」

「次は外さない」

「……っ、ミーシャ……!」

 まるで悪魔のような冷たい表情で言い放ったミーシャの腕にすがって留めている内に、ヤンミンはダッと俺の部屋の出入り口を飛び出した。

 転げるような速度で逃げていったのか、螺旋階段の途中で転んだような凄い音が上がり、いつまでもシンとした部屋に響く。

 あぁ……。

 お、俺、生きてる……。

 二人きりになった途端、全身から力が抜け、床に崩れそうになった俺を、ミーシャが強い両腕で抱きとめてくれた。

 その手から銃が床に落ち、温かい手のひらが俺の背中を愛おしそうに撫でる。

「……マコト、大丈夫? 怪我してないか……?」

「ミーシャ、」

 縋り付くように抱きしめ返し、名前を呼びながら、その温もりに胸がいっぱいになっていく。

「……ありがとう……っ」

 助けてくれた……。

 昨晩、俺はあんなに酷い拒絶をしたのに。

 ミーシャは、来てくれた。

 俺の周りの全部が偽りのように思えていたけど、――ミーシャは、少なくとも12歳時点でのミーシャは、間違いなく俺を助けてくれた、それだけは真実だ。

「昨日、怒ってただろ、マコト。だから、俺が居ないうちに居なくなったりしないか不安になって――それで早く帰ってきたんだ」

 強く抱きしめられながら優しくそう言われて、涙が頬に溢れて落ちた。

「怒ってなんかいないよ、……ほんとに、ごめん」

 絞り出すように掠れた声で、俺はやっとそれだけを伝えた。

 ミーシャが俺の顔を真剣に見つめる。

「マコト、あいつ多分アジア系のマフィアだよな? 何であんなやつに命を狙われたんだ……何か事情があるのか?」

「……っ、分からない……、分からないんだ……。多分、俺の父親に関わることだと思うんだけど、もう何が起こってるのかっ、何で俺なんかがこんな目に遭うのか全然分からなくて……っ」

 泣きじゃくりながら、俺は今まで心の中でつかえていたことを吐き出すように訴えた。

 こんなこと彼に言ったって戸惑うだけだろうに、でもミーシャは落ち着いた様子で、俺の背中を何度も撫でて宥めてくれた。

「マコト、……分かった、分かったから。落ち着いてから話して、一緒に考えよう。ここに居たら、あいつが仲間を呼んで来るかもしれない。別の場所に行った方がいい……。いいか?」

「う、うん……」

 啜り上げながら、夜空色の瞳を呆然と見つめる。

(ミーシャ……?)

 ミーシャは美貌にうっすらと微笑みを浮かべ、まるで大天使のように堂々としていた。

 彼はこんなに落ち着いた人間だっただろうか。

 昨日のかなり頼りなげだった彼とのギャップに驚いて、恐怖や、友人に裏切られたショックすらも薄れてしまいそうになる。

 まさか、記憶が戻って……?

 いや、でも口調や雰囲気はどこか幼いままだし、今までの彼だ。

「マコト、行こう。もう戻らないつもりで用意するんだ、早く」

 強い口調で急かされて、俺は戸惑いながらも、その言葉に頷くしかなかった。

 

 

 俺たちは短い時間で、少ない荷を出来るだけ纏めた。

 早く準備のできたミーシャが先に階段を下りて行ったけど、俺は流石に持っていくものが多くて、少し手間がかかった。

 リュックに服と、何かあった時の為の日本のパスポートと、母の遺品の手紙や写真を入れて――最後に、ミーシャの銃をマットレスの穴から取り出し、分からないよう、リュックの一番底にある、ジッパーの独立している部分にこっそりと入れる。

 置いて行こうかとも思ったけど、いつかはミーシャにこれを返さなくちゃならなくなる気がして……。

 マットレスの穴には、代わりにヤンミンの銃を押し込んだ。

 ヤンミンはミーシャのことを仲間扱いしてたんだよな……だからあいつは、ミーシャが銃を向けてきたときにあんなに戸惑っていた。

 ヤンミンは逃げたけど、ミーシャはあんなどう見てもカタギじゃない人を敵に回して、タダで済むんだろうか。

 俺、ミーシャに凄く迷惑を掛けることになってるのかも……。

 悩みながら重い足取りでアパルトマンの地階に降りると、何故か、アパルトマン前の路上にぽつんと黒いシトロエンのセダンが駐車してあった。

「後ろの座席に荷物入れて、乗って」

 車の前に立っていたミーシャにそう言われ、面食らう。

「え……っ、あれ、ミーシャの車……!?」

「いや? 多分さっきの男のだ」

 さらっとそう言われて面食らった。

 えっ、ヤンミン、車を置いてったの……!?

「さっき帰るとき、怪しい車が止まってると思って、マフラーに細工して動けないようにしといた」

 なっ、なんてことを……。

 呆然とする俺の前で、ミーシャが車の後ろに回り、マフラーに詰めていたらしきボロボロの新聞紙を地面から拾い、公共の大きな路上ゴミ箱に投げ込む。

「そ、そんな悪戯のやり方、よく知ってたね……」

 悪事に感心してしまった俺の目の前で、ニヤッとミーシャが笑った。

「……雪でマフラー塞がれてエンストしたり、排気ガス中毒で車の中で死ぬ奴がよくいたからな」

 ひいっ、雪国(?)怖い……。

 ブルブルしている俺の目の前でミーシャが車のドアを開けた。

「ほら、鍵もついたままだ。さっきのあいつ、車を出そうとして動かないもんだから、飛び出して逃げたんだな。よっぽど慌ててたんだ……笑えるな。行こう、マコト」

 俺を車内に促しながら、ミーシャが悪戯っぽく唇の端を引いて笑う。

 その顔はいつものどこか幼い彼のものだ。

 本当にこの車に乗っていいものかと――乗れば二人して地獄に行くことになる予感もするのに、俺はつい助手席に乗っていた。

 ミーシャもまた違和感なく反対側から運転席に乗り込む。

 そこでやっと、俺はハッとして叫んだ。

「ミーシャ、まって、12歳だよね……!? 運転なんて無理じゃない!?」

「大丈夫だ、カード入れに免許が入ってたし、多分身体が覚えてる。マコトに技をかけられた時も、さっき銃を向けられた時も、勝手に身体が動いたし、車もどうにかなるだろ」

 ええっ……!

 そんな、免許証だって偽名かもしれないのにっ!?

「そ、それと車の運転とは別だよ! やっぱり普通に電車とかバスでっ」

「ダメだ。尾行されやすいし、行き先を予測されやすい。グズグズしてると山ほどあいつらが来るぞ」

 きつく言い放たれて、チクリと違和感を感じる。

 けど、言われた事はもっともで、俺は渋々と頷いた。

「だ、ダメそうだったらすぐ止まって……俺、運転代わったりできないから……」

 ――お金がなくて18歳になっても自動車の運転免許を取らなかったことを、今日ほど後悔したことはない。

 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、ミーシャはどこか上機嫌でエンジンをふかした。

 大胆な感じでクラッチを切ってシフトアップして、その雰囲気だけは頼れる感じなんだけど、車体が凄くガクガクしながら動き出して、ヒイっとなった。

 不安にかられて隣を見るけど、鼻歌でも歌いそうな顔でハンドルを操作している。

 人気のない道をどうにか走り出したけど、時々ガックン、となったり、エンストしたりして、どうやらほぼ、身体で運転を思い出す、というか学びながら走っているっぽかった。

(や、やっぱり、記憶が戻ったわけじゃないんだな……)

 助手席で身を縮こまらせながら、ふっと不安が心の中で湧いた。

 俺はこれからどうなるんだろう?

 今は休暇中だけれど、大学は?

 ラーメン屋もしばらく休むって電話しなきゃ……店長、これだからフランスかぶれはってまた言うだろうな。

 それにミーシャは、どこへ行くつもりなのか。

 隣に話しかけたいけれど、相当集中してるみたいだから、話しかけたら事故りそうだ。

 俺も舌を噛みそうだし。

 ただただ、綺麗で完璧な横顔を見つめていると、横目でにこりと微笑まれて、ドキンとした。

「……そういえば……マコト、俺のこと、嫌いになったんじゃなかったんだな。さっき俺が帰った時すごく嬉しそうだった。抱き締めても嫌がらなかったし」

 その言葉に、何故だか頬が熱くなる。

「嫌いになんかならないよ……!」

 すぐに否定すると、

「じゃあ、好きなんだ?」

 と返されて、言葉が出なくなった。

 朝までは彼から離れるつもりだったことを思い出して、葛藤がまた蘇る。

 ああ、俺、またダメな方向に進んでる。

 ミーシャの記憶が戻っても、俺を好きで居てくれる保証はないのに。

「ごめん……」

 それだけを口にして、俺は唇を強くひき結んだ。

「いいけどな。……それでも俺はマコトが好きだし、守る」

 ミーシャの完璧な横顔の視線がまた前を向く。

 俺も一緒にフロントガラスのほうを向いたけど、ブワッと涙が溢れてきてしまった。

 ……だって、そんなことを言ってくれる人は今、この世にこの人だけだ。

 俺の父や母が生きていれば言ってくれただろう言葉……。

 それがたとえ、ミーシャの思い込みだったとしても、心を動かさずにいることなんて出来ない。

「……っ、ごめん……」

 顔を覆って俯く俺の肩を、ミーシャの右手が撫でてくる。

 俺は一人じゃない、少なくとも今だけは……。

 涙が止まらない俺と、黙ったままのミーシャを乗せ、車は厚い雲の垂れ込める冬のパリの道を、猛然と走り出した。

 

 

 パリの市境をぐるりと取り囲む環状道路を出て、オートルートA1号線と呼ばれるベルギー方面に向かう高速に入ってゆく。

 パリを出る頃には、俺の涙も乾き、ミーシャの車の運転も大分安定していた。

 すっかり葉を落とし切ったプラタナスの並木をぼんやりと眺めていると、ミーシャが俺に話しかけてくる。

「近くでちょっと休んで、昼飯食いながら話しないか」

「……うん」

 頷くと、車は真っ直ぐに走っている道をそれて、サービスエリアの広々とした駐車場に入った。

 車と車のあいだに入るときにはヒヤヒヤしたけど、何とかぶつけずに止めてくれてホッとする。

 俺の座席の後ろに逞しい腕をあてながらバックする様子を横で見ながら、大人のミーシャは、きっと運転が上手かったんだろうなぁ……なんて思った。

 黒ハイネックの、顔に似合わず太い首筋のラインにうっかりときめいてたら、綺麗な顔に「ん?」って感じで微笑まれて――チュ、と一瞬だけ、唇にキスされた。

「うひゃあ!?」

 ビックリしてフロントドアの内側にぶつかるくらい飛び退く。

 心臓がうるさいくらい跳ね上がって苦しい。

 感触、柔らかくてあったかくて、気持ちよかっ……じゃ、なくて!

「と、友達でそういうことはダメって言わなかったっけ!?」

「……いや、マコトの方がキスして欲しそうな顔で俺のこと見てたから」

「そっ、そんな顔してない!!」

 即座に否定したけど、ドキドキして顔が熱い。

 酔っ払ったみたいに気分がフワフワして、これじゃあまるで俺、本当にキスして欲しかったみたいだ。

 そりゃミーシャは凄くかっこいいし、顔は男とか女とか以前に見惚れるほど美形だし、何より俺のこと助けてくれたけど……!

「マコト、顔真っ赤だ……もしかして、嬉しかった?」

 エンジンが止まって静かになった車内で、ミーシャが上半身を助手席に乗り出してくる。

 表情を覗き込んでくるように顔が近付き、俺を追い詰めた。

 それ以上近寄ったら、……っ。

「あ……!」

 顔を見せまいと防御してた腕を掴まれ、ぐいと引き寄せられて、前髪の間から額にキスが落ちる。

「う……っ」

 口じゃなくて、一瞬ホッとしたのもつかの間――そのスキに、顎を掴み上げられて唇を吸われた。

「ン……!」

 ビックリし過ぎて手も足も出ないまま、昨日覚えさせられた、誰かと体の粘膜を触れ合わせるゾクゾクとした快感が走って、意識がとろけていく。

「あはぁ……っ、んぶっ」

 厚めだと言われた俺の下唇が、からかうように噛まれたり、舌先でなぞられたりして、気持ちよくて全身がビクビク震える。

「んっ、ク……」

 抵抗も出来ずにだらりと唇が開いてしまって、付け込むような男の強引な舌で俺の中が蹂躙されていく……でも、もう突き放せない。

 奥の奥まで入り込むことを許して、喉の方まで生温かい舌で好きに愛撫されて、座席からお尻が浮くほど、恥ずかしい熱で下半身が疼いた。

 もう言い訳できない。俺、ミーシャのキスを……喜んでる。

「……っ、ふ……」

 涙目で相手の分厚い肩を掴んで離そうとしたのに、かえってまるで抱きつくみたいになった。

 それに気を良くしたのか、一方的なミーシャの攻勢が止み、唇が離れてギュッと両腕で抱き締められる。

 そして、甘くて艶やかな、どこか人を従わせるような強さのある声でミーシャが低く呟いた。

「……もう、俺から離れるな。俺がマコトを守るから、一人でどこか行ったらダメだ。……いいな、マコト」

 強引だけど、切々としたその訴えを退けることは、最早俺には無理だった。

 何より、彼の腕の中が温かすぎて。

 ――俺、好きって言われてからすっかりおかしくなってるのかも……。ミーシャに会う前の俺は、男どころか誰かにこんな感情を抱く余裕なんて無かったし、今だって殺されそうな状況で、もっと余裕ないはずなのに。

「分かった……ありが、とう……で、でもこんなキスはもう……」

 ダメだと言おうとしたら、金色に透ける繊細な髪がさらりと俺の頰に落ちて、啄ばむようなキスで言葉を奪われた。

[newpage]

 俺たちはサービスエリアのカフェでクロワッサンと熱いショコラを頼み、オープンテラスの席に座った。

 12月下旬の店先は身が切れるほど寒いけど、店の中で誰かに会話を聞かれる方が危ないので、苦肉の選択だ。

 外側はパリパリで、中はしっとりバターの風味の香るパンに齧りつきながら、俺はヤンミンの事をミーシャに話した。

「……すごくいい友達だと思ってたんだ。語学学校を終えた後、学部の授業に編入してきて……。教授の早口の授業が聞き取れないってよく嘆いていて、俺がノートを貸してあげたりしてた。まさか、マフィアだったなんて……思わなかった」

「手が込んでるな……。あいつは何で、マコトの命を狙ったんだ?」

「……分からない。ただ、気になることはあるんだ。俺の母さんが死ぬ前に、俺に言ってたんだけど……。18歳になったらフランスを出ろって。俺の父さんも、俺が生まれてすぐに殺されたから、俺も殺されるかもって、そう言ったんだ。その時は本気にしなかったけど……」

「マコトの父親を殺したやつがいるんだな? そいつが誰かは分からないのか?」

「分からない。それどころか、父さんの顔も名前も、何も知らないから」

「……」

 ミーシャは思案するように一呼吸置き、熱いショコラを一口飲んでから口を開いた。

「マコトの父親のことはよく分からないけど、さっきのやつと、あいつの組織のやつらは多分、誰かから金で依頼されてるだけだ。本当の依頼主はきっと、もっと別にいると思う」

「すごいね、なんで分かるの……?」

「ああいう奴らはただの一般人を狙ってわざわざ殺したりしない。よっぽどメンツを潰されたとか、恨みの筋じゃなけりゃ、金で雇われたとしか思えない」

 な、なるほど……。

 ミーシャって12歳なのに頭いいな。

 いや、それとも――彼が、戻りつつあるんだろうか。

 大人の彼に。

 一瞬ゾクッと背筋が凍ったのを、俺は悟られまいと、何でもないフリをして話を聞き続けた。

「他に、何か気付いたこととかはある……?」

「そうだな……気になるのは、あの男がまるで俺のことを知ってるみたいな口利いてきた事だな。俺はマコトの顔は前から知ってた気がするけど、あいつのことはサッパリなのに」

 心臓が痛いほど跳ねて、アワアワしながら俺はミーシャを見た。

「そ、そのことだけど……その……」

 いよいよ打ち明けなければならないだろうか。

 多分君も、俺を殺しにきた、殺し屋かも……しれないんだってこと……。

「――俺がマコトの事を好きで前からそばを付きまとってたから、仲間か何かと勘違いしたのかもしれないな。監視役とかなんとか言ってたし」

「えっ、あー……っ、うん……?」

 仲間か何かって……本当に仲間だとは考えないのか……ミーシャの頭の中どうなってるんだ!?

 なんていうか……俺を以前から好き、っていう思い込みが強すぎて、そこ自体を疑うって考えが一ミリも湧かないみたいだ。

 凄くありがたいような、困るような……銃のことを打ち明けるタイミング、どうしたらいいんだ……。

「まあ、あんな奴らに勘違いされたのはともかく、肝心なのはこれからだ。マコトの母さんの言う通り、マコトはこの国を出た方がいいかもな。――日本に行くんだ、マコト」

 話題の切り替えの早さと、全く考えたことのなかった選択肢の提示に、目が点になった。

「に、日本に……!?」

「だってマコト、日本人だろ。日本語は?」

 ミーシャは平然と俺の瞳を見つめた。

「話せる……店長には馬鹿丁寧で不自然だって言われるけど……。でも俺、一回も日本に行ったことがないよ……!? 母は日本で生まれた日本人だったけど、留学中に俺を産んで、家族から勘当されたって言ってたし」

「でも、殺されるよりいいだろう。もしかしたら、マコトのじいさんやばあさんは、マコトの父親のことも知ってるかもしれないし」

 ごくっ、と息を飲んだ。

 母の形見の中には日本からの手紙がある。

 その住所を辿れば、母の日本で暮らした家ももしかしたら分かるかもしれない……。

「このままあの場所にいたら危ないんだ。分かってるのか?」

「……う、ぅ……分かった……でも、マフィアから逃げるなんて……そんなこと、俺に出来るのかな……」

「俺がついてる、マコト。俺が絶対にマコトを守るから……さっき言っただろ」

 決然と言った目の前の男に、俺は言葉を失い、俯いた。

「マコト?」

 怪訝そうにミーシャが俺の顔を覗き込む。

 俺は意を決して口を開いた。

「ミーシャがそう言ってくれるのは有り難いけど、俺、一人で行く」

「……!? なんで」

「だって、ミーシャは全然関係ないのに、巻き込めない。俺は君に、守ってもらう資格なんてないし……」

「何でそんなことを言うんだ? 俺が守りたいって思うから守るんだ、資格なんていらない」

「ミーシャ……っ」

 涙声になりながら、俺は首を横に振った。

「だって、君は記憶もないし、それを取り戻すためには、俺の事に構ってる場合じゃないと思う……っ」

「俺の過去よりも、今のマコトの命の方が大事だって言ったら?」

 迷いもなくそう言い放った相手に絶句する。

「……っ」

「今朝、ホテルの宿帳に書いてあった俺の住所に行ったんだ。置いてあったのは洋服ぐらいで、家族も、生活の跡すら何もない、空っぽの部屋だった。……」

 必死な瞳が俺を射すくめ、綺麗な睫毛が伏せた。

「探す過去なんか、俺にはなかったんだ。マコトと一緒に暮らしてからが俺の人生だ……だから……」

 そのどこかすがるような口調に我慢できなくなり、俺は人目も憚らず叫んでしまった。

「――俺たち、ずっと一緒にいるなんて無理だ! だって、君は本当は」

 あいつの仲間で、俺を殺しにきた男なんだ――そう言おうとした瞬間、唇の真ん中を長い指でギュッと押され、シッと言葉を制止された。

「それ以上聞きたくない」

 いつか俺が言った言葉を、言い返せない口調で放って、ミーシャが小さなカフェのテーブル越しに、秀でた額を俺の額にくっつけてくる。

「俺は俺の意志で動く。マコトには悪いけど、もう、離してやれないからな……」

 その口調が余りにも大人びていて、恐ろしくなり、それ以上何も言えなくなってしまった。

 俺の目の前にいるのは誰なんだろう。

 子供か、大人か――俺の守護天使なのか、それとも、……俺をどこまでも追いかけて最後に殺す、悪魔なのか。

 

 

 

 俺とミーシャは、隣国のベルギーへ向かう北東向きの高速道路の途中で車を捨てた。

 ヤンミンの組織に、そちらの方面へ逃げたと思わせる為だ。

 タクシーを乗り継ぎながらミーシャは複数の地方都市の銀行でユーロを束で下ろして鞄に詰め、その一部で中古の目立たない国産車と、ミシュランのロードマップを買った。

 最終的に目指す行き先はイタリア方面だ。

 近場の駅や空港は待ち伏せされたら終わりだから、一旦国外に出て、俺が見た目で浮かない、なるべく日本人や中国人の観光客の多そうな都市を経由して逃げる――それが、ミーシャの提案だった。

 イタリア北部のミラノに、国際空港のマルペンサがあり、最終的にはそこを目指す。

 行くためには、大昔にローマと戦ったハンニバル将軍みたいにアルプス越えをしなきゃならない。

 勿論、今はちゃんとトンネルが通ってるから、象で山を越える程は大変じゃないと思うけど……。

 一度高速道路を逆方向に遡ったせいか、今日中に着くのはとても無理そうだ。

 パリから直接行ったとしても、8時間以上はかかる道のりだった。

 永遠に続くように感じる道を走って行くうちに、低く雲の垂れ込めた空と、なだらかな緑の小麦畑の地平線の向こうに、太陽が沈んでゆく。

「フランスは街を出るとどこもこんな感じだな……見渡す限り畑で、……あの遠くにポツンと建ってるのは何だ? 煙が出てる」

 まっすぐで単調な道を運転しながら、ミーシャが俺に訊いた。

 何だろうと左側のサイドガラスを彼の横顔ごしに覗き込むと、チェスの城のコマのような形をしたちょっと不気味な塔が遠くでもくもくと煙を吹き上げている。

「ああ、あれは原発だよ……この国にはいっぱいあるんだ」

「ふーん……こんな気候にも土地にも恵まれた国でも、そんなもんが必要なんだな」

「そう言われると不思議かもしれないね……」

 ロシアはここよりずっと寒くて、確か、耕地率は国土の中で一割も無いはずだ。

 永久凍土と、神秘的な針葉樹林の森がどこまでも広がる厳しくて美しい世界。

 このままずっと東へ東へ走り続けて、ミーシャの育った国を、見てみたいような気がした。

 車の中も外も次第に深い闇に包まれ始めていた。

 ミーシャの手元の計器盤だけがボンヤリと光って、彼の白い顔を照らしている。

 高速道路にはほぼ明かりというものは無いので、周囲で明るいのも、俺たちの乗っている車のライトと二百メートル以上車間距離の離れた前の車のテールランプだけ。

 まっ暗闇でのドライブは特に見るものもなく、助手席で頑張って寝ないようにしていたのだけど、昨日全く眠れてなかったせいか、何度もガクッと寝落ちしてしまった。

 ああ、運転してるミーシャは大変なのに、情けない。

 不甲斐なさを嘆いている内に、結局俺は、本格的に寝入ってしまったらしい。

 気付いたら車は止まり、ミーシャが優しく俺の肩をトントンと叩いていた。

「マコト。リヨンまで来た。疲れてるみたいだから、今晩はもう休もうか」

 ハッと目覚めて驚きながら身を起こし、シートベルトを外した。

 フロントガラスの前には、オレンジ色のライトで照らされた建物の壁が見えている。

 時計を見ると、もう夜の8時だ。ここはどうやら、どこかの駐車場みたいだった。

 エンジン音が止んで静かになった車内から降りると、全身が引き締まるような澄んだ冷たい空気に包まれる。

 ダッフルコートを着てきたけど、それでも寒い……。

「見て、マコト」

 はしゃぐように頭上を指したミーシャにつられて上を見ると、そこには、オレンジ色にライトアップされた巨大な大聖堂が聳えていた。

 細かいレース状の彫刻を施された、貴婦人のような佇まいの聖堂に圧倒されながら、ここが有名なリヨンの聖堂だと気付く。

「おいで」

 ボンヤリしていたら手をぎゅっと握られて、俺は無理やり駐車場の出口へと連れていかれた。

 出口、と言っても壁やしきりがある訳じゃなく、目の前の公園と駐車場の間を低い柱が並んでいて――そこを越えて行くと、今いる小高い丘の下に、光の海のような美しい夜景が広がっていた。

「わぁ……」

 大聖堂のある小高いフルヴィエールの丘から見る、夜の帳の下りた新旧の市街――話に聞く以上に華やかな、光の海がそこには広がっていた。

 この街で合流する二本の大きな川を囲んで輝く古い街の灯と、麓でひときわ神々しく輝く、薔薇窓のあるゴシックの大教会……。

 ミーシャと観覧車から見たパリの夜景を思い出してしまって、切なくなった。

 俺、もう、二度とあそこには戻らないかもしれないんだな……。

 感傷に飲み込まれそうになった俺の手が、ミーシャの手でぎゅうっと力を込めて握られる。

「マコト、寒くないか? ……」

 気が付いたら隣に逞しい身体が密着していて、かーっと頰が熱くなった。

 まって、ちょ、何で俺たちこんなくっついて、しかも手を繋いでるんだっけ!?

 その上、周りをよく見たら夜景を見ながらキスしたり抱き合ったり、イチャついてるカップルばっかりでビビった。

「みっ、ミーシャ、泊まるところ探そうっ」

 慌てて手を離そうとした俺の身体が、腕で巻き取るみたいに抱き寄せられる。

「寝顔、可愛かった。……」

 耳元で囁かれてドキッと心臓が跳ね上がった。

 視線を上げて相手の顔を見た途端、一瞬触れるだけのキスが降ってくる。

 身体の内側が熱く波立つように高まって、抵抗できずにただ、唇を受け止めることしか出来ない。

「安心して一緒に眠れる場所、探さないとな……」

 低い囁きに、ゾクリと背筋が疼く。

「わ、分かった、から、少し離れて……」

 やっとの事で拒絶すると、ミーシャの体が名残惜しげにそばを離れた。

 ――それを寂しいと感じていることに気付いて、恐ろしくなる。

 ずっと一緒にいられるとは思えない……なのに、離れたくないなんて。

 今の関係が壊れたら、俺は一体、どうなるんだろう……。

[newpage]

 俺とミーシャはその晩、フルヴィエールの丘の上にあるホテルに泊まることにした。

 クリスマスシーズンなせいか、リーズナブルな部屋は全部埋まっていて、結局ミーシャの経済力に頼り、俺にとってはとんでもなく豪華な部屋に……。

 気にするなって言われたけど、しない方が無理だ。

 いつか絶対返すからって言ったけど、あんまり真面目に受け止めて貰えなかった。

 ホテルはロの字型の3階建てで、19世紀の修道院を改築して造られた歴史ある建物らしい。

 ライトアップされた芝生の中庭に面したホテルのレストランで夕食は、緊張してとても食べた気がしなかった。

 俺のラフ過ぎる格好じゃ入れなくて、ミーシャから上等なジャケットを借りたので、ワインで汚さないかもすごく心配で……。

 それでも食事の終わる深夜にはお酒も回り、リラックスしてフワフワした気分で部屋に行った。

 客室に入ると、内装はクラシカルな建物からは想像もつかないほどモダンで、白壁にファブリック類を全てブルーにした北欧風のシンプルな家具で統一されている。

 床は暖かな色味の白木のフローリングで、居心地のいいアパルトマンみたいだ――とホッとしたのもつかの間、ベッドが大きなダブル一台なのが見えて、寝室の手前で足が固まった。

「……っ」

「風呂はどうする? シャワーでいい?」

 後ろからそっと近寄られて訊かれ、はっと我にかえる。

「あっ、……うん……ミーシャが先に使っていいよ、ずっと運転してて疲れてるだろうし」

「……。一緒に入ろう」

「はひっ?」

 思わず素っ頓狂な声が出てしまった。

「い、いやいや、それはっ……冗談、だよな?」

「本気だ」

 情熱的な雰囲気で眼差しが注がれて、心臓が跳ね上がる。

 あっ、この空気はなんだかまずい気がする……。

 黙っていると、ミーシャは堂々とした口調で理由を付け加えた。

「大人になって急に髪が長くなったから、一人でうまく洗えない」

 いやいや、今までシャワーの時、ずっと自分一人で洗ってただろ……。

「それに、俺が風呂に入ってる間にマコトが誰かに襲われたら心配だ。一緒なら安心だから」

 俺より一回り背の高い分厚い身体でグッと迫られて、寝室から徐々にバスルームのドアの方へと追いやられていく。

「うぅ……わかっ、た」

 お、大人の男同士でシャワーを使うなんて、正直有り得ないと思うけど……非常事態だから仕方がないのか……?

 半ば連行された感じで白い大理石の壁で囲まれた広いバスルームに入ると、中はトイレと大きなバスタブのある空間と、ガラスで仕切られたシャワーブースに分かれていた。

 緊張しながらジャケットを脱ぎ始めると、ミーシャが手を伸ばして手伝ってくる。

「あ、これ、ありがとう……」

「皺にならないようにクローゼットに掛けてくる」

 背後を塞いでいた相手がバスルームの外に出たのを鏡ごしに確認して、少しホッとした。

 さっきのはやっぱり冗談かな? なんて思って、ホッとした。

 黄色人種にしては色が白くて毛が薄いのと、乳首が大きくて乳輪ごとぷっくり飛び出して見えるのが実はかなりコンプレックスで、今まで他人に裸なんか殆ど見せたことがない。

 柔道の時も、男の癖にと言われて下にシャツを着るようにしてたし……。

 しかも、もし一緒に風呂になんか入ったら上半身どころか下半身まで見られる訳だよな。

 大きさっ、全然違うからほんと見せるの恥ずかしい……っ、無理だっ。

 よし、万が一でもミーシャが戻ってこないように、一人でササッとシャワーを浴びて「もう終わったよ」みたいな感じで出て行こう。

 ……と、決意してサッサとシャツとデニムを脱ぎ、シャワーブースに飛び込んだ直後だった。

「マコト」

 低くて甘い声とともに、いつのまにか全裸になった逞しい裸のロシア人が俺の背後からヌッと入ってきた。

「ひゃあっ!? い、いつのまに!?」

「服、ベッドルームで脱いでから来た」

 ルームスリッパ一足きりで裸で歩いてきたのか……窓から誰かに見られるかもしれないのに……肉体美に自信のある人間はこれだから……っ。

「マコト、シャワー出すよ」

 狭いブースの中で背後から腕がぬっと伸びて、取っ手を引き出す構造のシャワーのカランを掴んで引っ張る。

 温かい湯が、上からざあっと男二人の身体にかかった。

 ミーシャの身体が俺の背中にくっつきそうな程近くて、緊張感がハンパない。

「み、ミーシャ……髪、洗おうか……?」

 さっさと仕事を終わらせようと、ドギマギしながら後ろに向かって聞いたら、途端にガバリと背後から抱き締められた。

「うあっ……っ!」

 驚きすぎてパニックになると同時に、硬いものがゴリっと尻の狭間に押し付けられる。

 こ、これ、って……。

「みっ、――あっ」

 身体が更に押され、冷えたタイルの壁に身体の前面が押し付けられる。

 水音に混じって、ハアハアというミーシャの呼吸音がすぐ耳元で聞こえた。

「我慢できない……、マコト……、触らせて……それ……」

「っえ……っ」

 それって、どれ……!?

 分からなくて戸惑ってる内に、胸の筋肉の張りを優しく持ち上げられるみたいに手のひらで触れられた。

「……!?」

 指先が飛び出し気味の乳輪をなぞって、その先の乳首が強くつまみ上げられ、女の子みたいな悲鳴が喉から漏れる。

「ひあン……っ」

 クニクニと指先でソコを優しく捏ねられて、チリチリとした熱っぽい疼きが高まっていく。

 ハグやキスされる度に感じていた、下腹がきゅんと甘苦しくなる感覚がぶわあっと大きくなって、膝が小刻みに震えた。

「可愛い声……マコト、感じるとそんな声出すんだ? やらしいな……」

「や、やめ……遊ばない、っでっ……っひ」

 お尻に熱くて硬いものが押し付けられたまま、ゆっくりと擦り付けられている。

 ミーシャが俺で欲情してるんだと肌で感じて、凄く混乱してるのに、何故か俺まで興奮が止まらない。

「マコトのチンチンも本当に可愛いな……勃起すると皮が剥けるんだ?」

 肩越しに見下ろされて、脇の下でミーシャの両腕を挟んで制止しつつ、両手で股間を隠した。

 手のひらの下で、俺のちんぽは完全に勃って、ドクッドクッと血管が脈打っている。

 なっ、何でこんな……っ。

「ミーシャっ、やっぱりこんな狭い場所に男同士で一緒に入るなんてっ、おかしいよ……! こういうのは駄目だと思う……っ、まして、君はまだ心が子供なんだし……っ」

「そんな勃起させといて言うか……? まぁ、いいか。分かったよ、いったん俺は出る。でも――その前に俺の髪を洗ってくれ」

「え……っ」

「長いから、自分じゃ洗いづらい。ほら、俺は目をつむってしゃがむから……こっちをむいて」

 ドキドキと痛いほど心臓が激しく打つ。

 俺の胸に回っていた腕が離れて、背中の後ろで、ミーシャが長身を屈める気配がした。

 股間を隠したまま恐る恐る振り返ると、たしかに彼はシャワールームの床にしゃがんでうつむき、目を閉じて頭を差し出している。

「分かった……髪だけ、なら……」

 見てないなら、別に前は隠さなくてもいいかも……?

 熱くなってる股間からそっと両手を外すと、指先にとろぉっと体液が付いていて、慌ててシャワーでこっそり洗い落とした。

 ああもう……俺ってこんなエッチだったっけ!?

 母さんが死んでから、ひたすら勉強とバイトばっかりだったし、抜くのもサボりがちっていうか……そんな時間があれば睡眠時間に充てたい方だった。

 だから、自分は性欲が薄い方なんだと思ってたのに。

(はっ、早くミーシャの髪を洗って、出てってもらわないと……っ)

 天井に近い壁に付いてたシャワーヘッドを取り外し、ミーシャの美しいブロンドに指を絡ませながら濡らしていく。

 俺のとは全然違う、細くて柔らかくて透き通るような色の髪。

 指を通すと結構絡んでて、確かに、慣れてなくて自分で洗うのは大変だったのかなって思った。

 ブラシをかけてる様子もあまり見なかったしな。

 やっと絡みを解いて、壁際に備え付けられてるシャンプーを手にとり、泡立てながら地肌を洗い始めると、ミーシャの顔がぐっと俺の方に近寄ってきた。

「ちょっ」

 俺のまだ半勃ちのちんちんがくっついてしまいそうで、後ろに腰を引く。

 途端、尻が壁のタイルにぺたんとくっつく感触がした。

 狭過ぎて逃げ場がない……!

 その内にどんどん顔が迫ってきて、かろうじて横に避けたけど、ちんちんスレスレの腰の辺りに鼻と唇がくっついて――その瞬間、べろおっと恥骨の横辺りを舐められた。

「っあ!」

 温かくて生々しい舌の感触に、くすぐったいような快感が生まれる。

 さっきの乳首もだけど、性器じゃない場所がこんな風に気持ちいいとかっ、俺の身体はどうなってるんだ……!?

「待っ、」

 隅の方に逃げようとして開いた太腿を、両方ともガッチリと手で掴まれた。

 彫りの深い目蓋を閉じたミーシャの、半開きの唇と高い鼻先が腰から太ももの内側へと移っていく。

 その、相手の顔の皮膚や、濡れた唇の表面が触れるだけの感触までゾクゾクと気持ち良くて、長い髪が絡む指を強く握り締めてしまった。

「はあっ、ぁア……っ」

 ヤバい、こんなの本当に、……っ。

「はっ、離して、顔、ちか……はぅ……っ」

 しかもその瞬間、太腿の間でブルブルしていたタマに唇で優しく吸い付かれて――。

「無理無理っ、あはぁぁ……」

 なっ、なんて所にキスしてる……!?

 完全に腰が砕けてる俺のそこを、タプン、タプンと舌の表面で転がすみたいにしゃぶられて、理性が飛んでいく。

 目を閉じて大きく舌を這わせているミーシャの顔が、してることはエゲツないのに、神々しいくらい綺麗でうっかり見惚れてしまった。

 こ、こんな美形の男の人がっ、俺のタマを舐めまくってるとか……っ、今までのことも含めて全部夢かな……っ?

「んあっ、あっ」

 痛いくらいギンギンになってるペニスにも、ミーシャの指がそっと添えられ、コスコスと裏筋を撫であげる。

 初めて他人の手で擦られる、その感触のあまりの気持ち良さに、トロトロの先走りと恥ずかしい声が止められなくなった。

「それぇっ、むり、ちんちん両方、きもちよすぎて無理っ、やめて、勘弁……っ」

 涙目で見下ろしたら、ラピスブルーの瞳が完全に見開いて上目遣いに俺をじっと見ていた。

「あっ……」

 見られてる。

 俺の一番恥ずかしい場所が、ガチガチに勃って、汁を垂れ流してるとこを……っ。

「みっ、見ないで、ミーシャ、いやだ」

 動揺してパニックになってるのに、チュクチュクとタマを吸われながら絶妙な力加減で竿を扱かれて、腰が疼くのを止められない。

「あー……っ、も、そこはぁ……っ」

 前のめりになって膝をガクガクさせていると、手と口の位置が次第にズレてきて、唇は俺のペニスの裏筋をねぶり上げ、手の方はタマの方に移り始めた。

「!?」

 分厚い手のひらでヤワヤワとタマを転がされながら、今度は、ミーシャが舌で俺のちんぽをたどり、その先をヒリヒリする程感じやすい亀頭に付けた。

「んんンっ!」

 赤い舌が、わざと焦らすみたいに俺の尿道口をレロっ、レロっと間欠的に責め始める。

「あっ、ひっ!」

 ビクン、ビクンと腰が勝手に跳ねて、イク寸前の火花の散るような快感が何度も弾けた。

 い、イキそうなのにっ、イけなくて、辛すぎるっ……!

 しかも、ミーシャの舌には俺の垂らした先走りが糸を引いていて、その凄絶に艶めかしい光景は、見てるだけで頭がおかしくなりそうだ。

 あぁ、こすって欲しい……思いっきり、ちんぽ擦りたい……、イキたい、出したい……っ。

 焦れて浅ましく前後に腰を振っている俺を、体液で唇を濡らしたミーシャが満足げに見上げ、笑った。

「髪、洗ってくれないのか……?」

「……あ、ぁ……、ご、めん……っ」

 何が何だか訳が分からず、ハアハア息を乱したまま、彼の頭に指を立てて懸命に擦る。

 あぁ、髪を洗うよりも、この泡だらけの手でちんぽ思いっきり擦りたい……でも、そんな事をしたら……。

 涙目になりながら指を動かしていると、ミーシャが意地悪く唇を引いて笑った。

「マコト、洗い方がいやらしい……そんな風にコスりたくて堪らないんだ?」

「ちっ、違……!」

「いいよ、擦っても。俺の前でシてみる?」

 物凄く我慢してるのに挑発されて、涙が出そうになる。

「でっ、できるわけないだろ、人に見られながらなんてっ……っ!」

 そもそも、髪を洗うだけのはずだったのに、どうしてこんなことになった!?

 相手は子供だから仕方ないけど、やり方があり得ない……こんなエッチな意地悪の仕方をどこで覚えたんだっ。

「何で、どうして俺にこんなことするんだ……っ」

「マコトが好きだから……俺から離れられないようにハマらせたいんだよ。マコトが擦れないなら、俺が擦ってやる……」

 うっとりするような微笑と共にミーシャが宣言して、その艶やかな唇が俺のちんぽを頭からすっぽりと咥えた。

 人に触られたのだってさっきのが初めてなのに、さらなる非常事態に頭の中が真っ白になる。

 自分の恥ずかしい場所が他人の口の中に、というビジュアルだけでも衝撃だし、その感触はもちろん、手でするのとは比べ物にならない温かさと密着度だった。

 しかも俺の体液でべっとり濡れた唇が、この上なく敏感になっている陰茎を優しく締め上げながらヌルヌル上下し始める。

 そのうち、舌を回しながら亀頭を責められたり、ジュッポジュッポと激しい水音を立てながら吸われたりし始めて、足の指の先が痙攣するほど強い快感が俺の下半身を支配した。

「あっ、だめ、やめっ、ぅ、はあぁっ」

 周りのタイルに俺の恥ずかしい喘ぎ声がきんきん響く。

 思わず泡だらけの手で口を押さえようとして、でも間に合わなかった。

「あ! は、ごめっ、ん、ふぁっ、あ〜〜っ……!!」

 舌使いと吸引の信じられないほどの気持ち良さに、俺は情けない悲鳴を上げながら、ひとたまりもなく精液を噴いていた。

 それも、ミーシャの口の中にちんぽを擦り付けながら……。

 

 

 ――そこから先はもう、色んな衝撃で放心状態になってしまって、ベッドにたどり着くまでの記憶があやふやになるほどだった。

 辛うじて覚えてるのは、シャワーブースの中で腰が砕けて座り込んだ俺の目の前で、ミーシャが自分の太いペニスを何度も擦って、その精液が俺の頰や首筋にいっぱい飛んだこと。

 他人が間近で自慰をしてるところなんて初めて見たし、ましてや出す所に居合わせるとか絶対にないし、ダブルでショックだった。

 それも、顔だけなら女性よりも綺麗な男が、あんな……。

 艶めかしく眉を寄せ、俺の名前を呼んで、好き、って言いながら。

 充満する雄の匂いと、ねっとりと温かい精液の感触……。

 オナニーしてる時の彼に感じたゾワゾワするような感情は、俺が身近な人間に対して初めて感じた欲情だったのだと思う。

 逞しい腕で抱かれながらバスルームを出て、バスローブを着せられて――ようやく寝室のベッドに倒れこんだ今も、何度も彼のイク時の表情が浮かんで、出したばっかりのはずの身体がムズムズした。

 俺は、どうしちゃったんだろう……。

「着替えを手伝おうか?」

 Tシャツと下着だけの寝間着に着替えた後で同じベッドに横になったミーシャが、肘をついて頭を支えながら俺の方を向いて訊いた。

「いい……」

 断ったけど、起きて荷物を漁る気力が起こらない。

「……俺があんなことしたから、怒ってるのか?」

 心配そうな口調で聞かれて、俺は寝たままぎこちなく首を振った。

「……ううん……。俺、あんなの初めてだったから……ビックリしたんだ」

 正直にそう答えてから、ふと疑問に思ったことを尋ねてみた。

「ミーシャは男にあんなこと、した事あるんだね……?」

「……生きるために仕方なくな。大人から金をもらう手段としては一番効率良かったし」

 それを聞いて心が沈んだ。

 12歳の彼はどれだけたくさんの嫌な目に遭ったんだろう。

 俺が12歳の時は何も考えてなかった。

 習ってる柔道の昇段試験のことや、量り売りの駄菓子を買うためのお小遣いのこと、それに、しつこくからかってくる同じクラスの男子の事……、そんなことで毎日頭がいっぱいだったと思う。

 黙り込んだ俺に、ミーシャがハッと付け加えた。

「……でも、今日のは金のためとかじゃなくて、俺がしたくてしたんだ……。俺も、こんなことは初めてだ。しゃぶったら、潔癖なマコトがどんな顔するのか、見たかった……」

 布団の中で手が伸びてきて、俺の頰に触れる。

「嫌だったか……?」

「……ううん、嫌じゃなかったよ……。でも、こんなことはもうやめて欲しい……」

 触れられている頰が熱い。

 この手に擦られたことを思い出して、恥ずかしい部分にまた血が集まっていく。

「何で? 男同士だからか?」

「違うよ、そうじゃなくて。……きっといつか、君は俺にこんなことしたのを後悔すると思って……だって今、ミーシャの心はやっぱり12歳の子供なんだし」

 そう言った俺の言葉を、相手は即座にハッキリと否定した。

「絶対に後悔なんかしない。大人に戻ったって、ずっとマコトを好きでいる」

 その少しも迷いのない口調は、俺の心を激しく揺さぶった。

 涙が勝手に溢れてきて、ミーシャが心配そうに眉をひそめる。

「どうしたんだマコト……ごめん、変なこと言ったか?」

 彼の親指で涙を拭われながら、首を振った。

「何でもないよ。……有難うミーシャ……俺を好きになってくれて嬉しい……。俺も君のこと、好きだから」

 そこまで言った途端、逞しい身体が布団を跳ね飛ばし、俺に覆いかぶさるように抱きついてきた。

「ああ、マコト……嬉しい、本当に好きだ……っ」

 音を立てながら顔中にたくさんキスされて、髪に頬ずりされて――その喜びようが余りに無邪気で可愛くて、愛おしくてたまらなくなってしまったから、『……友達として』って続けようとしたのに、言えなくなってしまった。

 だって、俺の「好き」って言葉ひとつでこんなにも彼が喜んでくれるなんて思ってもみなくて。

 温かい涙が更に溢れて止まらない。

 まるで、ずっと空いていた心の穴がふさがったように。

 そして同時に、いつか彼と離れる時が来たら、という不安が頭のどこかに浮かんだ。

 出来るなら、ずっと一緒に居たい……っ。

 切ないほど湧き上がるそんな思いに突き動かされて、必然的に気付いた。

 俺も、彼に恋をしてるんだと。

 友情じゃなく、恋を。

 そしてその時、俺の心の何かが完全に変わってしまった。

「もしかしたらミーシャは本当にずっと俺を好きでいてくれるんじゃないか」という、ずるくて安易な考えが浮かんで……それは一瞬で俺の意識を支配し、現実的な思考を麻痺させた。

 もしも記憶が戻っても、彼は俺を好きで、俺も彼を好きで、そんな関係が続くかもしれない……。

 そんな甘すぎる見通しに突き動かされて、気付いたら俺は自分からミーシャの唇にチュッと口付けていた。

 それはすごくぎこちないキスだったけど、乱れ落ちる長い髪の陰で、ミーシャは泣きそうな顔でほほえんでいた。

「ああ、マコト……生きてて一番幸せだ、今死んでもいいくらい」

 その言葉に心がフワフワして、まるで夢の世界にいるような気分になる。

 背中をギュウッと抱きしめ合って密着すると、互いの激しい鼓動の音が胸に響いて皮膚が溶け合うように心地いい。

 大好きな誰かと肌を合わせることって、こんなに幸せな事だったんだ……。

「ミーシャ……」

「マコト、一緒に日本に行こう。マコトのもう一つの故郷で、一緒に暮らそう?」

 胸がいっぱいになる俺の唇を、ミーシャの唇が深くふさぐ。

 目もくらむような幸福感と、一抹の苦い不安を感じながら、舌を差し出してキスを受け入れた。

 それは今まで彼とした中で一番甘くとろけるようなキスで、本当に危ないくらいに気持ちよくて……舌先を誘うように吸われただけでちんぽがズキズキうずいて、堪らなかった。

 まるで自慰を覚えたばかりの頃みたいに、身体が勝手にみだらな期待をし始める。

 ミーシャも俺の異変に気付いたのか、ゴリゴリと自分の硬い雄を俺のそれに押し付けてきて、その熱と重みに圧倒された。

「あ……ぅ……っ、だめ……」

「マコトの『だめ』は、『もっとして』なんだろ? いい加減気付いた」

 悪戯っぽくささやかれて、顔が火を噴きそうに熱くなった。

「そういうのも可愛いけど、もっと素直にねだってみて……どうして欲しい?」

 不自然に押し上げられた下半身の布の先端をグリグリッと擦り合わされて、甘えた声が喉から漏れてしまう。

「はぁ……っ、そこ……気持ちい、もっと、擦りたいぃ……っ」

「俺もだよ……。マコトのこれが俺のに懐いてるの、堪らない」

 バスローブの合わせがはだけられ、前身頃の合間からすっかり勃起しきった俺のモノが取り出される。

 さっきもしてもらったばかりなのに、浅ましい自分が恥ずかしくて、でも、期待が止まらない。

 俺の上に覆い被さっていたミーシャは、下着をずり下ろして大きなペニスを露出し、ピンクで美味しそうな色をした先端を俺の亀頭に押し付けてきた。

 先走りでお互いそこがヌルヌルしていて、腰を密着させて擦ると、ミーシャの金色の柔らかい陰毛と、俺の黒くて太い陰毛がベトベトに絡み合う。

 エッチな摩擦でちんちんの全部が気持ちよくて、喘ぎが止まらなくなった。

「一緒にイく?」

 息を荒くしながら、ミーシャが大きな手で俺のと彼のペニスをぴったりとにぎり合わせる。

 俺がうなずくと、溢れる体液を混ぜるみたいに指の腹で尿道口を擦られ、腰がいやらしく動いてしまうのを止められなくなった。

「んぁっ、気持ちいいっ、はあっ、あっ」

 動きすぎて時々ペニスが離れてしまうたび、色も形も違う二本の肉棒の間にニチャアっと泡立った液体が長く糸を引く。

 それが、男と女みたいに入れたり入れられたりしてる訳じゃないのに、いやらしく混じり合ってるのを感じて、堪らない。

「はあっ、出そうっ、……もっと……」

 燃えるように敏感になってる粘膜同士を押し付けて、快楽を貪っていると、はだけたバスローブの間にミーシャが顔を埋め、舌で俺の乳首を弄び始めた。

「ん……っ、くふぅ……っ、そこっ、あっ」

 そこもペニスと同じくらい、充血して敏感になっていて、整った歯で柔らかく噛まれた瞬間、俺は腰をビクビク浮かせてイキ果てた。

「あーっ……! んはあっ、あ……っ」

 俺の精液がミーシャのペニスをますますドロドロに濡らして、彼の手がそれを掬って擦りつけるように二本のモノを汁まみれにしながら激しくしごき立てる。

 俺はもうすでにイっていたので、その愛撫は次第にむせび泣くほど辛い刺激になり始めた。

「ま、まって、それむり……っ、本当に無理だからぁ……っ、ひぁっ」

 よがり狂って泣きながら痛痒い感覚に翻弄されて、息も絶え絶えになる。

 こんなの、知らない。

 こんな凄いこと教えられたら、俺、ミーシャと会う前の……恋をする前の自分に、戻れない……っ。

「それ以上したら死んじゃうっ、んぁ、あ〜〜っ!」

 激しく擦られながら時折亀頭を指でグチョグチョ責められて、限界になった俺のちんぽからおしっこみたいな液体がプシュウッと噴いた。

「はぁあ……っ、な、んか、変なの出ちゃ……っ、あっ」

 足の爪先まで痙攣して、死ぬんじゃないかと思うような激しい絶頂感に襲われる。

「はあっ、やだ、怖い、あぅう……っ」

 ちんちんが壊れてイキっぱなしになったような状態に陥って、啜りあげながら泣きじゃくることしか出来ない。

 それでもまだ擦られ続け、今度はミーシャが射精を始めたのか、ビクン、ビクンと大きく震えた。

「はっ、……はぁ……っ」

 俺の肩口に額を押し付けながら出した彼の顔は、色っぽくて美しくて、苦しいのに焦がれるような気持ちで胸が一杯になる。

「大丈夫か? ……ごめん、我慢できなかった……」

 扱きあげていた手がやっと止まって、愛おしむように背中を抱き締められて、髪にキスされた。

 その腕の中が大きくて心地よくて、そうだ、ミーシャはカラダは歳上なんだよなって思い出す。

「だい、じょぶ……、気持ちよすぎて泣いただけだから……」

 汗ばんだ顔に優しい笑みを浮かべ、ミーシャが俺の頬に口付けた。

 しばらく呼吸を整えるうちに、身体の火照りが少し治まってきて、強い眠気に意識が遠のく。

「好きだ、マコト……」

 ささやかれながら、重いまぶたを閉じた。

 二度も射精したせいか、体力が限界に近かったのかもしれない。

 温もりに抱かれて、満たされた気持ちのまま、俺は深い眠りの中に落ちていった。

[newpage]

 翌日の正午頃、ホテルでチェックアウトを済ませた後、俺たちはイタリアに行く用に借り換えたレンタカーを飛ばし、リヨンからずっと東のシャモニーに向かった。

 シャモニーはケーキの名前にもなっているモンブランというアルプスの山の麓にあって、スキー客と登山客で賑わうリゾート地だ。

 本当は朝一で出発したかったのだけど、あまりにも過激な初体験が響いて、俺が盛大に寝坊してしまって……出発がだいぶ遅くなってしまった。

 ミーシャは早く起きていたらしいんだけど、俺が起きるまでずーっと、俺の寝顔を見ていたとか。

 見てたなら何で起こさなかったの!? ……って言ったけど、後の祭りだった。

 変に大人な部分があったり、こんな風に行動が読めないこともあったり、戸惑う……。

(――今日中にアルプスを越えられるかなあ)

 車の助手席で道路地図を眺めながら、俺は今更ながら落ち着かない気持ちになっていた。

 ラーメン屋には長く休むことを電話で連絡したけれど(そして店長からその場でクビにされた)、大学には休学や退学の手続きはしていない。

 学校も仕事も無くなって……この先、うまく命が助かったとして、俺はどうやって生きていけばいいんだろう。

「マコト? 何か忘れ物でもしたのか?」

 俺の漠然とした不安を察知したのか、ミーシャが心配して声をかけてくる。

「ううん、大丈夫。……でも、なにもかも捨ててフランスを離れるのが少し、怖いような気がして。育ててもらった国だったから……」

「ずっといたかったのか?」

「うーん……本当はね、大学院まで卒業して、国連の職員を目指そうと思ってたんだ。世界で、貧しい人や、困ってる人を助けられると思って」

「……。そんなこと、ずっと考えて生きてきたのか?」

「ずっとっていうか、母さんが死んでからかな……」

「マコトはやっぱり、俺の天使だな」

 深く感心したように言われて、笑ってしまった。

「あはは、まだそんなこと言ってる」

「だって、ロシアにいた時の俺みたいな子供を沢山救うんだろう? それって最高の夢だな……。ますます好きになった」

 改めての告白に、頰が熱くなりながら運転席の方を見る。

 完璧な横顔にうっかり見惚れながら、俺は言葉を続けた。

「いや、でももう、諦めなきゃいけないんだ……英語とフランス語ができて、大学院まで出てないと駄目だって言うし……語学は一人でも頑張れるけど、お金がないから、フランス以外では大学院はもう」

「諦める必要なんてない。どこに行ったって、マコトならきっと夢をかなえられる」

 力強くそう言われると、本当にそんな気がして来るから不思議だ。

 好きな人の言葉って、人を強くするのかもしれない。

「そうだね……頑張るよ俺」

 答えると、ミーシャも前を見ながら嬉しそうに微笑んだ。

「――俺も、夢が欲しいな。俺の夢は取り敢えず、世界中どこでもマコトについていくことにする」

 その言葉に、ちょっと泣きそうになってしまった。

「いいね、嬉しいよ。ありがとう、ミーシャ」

 ……誰かに自分の夢を話したのは初めてだった。

 それをこんな風に肯定して、応援してもらえることも。

 温かくて、溢れるほど心が満たされる……。

 密かにこぼれ落ちそうになった涙を拭っていると、

「――うっ……」

 急になんだか痛そうな呻きが隣から上がって、ハッとした。

「どうしたの、ミーシャ」

 びっくりして話しかけると、運転している彼の顔がいつにも増して白くなっていた。

「疲れてる? 大丈夫?」

「大丈夫だ……少し頭が痛かっただけで、平気だ。時々、昼間にこうなるんだ……すぐにおさまる」

 頭……。打ったところが痛むんだろうか。

 一緒に暮らしていた時も、日中はほとんど会わなかったから、彼が痛みに苦しんでいたなんて知らなかった。

 後悔と焦りで胸が押しつぶされそうになりながら、俺はミーシャに真剣に言った。

「ミーシャ、やっぱり病院に行った方がいいんじゃ……どこかで停まろう」

「いや、急がないとダメだ。俺は平気だから、心配するな」

「でも……っ」

「時間がない」

 キッパリと言われて、仕方なくだまる。

 すると、ミーシャの片手が伸びてきて俺の左手をギュッと掴んだ。

「好きだ、マコト……」

 痛みのせいなのか、てのひらが汗ばんでいてますます心配になった。

「俺も……好きだよ。無理しないで、ミーシャ……」

 彼との関係は、未だに、何て言い表したらいいのか分からない。

 でも、俺の中で彼は既に必要不可欠な存在になりつつある。

 それがどういうことなのか、本当によく考えれば危ういことだと分かっていたはずなのに……フランスを出ようとするこの車と同じようにもう、俺の心は自制のしようがなくなっていた。

 

 

 

 ミーシャ自身の言った通り、痛みは数十分で引いたようだった。

 表情の明るくなった彼は車をぐんぐん飛ばして、午後3時過ぎ、日暮れが迫る頃には俺たちはシャモニー・モンブランの小さな町に入った。

 ……と言っても、少し寄るだけで、目的はこの土地にあるモンブラン・トンネルだ。

 その前にある、谷あいに広がるシャモニーは、雪を被った三角屋根の木造建築が並ぶ「アルプスの少女ハイジ」とかに出てきそうな素朴な街並みが続く。

 比較的歴史は浅くて、魔の山と言われていたモンブランが18世紀に初めて登頂されて以来、登山ブームでこの街が開発されたらしい。

 通りを歩いている人の人種もさまざまで(登山かスキーを目当てに集まってるせいか、みんなスポーツウエア姿だ)、日本人らしき人も結構見かけた。

 ……俺も、観光で来たならゆっくり立ち寄って、氷河を見に行きたかったなぁ。

 でも今日中にイタリア側に行かなきゃならないので、シャモニーでは遅い昼食を取るだけで済ませた。

 給油を済ませてから町を出て、雪をかぶった針葉樹の深い森を切り開いて造られた道を車で上っていく。

 蛇行する道を進んだ果てに、ヴィーナスの乗っている貝みたいな、白いつづら折り状の庇のついたトンネルの入り口がやっと見えてきた。

 モンブランの岩盤をぶち抜いて造られた、全長11.6キロメートルの大トンネルだ。

「あのトンネルを抜けたらイタリアなんだね」

「うん。フランスとはさよならだな……」

 ミーシャが肩をすくめ、入り口前の料金所に車を寄せ、決して安くない通行料を払ってくれた。

 愛想のないフランス人職員とやりとりする彼の背中を申し訳ない気持ちで眺めつつ、トンネルの奥に視線を馳せる。

 平日の夕方のせいか、トンネルを行き来している車は少ない。

 俺たちの後ろにも特にほかの車は来ていないみたいだった。

 森の中というのもあると思うけれど、あたりは妙に静寂に包まれていて、シンとしている。

 こんなに静かだと、なんだか、胸騒ぎがするような……。

「行くよ、マコト。……どうした?」

 外を見ていた俺に、不思議そうにミーシャが訊いた。

「ううん、何でもない」

 答えると、ミーシャはアクセルをきかせ、薄暗いトンネルの中へと車を走らせた。

 中は対向二車線きりの右側通行だ。

 中央分離帯とか仕切りのようなものはない。

 ナトリウムランプのオレンジの光の中で、イタリア側からやってくる車とすれ違うのは結構緊張感があった。

 制限速度は70キロとのんびり目だし、道は十分幅があるから、ぶつかるなんてことは無いとは思うけど。

 でも、11キロもあるトンネルの中で事故が起きたりしたら、絶望的な状況だろうな……。

 バックミラーに映っていたトンネルの外の世界が瞬く間に小さくなっていく。

 ナポレオンもハンニバルも、峠を越えなくちゃイタリアには行けなかったのに、便利な時代だ。

 時折通り過ぎる非常灯の青い光を目で追いつつ感慨にふけっていると、閑散とした対向車線から、黒い車が一台やってくるのが見えた。

 やけにヘッドランプが眩しく感じる。

 ハイビームにしてる感じじゃないのに……。

 謎に思っていると、ミーシャがアクセルを踏み込みながら俺に低く告げた。

「あの車、姿勢がおかしい。……全速力で突っ切ってさっさとすれ違おう」

「えっ!?」

 驚いた時にはもう、エンジンが限界まで加速していた。

 メーターが制限速度の70キロどころか、倍以上のシャレにならない数値を差し、トンネルの照明が飛び去るのがどんどん速くなる。

「みみみミーシャっ!」

 運転席を向いて叫んだ時、ミーシャのがわのウィンドウの外を、さっきの黒い車がすれ違った。

 トンネルの中なのに後部座席の窓が全開していて、身を乗り出さんばかりの黒ずくめの男たちをすし詰めにした車が一瞬で過ぎ去る。

 リアガラスも真っ黒な、見るからにヤバい雰囲気の車だ。

「多分トンネル内で無理やりUターンして引き返してくる。このまま出口までつっこむ」

 やってることとは裏腹に、氷のように冷静にミーシャが言い放つ。

 俺たちの前を走る車が目の前にグングン近付いてきていた。

 普通の車は制限速度内で走っているから当然だ。

 だが、スピードは緩まらない。

「無理だっ!! ぶつかるっ!」

 俺の叫びが殆ど悲鳴になったその瞬間、ミーシャが素早くハンドルを切り、一瞬で反対車線に入った。

「ぎゃーっ!!」

 反対車線には当然、イタリアからこっちに向かってくる車がいるわけでっ。

 数百メートル先にいた対向車からのものすごいブレーキ音とクラクションが鳴り、俺たちの車は前方の車を追い越してギュン、と元の車線に戻り、間一髪で衝突を避けた。

「ひーっ!」

 シートベルトの下で身体が左右に揺さぶられまくり、手も足も冷や汗でびしょ濡れだ。

 だが、運転してる本人は涼しい顔をしている。

「ミーシャ、無茶はやめて! 捕まっちゃうよ!?」

「殺されるよりマシだろ。――マコト、頭を下げろ!」

 ミーシャが運転しながら身を低め、俺も反射的に助手席で膝を抱えるように上体を倒した。

 途端、ガガガッという音と共に後ろと前のガラスが激しい音を立てて割れ、凄まじい風が車内に吹き荒れる。

「あひあああっ!?」

 何が起こったのか分からず、烈風の中でミーシャを見上げた。

「だっ、大丈夫っ!?」

「撃って来やがった……そのままの姿勢でいろ、マコト!」

 再び加速を始めた彼に何も言えないまま、視線だけを上げてこっそりとバックミラーで後ろをうかがう。

 黒い車の後部座席の窓から、サブマシンガンを構えたレスラーみたいな屈強な男が左右から一人ずつ、身を乗り出してこっちを狙っているのが見えた。

 本当に銃で撃たれて窓が割れたのだとやっと理解して、血の気が引く。

 最初車の姿勢がおかしかったのは、おそらく後部座席のあの男達と武器の重みのせいだ。

「ミーシャ、あいつらヤンミンの仲間かな……どうしよう……!?」

「引き離す」

 忌々しそうにミーシャが言い、止める間もなく彼は長い髪を風でメチャクチャに靡かせながらアクセルを全開にした。

 ぶち抜かれた窓から、風のうなりと共に、前方からも後方からもサイレンの音が聞こえてくる。

 凄まじいスピード違反と法律違反、その上発砲騒ぎで、どっちの国からも国境警察が出動したに違いない。

 そして、目だけをかろうじて前に向けたその時、数百メートル先に、俺は絶望的な景色を見た。

 対向車線を、デザインがカッコよすぎる青いイタリアのパトカーが何台も塞いでいて、しかも目の前にも前方車――。

「ミーシャああああっ!!」

 俺は死を覚悟した。

 でも、ミーシャは違った。

 車をギュイーンとどんどん右の壁の方へ――俺の側へと寄せ始めたのだ。

「なっ、何する気!?」

「マコト、もっと身体を低くしろ!」

 叫びとともに、大きなショックで車が揺れた。

 それは車の片輪が、トンネルの壁側の少し高くなっている縁石に乗り上げた衝撃だった。

 しかも、あまりのスピードのせいか、そのまま車はバランスを崩し、ぶわーっと横転する勢いで傾いて――。

「うわーっ!?」

 か……片輪走行になってますけど!?

 身体がミーシャの方向へ引っ張られて、シートベルトをしていても運転席の方へ落ちそうだ。

 世界が斜め45度に傾いたままどんどんトンネルの中央へと移動して、俺たちはフルスピードでパトカーと前の車とのわずかな隙間に突っ込んだ。

「うわあああああ!!」

 流石にもう、今度こそ死んだ! と思ったけど、あり得ないほど正確なハンドルさばきで狭い隙間を通過した後、車はガックン! と衝撃とともに元の姿勢に戻った。

 右車線に戻ってそのまま一気に加速し、あっという間に後続を引き離していく。

 後ろで激しいブレーキ音と、車同士がぶつかったような酷い衝突音がしたような気がするけど、気にしている暇もない。

「……っ、はあっ、はあっ、はーっ」

 緊張感と顔に風が当たりすぎてるせいで無意識に息を止めていたらしく、呼吸が戻った途端酸欠みたいになる。

 運転席のミーシャを振り向くと、険しい顔をしていて、額に汗が浮いて、息が苦しそうだった。

「ミーシャ……? どこか、怪我してる?」

 変だなと思って恐る恐る彼の顔を覗き込む。

 荒い息の下で、ミーシャはわずかに首を振った。

「……マコト、もうすぐトンネルの出口だ。この車は捨てて、森に紛れて警察の目をくらませろ……」

「う、うん……?」

 何だか、口調がいつもと違う気がする……?

 不穏な予感に心臓が跳ねて痛くなったその時、吹き込む風がひときわ冷たくなり、目の前が眩しいほど明るく開けた。

 白く雪を被ったアルプスの山々が姿を現し、大型トラックが連なる駐車場が左手に見える。

「イタリアだ……!」

 トンネルをくぐり抜けた感動もつかの間、トンネルに入っていく数台の青いパトカーとすれ違ってギョッとした。

「すぐ気付いて戻ってくる。車を捨てるぞ」

「う、うん!」

 駐車場に素早く滑り込み、トラックの間に隠すように入って車を止める。

 俺はリュックを背負い、助手席側からドアを開けて出た。

 ミーシャも自分の荷物を取り、運転席を出てすぐに歩き出したけど――何故か数歩でふらりとへたり込んでしまった。

「ミーシャ!?」

 片膝をついてうつむく彼に声をかける。

「……何でもない。少し頭痛がするだけだ……」

「ほ、本当に大丈夫!?」

「ああ。急ごう」

 長身がどうにか立ち上がり、彼は支えにするように俺の腕を掴んで歩き出した。

 やっぱり、とても無事とは思えない。

「休んだ方がいいんじゃ」

 言いかけた俺の横で、長い指がガードレールの外を差した。

「……道を避けて、森の中へ」

「わ、分かった」

 そうは言っても、舗装された道路の外は雪が深く積もったひどい急斜面だ。

 しかも日がすでに沈みかけているせいで、どんどん周りは暗くなっている。

 気温もどんどん下がるし、俺はともかく、ミーシャがたえられるんだろうか。

 心配になりながらも二人でガードレールを跨ぎ、木の間を殆ど滑るようにして斜面を下りはじめた。

 雪に足がとられて、思うように進めない。

 頭痛が酷いのか、ミーシャはフラフラで、俺は彼の脇の下から手を入れるようにして肩を貸した。

 吹きかかる呼吸が既に、かなり荒い。

 早く、身を隠せる場所にたどりつかないと。

 膝下まで埋まる深い雪を踏む内に、靴も靴下もすぐにずぶ濡れになり、足先の感覚がなくなり始めた。

 このままじゃ、俺も彼も凍傷になる。

 緊張と寒さがたえがたくなってきた頃に、ようやく木々の間に低い三角屋根の家の並んだ小さな集落が見えてきた。

 確かフランスを出る前、地図でこの辺に村があるのを確かめた気がする。

「ミーシャ、村だ! あそこで少し休もう――」

「ダメだ……すぐにこの谷から離れないと……」

 そう言われたきり、言葉が途切れた。

「!? ミーシャ……!?」

 振り返って彼の方をうかがった瞬間、ホワイトブロンドの髪がふわっとひるがえり、俺の肩を辛うじてつかんでいた手から力が抜けた。

 分厚い身体がバランスを崩し、重力に引っ張られてぐらりと前に傾く。

「危ない!」

 両腕を伸ばして彼の上半身を咄嗟に受け止めたけど、この急斜面ではとても支えきれない。

「あっ――」

 巻き添えになる形で、俺たちはもつれ合いながらゴロゴロと雪の上を転がり落ちていた。

 途中で何度もあちこちの木の根元にぶつかり、身体中に痛みが走る。

「うあっ……!」

 最後に、ゴツゴツしたアスファルトで辛うじて舗装された、川沿いの狭い山道に転がり落ちて、ようやく止まれた。

 身体中が打ち身とすり傷でズキズキするけど、それどころじゃない。

「ミーシャ、大丈夫!?」

 道の真ん中でミーシャの重い上半身を抱き起こして揺さぶる。

 血の気のない白い頰はまるで死人だ。

 気を失っているのか、全然反応がない。

 俺も傷だらけだけど、ミーシャの顔も体も怪我をしてあちこち血が滲んでいる。

 よく見ると髪も血にそまっていて、俺は青ざめた。

「ミーシャ!!」

 まさか、頭の傷が開いたんじゃ……!?

 心が張り裂けそうになりながら叫び、名前を呼ぶ。

 俺の声は冷たい山の空気に吸い込まれるだけで、全然彼は目を覚まさなかった。

 絶望に、身体中から力が抜ける。

 やっぱり、この人を巻き込んじゃいけなかった……。

 後悔に唇を噛んだ俺の背中に、クラクションが浴びせられた。

「!?」

 いつの間にか、背後に車が来ていたらしい。

 シルバーのセダンのドアが開き、スノーボーダーのような格好のニット帽の若い青年が焦ったように運転席から飛び出してくる。

 早口のイタリア語で話しかけられ、俺は夢中で懇願した。

「すみません、この人が怪我をしてしまって……! 助けてください、どうか……っ」

 すると、イタリア人青年はミーシャを見て驚いたように黒々とした瞳を見開き、フランス語で応じてくれた。

「――あんた、フランス語が分かるのか。怪我してるならアオスタの病院まで行ってやる。後ろにそいつを乗せろ。手伝うから」

 

 

 助けてくれた青年はどうやら、地元の青年らしかった。

 ニット帽の下は黒髪の短髪で、よく雪焼けをした顔をしていて、スポーティなファッションに身を包んでいる。

「仕事でよくフランスとこっちを行き来してるんだ。いきなり道に転がってるからビックリしたよ」

「す、すみません……。助けて下さって本当に有難うございます」

 助手席で頷きながら、後部座席で横向きに寝かせているミーシャをチラッと確認した。

 どうしよう、本当に目を覚まさない……。

 動悸で呼吸が浅くなって苦しい。

 早く、早く町についてくれ……。

 アオスタはこの谷にある町で、ちゃんとした病院もあるらしい。

 祈るような気持ちで前を向いた。

 氷河のゴツゴツした山を背景に、針葉樹の森が続いている。

 山道を車で下りてるはずなのに、だんだん森が深くなっている気がした。

 むしろ……登っているような。

 狭い道には先行車も後続車も見当たらず、疑念が浮かぶ。

 まさか……いや、そんなことあるはずがないけれど……。

「すみません、アオスタまであとどのくらいですか」

 乗せてもらっている立場なのに、こんな事を訊くのはどうかと思ったけど、つい不安を口に出してしまった。

 すると、青年はゆっくりとブレーキを踏み込み――静かな森の中で車は止まった。

「……え……?」

 戸惑う俺の横で、イタリア人の青年は無表情な黒い瞳をすっとこちらに向けた。

「残念だったな。あんたの逃亡劇はここでおしまいだよ」






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